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2 見知らぬ場所

 チュンチュンと雀の声が遠くから聞こえてくる。目を開けると、和室の木の天井がまず目に入り、明るい日差しが障子から漏れているのを目の端で感じ、僕は布団に寝かされていることがわかった。四畳半ほどの小さな部屋で、床の間には桃の花が地味な花瓶に差してあり、山水画の掛け軸が飾られていた。

 僕は起き上がろうとしたが、身体中寒気が走り、とても動くことなど出来ないことに気がついた。目をゆっくりと閉じて、布団に力尽きて横たわると、障子がすーっと静かに開いた。入ってきたのはは水色のさらさらとした生地の漢服を上品に着こなし、長い黒髪を頭の上で1つにまとめている青年だった。かなり整った顔立ちをしていて、目は奥二重、白い肌に紅色の唇がよく映えていた。

「やっと起きたね。もうだめなんじゃないかとおもっていたよ。」

「君は?僕はどうしたんだっけ…。」

彼はタオルとぬるま湯の入った桶を畳に置き、僕のそばにひざをついた。

「僕は李慧(りけい)。町医者なんだ。ちょっと川の方に遠出していたら、君が流れて来たんだよ。まだ生きていたんで、家に運んだんだ。3日間、色々介抱して様子を見てたんだけど、とにかく大事無さそうで安心したよ。熱が下がって体力さえ戻れば、またいつもみたいに生活できるようになるさ。」

彼はタオルを絞ると、

「さあ、もう日も昇ったことだし、顔を拭くかい?」

と寝ている僕にタオルを差し出した。

僕は顔を拭きながら、熱を持った頭で今の状況を落ち着いてよく考えることにした。そもそも僕は職場に出勤しようとしていたはずだった。で、河川敷で何をしたんだっけ――?橋から飛び降りて、僕は死んだはずじゃなかったか?ここはどこだ?目の前の青年は生きている人間か?心臓がバクバクと肋骨をたたき、上手く空気を吸えず浅く息を吸うことしか出来なかった。僕は汗をかきながら、震える声で彼の胸ぐらに掴みかかった。

「なあ、お願いだよ!ここがどこだかはっきり教えてくれないか。」

李慧は驚いてキョトンとしていたが、しばらく考えてから慎重に答えた。

「君が住んでいた場所とは遠く離れた所だよ。僕達が住んでいるこの街は、養蓮と言うんだ。勘違いしているみたいだからもう一度言うけど、いいかい、君は死んではいない。まだ生きているんだ。望めばいつでも元居た所に戻れるんだ。僕は途中までなら案内できる。今すぐ帰りたいなら、僕は医者としてあまり勧められないけど付き添うよ。で、僕も君が暮らしていた正しい場所はわからないんだけど、どこから来たんだい?」

僕は答えようとしたが、場所の名前が全く出てこないことに愕然としてしまった。僕はどこから来たんだ?そんな忘れるなんて馬鹿な話があるのか?今まで生きてきた記憶が鮮明に残っているのに?こんな見ず知らずのよく分からない、天国でも地獄でもない場所になんかいたくないし、それよりもそんな不確かな場所にいること自体がたまらなく恐ろしかった。僕はもう何が何だかわからず、頭がごちゃごちゃになってしまった。

「僕、どこから来たのか思い出せないんだ…。」

僕は李慧の胸ぐらを掴んでいた手を緩め、畳に覆い被さるようにうなだれた。熱い涙が頬をつたい、畳と李慧の小綺麗な服をさめざめと濡らした。頭が痛くてクラクラする。急に胃が締めつけられる感じがしたと思うと、込み上げてくるものを我慢できずうっと口に手を当てた。李慧は桶を素早く手渡してくれ、背中をさすりながら、落ち着くまでずっと黙って側にいてくれた。そしてきれいな華奢な腕で、優しく僕を寝かせ、掛け布団をそっとのせてくれた。しばらくして、李慧が口を開いた。

「場所の名前がわからないと、元居た世界には戻れないし、死んでもいないから彼岸にも行けないんだ。悪かった、僕は少し勘違いをしていたようだね。ちょっと僕が考えていたのと状況が変わってきた。詳しくはわからないけど、君、向こうの世界で何か禁忌に触れることをしているかもしれない。でも体はすぐに良くなると思うから安心しなよ。それに時間はたっぷりあるし、急ぐ必要もない。いつまでも好きなだけここにいるといい。まだ君はこの部屋から一歩も出てないし、知り合いも当然いないから、孤独で寂しいと感じるのは自然なことだ。それからこれだけは言っておくけど、養蓮の街は、君が想像しているよりも色々な意味でずっと面白く、多彩な所なんだ。君ならきっと好きになってくれると思うよ。」

僕は李慧に聞きたいことが山ほどあったが、もう口を動かすことも出来ないほど疲れきっていた。

瑞鬼(みずき)、いるかい?先程煎じていた柴胡桂枝湯(さいこけいしとう)、そろそろ出来上がっている頃だろうから、こちらに持ってきてくれないかな。」

「はい、ただいま。」

それから先は朦朧もうろうとしてあまり覚えていないが、甘いようで後味が苦くて辛い、二度と飲みたくない液体を無理やり喉に押し込まれ、僕は甘美な眠りの中に逃げるように落ちていった。



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