宣誓
紅茶の香りを静かに吸い込んでから、ピアはティーカップに口を付けた。その上品な仕草は、ピアのおとなしい印象によく似合う。ピアが視線に気づき微笑みかけると、サイズはふいっと顔をそらして、ごまかすように紅茶を飲んだ。
「よいお天気ですね」
快晴のバルコニーからは美しい庭園の様子がよく見える。副大臣官邸はもともとこの地を治めた高級貴族の別荘だったそうだが、なるほど質素で上品な、古き良き貴族の生活の面影が見える。
普段なら庭園の警護に数人の兵が巡回しているが、今はその人員すらない。庭園本来の美しさが楽しめた。
それから二人は、特に会話もなくただ景色を眺めた。表情から一切読み取れないが、サイズはこの時間が永遠に続くことをひそかに願った。
「しかし、のどかな日々ですね」
「そうだな」
紅茶を継ぐソルの言葉に、サイズは難しい顔のまま答える。
刺激的なパーティーから十日、サイズたちは平穏な日々を送っていた。敵対を宣言した後も、宰相に目立った動きはなかった。驚くことに大臣さえ、サイズの敵対を知らない様子だった。誰にも話していないのだろう。
その真意はサイズにはわからない。もしかすれば、まだ戻ってくると信じているのだろうか。
しかし、サイズはスティビウムという人物をよく知っている。少なくともこの状況をただ静観している宰相ではない。故に裏で動きがあるはずであり、その動きを表に起こすとすれば、おそらく今日この日であると、サイズは確信していた。
「サイズ」
背後で慇懃に直立していたアンジュは、腰を折ってサイズに耳打ちした。
二の句はなかった。サイズはその一言ですべてを悟ると、非常に残念そうな涼しい顔で目を閉じた。
「どのくらいだ?」
「分隊、かな? 裏手にもいるだろうから、全部で二部隊くらいは見積もっといた方がいいと思う」
「思ったより少ないな。五、六十か」
「戦争じゃないんだから。暗殺作戦にしては多い方だよ。それにあれは特殊部隊だね。暗殺のスペシャリスト」
「大したことない。お前に見破られてる」
「ま、私も一時期いたからね。前線の方が楽しかったから辞めたけど。それで、サイズの指示通り囲まれるまで放置してたけど、ほんとにいいの?」
「立場上あくまで専守防衛でなくてはならん。そのために庭園も空にした。こっちから攻撃した瞬間、それこそ戦争になる。あくまでも政治でなくてはな」
警備兵たちの配置はすでに済んでいる。屋敷の警備は全部で十六名。その内今回の計画を話して離れたのが二名。現在の兵数は十四である。その十四名を玄関に分厚く、その他の部屋は防衛上重要な部屋にのみ巧く配置した。
メイドや執事と言った非戦闘員は食堂に集めた。サイズもピアもこうしてバルコニーに姿を晒しているのだから、食堂に被害が及ぶことはない。準備は万端である。
しばらく待つと、念波が入った。宰相の念である。この入念を待ち構えていたサイズは、しかしすぐには応答せず、考え込むように一度目を閉じてから念波を送り返した。
念波が繋がっても、しばらくお互い黙り込んでいた。実に十五秒ほども続くこの沈黙を、ようやく破ったのは宰相である。
「副大臣。聞こえるかね」
「はい」
サイズは自分の声が周りにも聞こえるよう、あえて口に出して返事をした。
「一か月、だな」
「はい」
「聞かせてくれるかね。答えを」
そう、今日はピアがサイズの家に来てからちょうど一か月、暗殺のタイムリミットに設定した日なのである。
これはつまり最後通牒である。ここで戻って来れば、あの夜のことは聞かなかったことにしてやるということである。しかしそんなことで怖気づくようなら、とっくに詫びを入れに行っているだろう。
「私の答えは変わりません。私は人として正しい選択をします」
「そうか。残念だ」
それだけ言うと、宰相は一方的に念を切った。サイズは瞼を開けると、頼もしい笑顔でアンジュたちを見た。
「さて、そういうことだ。最初に言っていた通り、これからここは襲撃される。しかし、この選択は俺が人を殺せないためにしたものだ。よってこれより一切の殺傷を禁ずる。誰も殺さず、殺されず。適当に小突き回して、ゲストに丁重にお引き取り願え!」
言った瞬間である。手すりの裏から風を切って、仮面をつけた黒衣の魔導師がバルコニーに舞い降りた。すかさずアンジュが間合いを詰めると、仮面の額にサーベルの柄で打撃し、次いで抜いたサーベルの峰で首を打ち付けた。
黒衣の魔導師は気絶して床に倒れ伏す。しかしその間に、アンジュの横をすり抜けて同じ仮面をつけた魔導師が侵入してきた。
魔導師は無駄な動きなく走り、杖から仕込み刀を抜き取ってピアに突進する。凶刃がピアの胸を穿とうとしたところで、ソルの手が魔導師の腕を止めた。ソルは魔導師の刀をそらすと、その勢いを利用して顔面に肘鉄を加える。もう一人の魔導師もその場で力なく倒れ込んだ。
「特殊部隊というから身構えていましたが、こんなものですか。人間の軍人というものは」
ソルは何事もなかったかのように、すました顔でメイド服を整えた。
「私がいた頃はもうちょっとマシだと思ったんだけど、弱くなったかな? 訓練が足りてないんじゃないの?」
アンジュは気絶した魔導師を外に放り投げながら言った。見事な早業である。ソルの戦闘シーンは初めて見たが、やはりサイズの暗殺を一人任されただけはある。この二人を敵に回してはいけないと、サイズは心に誓った。
「無事か。エメラルド嬢」
「は、はい。私は大丈夫です」
ピアはそう言うと。床に倒れた敵魔導師を心配そうに見た。その魔導師の体をアンジュに引き渡して、ソルは言う。
「ご安心ください。この程度で人間は死にません」
「心配しなくても誰も死にはしない。殺すことも殺されることも禁じてる。今この屋敷に残ってる連中は、それができる覚悟の持ち主だ。ただ殺しに来る敵を追い返してるだけだ。それが俺たちの正義で、大儀だ」
屋内から騒がしい音が聞こえてくる。サーベルを打ち合う音や、鬨の声。時折銃声も響く。警備には発砲を禁じているので、おそらく敵のマスケットである。
「サイズ、次来るよ!」
アンジュの声で手すりに目を向けると、今度は五人の魔導師が侵入してきた。二人がアンジュに襲い掛かり、もう二人がソルに攻撃する。一人がその間をすり抜けてきた。サイズはピアを背中に隠す。魔導師が杖を構えて立ち止まった。
「副大臣。ラグナロクを引き渡していただきたい。あなたは生け捕りにせよと命令が下っています。できれば手荒な真似はしたくない」
「ずいぶんと上からモノを言うな。悪いが俺は、お前らみたいなモヤシ魔導師とはモノが違う。生け捕りにする程度の覚悟で、俺を突破できると思うなよ」
「そうですか。ではジョークのわからない田舎魔導師に、エリート貴族の魔法を教えてあげましょう。多少の欠損はご覚悟ください」
そう言うと、魔導師は杖の宝珠を光らせた。宝珠の周りをかすかに電流が走る。標的をピンポイントで狙いやすい電撃系の魔法。当然か。文化財級の建物の中で火炎魔法を使うわけにはいかないのだろう。革命軍ではないのだから、なりふり構わずというわけにはいかないわけだ。サイズは冷静に分析した。
「ずいぶんと余裕な表情ですね。状況がわかっているのですか?」
「ああ、もちろん。チェックメイトだ」
「何だと……?」
魔導師は訝し気にサイズに尋ねると、次の瞬間、背後に気配を感じて、とっさに振り返った。しかしもう遅い。一瞬でアンジュの峰打ちが首筋を襲い、魔導師は倒れた。
「遅かったな」
「殺さないようにって、ちょっと難しいね。峰打ちでも加減間違えると撲殺しちゃうし」
アンジュはサーベルの刃と峰を交互に持ち替えながら、複雑そうに答えた。
「でも、そろそろ終わりかな」
アンジュが後ろを振り返ると、階下から鬨の声が上がった。サイズはアンジュの脇を通り抜け、バルコニーから庭園を見下ろす。魔導師たちが撤退を始めており、それを食堂にいたはずの非戦闘員が追撃していた。メイド長は銀のお盆を両手で掲げ、その他のメイドもホウキやらモップで応戦している。
「誇り高き執事たちよ! 誇り高き紳士たちよ! 今こそ我らのお嬢様を守るのだ! 我らこそお嬢様を守る真の騎士!」
絵描きの執事が筆とパレットで魔導師を叩いている。彫刻刀をもって追い回しているものもいる。他にもペンで戦うものやヴァイオリンの弦を剣のように振るうものがいる。こうして見ると、ウラノス家には本当に多彩なバカがいるものである。
「出てくるなと言ったものを」
サイズはそう言って苦笑した。人間が魔族のために戦っているという事実に、サイズは我ながら不思議な感覚にとらわれた。
「さて、仕上げだな」
サイズはコホンと一つ咳払いをすると、念波を飛ばした。一呼吸おいて、相手が応答する。
「……どうしたのだね、副大臣」
「あなたの負けです、宰相」
宰相は何も言わなかった。サイズは顔を上げると、念波をつないだまま、バルコニーから全世界に向けて宣言するような、大きな声で叫んだ。
「ピア・エメラルドは、我が最愛の妻である! 彼女を傷つけるものは、たとえ誰であろうと、いかなる理由があろうとも、このサイズ・ウラノスが許さない! 私はこの魔族の妻を、一人の人間として愛している!」
サイズの宣誓に、庭園のものたちは皆バルコニーを見上げて動かなくなった。
「サイズ様……」
サイズの後ろに控えるピアが、恥ずかし気に顔を紅潮させ、つぶやく。そして。
「っ!?」
不意に、サイズは振り返ってピアを抱きすくめた。
庭園の者たちは一様にバルコニーを見上げたまま唖然とした。バルコニーのアンジュは手を口に当て、ソルは無表情のままに動きを止めている。まるで二人の時間以外すべてが止まったように、風さえ止んだ。
「さ、サイズ様!?」
「サイズと呼べ。私もあなたを、ピアと呼ぼう」
「サイズ、様……。サイズ……サイズ!」
ピアはサイズの背中に手を回すと、サイズの名を叫び続けた。
「……結婚おめでとう、副大臣。心から祝福しよう」
宰相はそれだけ言って、念波を切った。