獣の館
ついにやった。
サイズはほくそ笑んだ。黄金のナイフを突き立てた毛布には、赤いシミが広がっている。
先ほどまで小さな寝息を立てていた少女は、今もただ眠っているだけのように、安らかに目を閉じている。しかし、彼女の目がもう一度開くことはない。これほど簡単なことに、自分は何を戸惑っていたのだろうと、サイズは自嘲するように笑った。
すっと肩の荷が下りるような感覚であった。緊張が解けて清々しい解放感と快楽を得られた。
次の瞬間である。ふと目に入った己の手が、赤く染まっている。手のひらから甲まで赤黒く染まっていた。ナイフから手を放し、どうしたことかと両手を見ていると、みるみる内に黒く長い毛が伸びてきた。やがて毛は全身に広がっていく。震える手で顔を触ると、顔はすでに毛で覆われていた。
得体のしれぬ恐怖が心を襲う一方、なぜか無性に腹が減ってくる。徐々に思考がまどろんでいき、恐怖が薄れていき、同時に空腹感が増大していく。そして意識が、最後の抵抗を失った。
一瞬で意識を取り戻すと、サイズはベッドの上だった。寝室には一切の明かりがなく、夜は明けていないらしい。慌てて隣に目を向ける。まだ闇に目が慣れていないが、ピアはかわいらしい寝顔を向けながら、すうすうと寝息を立てていた。サイズは溜息をついて、瞼に腕を乗せる。油のような汗が体にまとわりついて、気分が悪かった。
「また今日も機嫌悪そうだね」
ムスッとした表情で書斎に座るサイズに、アンジュは呆れた顔で言った。
「相変わらず主戦派の声は大きいからねえ」
「まあ、それもあるが」
「あ、寝不足か」
「まあ、そうだな」
「夫婦仲がいいのはいいけど、ほどほどにしなよ。ピアちゃんまだちっちゃいんだから」
「何の想像してるのか知らんが違う」
サイズはさらに顔をしかめて言い返した。
サイズが不機嫌なのは、まあいつものことだが、近ごろはいつにも増して機嫌がよくない。理由はアンジュの言う通り寝不足だが、原因はアンジュの言うような下世話なものではない。最近立て続けにみる殺人の夢である。
先日サイズの師、サン・ルチルの住まう迷いの森よりの帰路から、その兆候はあった。
はじめは、ただ自分が人を殺す夢であった。相手の顔は鮮明でない。なぜか隣で寝ているそれの寝こみに、ナイフを突き立て殺害する。一瞬の快楽のあと、満たされぬ快感を求め獣へと変貌していく。そこに理性の箍はない。
その夢はいつもの夢とは違った。いつまでたっても忘れないのである。夢の中でどれほど人を殺しても殺されても、どれほど情熱的な恋をしようとも、気づけば忘れるものだった。
しかしどれだけ別のことを考えても、アンジュと別の話をしていても、その夢は記憶から離れることがない。いつも心の隅に占めていて、いつも得体のしれない不安感をあおり続けた。
毎晩同じ夢を見た。家に帰れば収まるかとも思ったが、ピアの顔を見たその日から、事態は悪化した。ターゲットが明確に彼女になったのだ。
毎晩のように彼女を殺した。冷や汗とともに目を覚まし、彼女の寝顔を見て安堵する。眠れぬ夜は、実に一週間以上も続いていた。
「まあいろいろあるんだろうけど、せっかくのパーティーの日なんだから、もうちょっと楽しそうな顔しないの?」
今夜は宰相スティビウムの開催するパーティーの日である。招待状は一人分、迷いの森に行っている間には届いていたらしい。このパーティーもまた、サイズの不機嫌の一因であった。
「むしろ不機嫌にもなる。パーティーなんぞ疲れるだけだ」
「うわあ、すっごい貴族っぽい発言。サイズってやっぱり貴族だったんだね」
「今までなんだと思ってたんだよ」
「いや、たまーに貴族っぽい振る舞いとかしてると貴族なんだなーって思うけど、なんかね。軍関係の貴族とたくさん話してきたけど、サイズはなんか違うんだよ。どこか庶民的っていうか。等身大?」
「バカにしてんのか……?」
「それにしても、ほんとに私も付いてっていいの? 私こういうの初めてなんだけど」
「屋敷の中までは入れないだろうがな。パーティーの警備にねじ込む。何が起こるかわからんからな」
「やっぱりパーティーなら高いお酒とか出るの? うわあ、緊張してきた」
「何、飲む気になってんだよ……」
「大丈夫! 私、サイズと違ってお酒強いから!」
「仕事中だから飲むなっつってんだよ!」
などとたわいない会話をしていると、アンジュが不意に暗い顔になった。サイズもまったく同じタイミングで同じ表情をした。
「ねえサイズ」
「何だよ」
「命令、しないの?」
「何の?」
「だから……」
「もう少し待て」
サイズは必死に別のことを考えようとした。しかし何のジョークも考え付かなかった。
しばらくの沈黙が続くと、書斎の扉がノックされた。
「旦那様。ピア様の準備が整いました」
メイド長の声がそういうと、サイズは「ようやくか」と言って立ち上がり、ロビーへ向かった。
サイズはアンジュやメイド長とともにロビーで待っていた。しばらくすると階段の上に人影が現れた。
「美しい……」
居並んだ執事の、誰かが言った。
パーティードレスに身を包んだピア・エメラルドが、妖艶に、しかしどこか恥ずかしそうに頬を染めながらかわいらしく、ゆっくりと段差を下りてきた。
少し時代遅れのバロックのドレス。しかし決して色あせた印象はなく、ただその清楚な少女のイメージにこれ以上なく似合っている。白を基調とした色合いが彼女のけがれない美貌を引き立たせていた。髪は高貴な女性らしく片側にロールを入れ、ユリの花をあしらった小さな櫛を挿している。
ソルに手を引かれるその様は、まさにおとぎ話のお姫様のそれで、見るもの全てを引き付ける魔力があった。
「あああ! お嬢様あ! お嬢様かわいいよお嬢様あああ!」
などと叫ぶ数名の変な執事も気にせず、サイズはその姿に見とれた。
ちなみに彼らは「ピア様の純潔を守る会」と名乗るピアのファンクラブである。迷いの森に行っている間に何があったのか。こいつら魔族と仲良くなりすぎである。
ある日「旦那様も手を出さないように」などと、わけのわからん事を言う執事がいたのでクビにしてやろうと掛け合ったら、人事権を持つ執事長はファンクラブの副会長で、家中随一の権力者であるメイド長が会長で、サイズは戦慄したものである。
ロビーに降り立ったピアはサイズの前で恥ずかしそうに目を伏せた。
「お、お待たせいたしました」
「い、いや、別に待ってはいない」
「あの、い、いかがでしょう……」
「そ、そうだな。東方に馬子にも衣装という言葉がある」
「それってどんな意味ですか?」
「似合っているということだ」
ピアと目を合わせられず、サイズは斜め上に視線を向けて言った。「馬子にも衣装」という表現も、この際は照れ隠しである。もともと素晴らしいものがさらに素晴らしくなっているのだから、少し物騒な言葉になるが、「鬼に金棒」とか「シマヅにヴァイキング」とか、そういう表現が正しい。
いずれにせよ、実に素晴らしいドレスである。短期間でこれほどのものを作り上げるとは。あの仕立て屋も腕は確かなようだ。しかも感情で手を抜かない。ずいぶんと高い金を払わされたが、これならば安い買い物であったとさえ思える。
そんなことを考えながら、しばらく二人で固まっていると、ピアの後ろでソルが手をたたいた。音に驚いて若干ピアがビクッとする。
「サイズ様、絵を描かれてはいかがでしょう」
「絵?」
「はい。せっかくピア様がこんなにおめかししてるんですから、絵に残すべきです。あとついでにサイズ様も」
「ついでって……」
と、サイズがあきれ顔で言うのと被せてメイド長も手をたたいた。
「エセメイドにしてはよい意見ですね。私も提案しようと思っていたのです。このピア様は絵に残すべきかと。旦那様もついでに」
「……まあいいですが。しかし、今から絵師を呼ぶ時間はありませんよ」
サイズは壁にかかった巨大な振り子時計に目をやった。パーティーまではまだ時間があるが、かといって絵師を手配しているほどの余裕はない。
「大丈夫です! 彼に描かせましょう!」
しかしメイド長はそう言って、一人の執事を示した。
「お嬢様あああ! お嬢様あああ!」
それは先日、サイズにわけのわからんことを言ってきた「ピア様の純潔を守る会」の過激派会員であった。
「彼はかつてあのエルザベート=ルイズ・ヴィジェ=ルブリンに絵を習っていたことがあるようで、ファンクラブのお抱え絵師なのです」
「ルブリンも報われませんな、弟子がこれじゃ……」
「でも実力は本物ですよ。彼の隠し描きしたピア様の肖像画は、使用人たちの間でも高値で取引されています。先日もオークションが開かれたんですよ。ピア様の寝顔を彼が妄想して描いた絵には、家が一軒建つほどの額が付きました」
「俺の家でそんなバカみたいなものをバカみたいな額で流通させるないでください……」
「ちなみに競り落としたのはあのエセメイドです」
メイド長が悔しそうに指さすと、ソルは真顔とほとんど変わらないドヤ顔をした。知らぬ間に家中に怪しげな宗教が蔓延しているみたいである。
「もし、あなた」
「お嬢様かわいいよお嬢……! あ、俺ですか?」
メイド長の呼びかけに、執事が近づいてきた。サイズはとっさに背中にピアを隠した。ピアも若干おびえた様子でサイズの背中から覗き見る。
「仕事の依頼です。旦那様とピア様の絵を描いてください」
「俺は男は描きません!」
執事は即答した。瞬間、その場にいた誰もが凍り付いた。サイズは、そのあまりに堂々とした主張に、一瞬何かかっこいいことを言ったのではないかと感じてしまったが、別にそんなことなはない。
サイズは一応執事の言動を頭で整理し、やっぱり変な主張だということを確認した上で、やっと口を開いた。
「すいません。ほんとこいつクビにしたいんですが……」
「だ、旦那様、お気持ちはよくわかりますが少々お待ちを。今この者を失うのはクラブにとって大変な痛手……」
「いや俺にとっては完全にどうでもいいというか、むしろ人件費と精神的にプラスにしかならないのですが……」
「ちょ、ちょっとあなた、こっちに来なさい」
メイド長は執事の腕を引き、部屋の隅に連れて行った。しばらく何やら話すと、二人で戻ってくる。
「描いてくれるそうです……」
メイド長は実に悔しそうに、目を伏せながら言った。傍らの執事は不遜に、しかしどこか嬉しそうなにやけた表情である。
「な、何を話したんですか?」
「まあ、交渉が成立したといいますか……」
「限定一体しか作られなかった幻の彫刻、聖ピア様の像を譲るとなれば、受けるしかありませんね」
「は?」
「執事の中に、かつてかのアンタレス・カノーに師事した者がいるのですが……」
「この家は才能の墓場か何かなんですか?」
「彼が限定一体で作成したピア様の八分の一彫刻像を引き換えに、彼に絵を描いてもらいます……。私のコレクション……。完成の三日前からアトリエの前に陣取ってついに手に入れたというのに……。しかしこれもピア様と旦那様のため……」
「いや、そんな必死に忠義を貫いた感じで自分の欲望を正当化されても……」
サイズはそんなこと決して望んでいない。いや、たしかにこの、自分の後ろで困惑するドレス姿の少女の絵は残しておきたいような気もするが、少なくともこの変態執事に描いてほしいとは微塵も思っていない。となれば、この男がどれほどの絵画の天才かは知らないが、やっぱりメイド長が鑑賞したいだけという、ただそれだけの理由である。
何はともあれ、絵を描くことは決まった。執事が道具をそろえて戻ってくると、大階段の前に椅子が一脚用意される。
「ピア様はこちらの椅子へ。旦那様はこちらへ」
彫刻への未練もある程度断ち切れたらしく、ウキウキした様子のメイド長の指示でピアが椅子に座った。サイズは溜息をつきながら、ピアの後ろに立ち、背もたれに手をかけた。
「おお、さすがは絵になるね。王子様とお姫様みたい」
アンジュの感嘆に、他のギャラリーも無言で賛同した。執事がキャンバスの前に座り、筆で何やら描き始める。
さて、これよりしばらくは同じポーズを取らなくてはいけない。サイズはピアの背中を見下ろした。さらさらの短い髪からうなじがのぞく。彼女の後姿をまじまじと見るのは、案外今が初めてな気がした。
貴族の女性はとかく長い髪、そして無駄に高く結い上げた髪を好む。そのため彼女のショートヘアは、周りに比べればずいぶんと地味なものに感じるが、サイズはその潔さが気に入っていた。
ピアの体は、後ろから見ても小さかった。とてもか細く、抱きしめれば割れてしまいそうなほどに美しかった。サイズはそのガラスのような美に、何か見てはいけないようなものを見ているような、しかし目を離せない、背徳的な感情を彼女に持った。
不意に、彼女の背中がサン・ルチルと重なった。先日の記憶と夢がフラッシュバックする。
その弱く、無抵抗な背中は、触れただけで壊れそうだった。そのときサイズは、確かに人間と獣の争いを見た。
獣の求めるものは何か。利、快楽、あるいは復讐。獣の腕はあと少し動かせば、彼女の背中を壊してしまう。彼女に触れようとする獣の腕を、人間の腕は必死に背もたれに抑え留めた。
「さて、こんなものでしょうか」
執事の声に、サイズは我に返った。額には油のような汗が噴き出ていた。
「ふむ。よい腕ですね。デルシアにもこれほどの画家は少ないでしょう」
「ほらピアちゃん、サイズも見てみなよ!」
ソルとアンジュが出来栄えを確認し、嬉々とした表情でサイズたちを呼ぶ。ピアが手招きに応じ椅子を下りる。
「サイズ様、行きましょう!」
ピアは無邪気な笑顔で言うと、途端に恥ずかしそうに顔を背けた。
「も、申し訳ありません。はしたないところを……」
サイズはふっと笑うと、額の汗をぬぐった。
「気にするな。エスコートしよう」
サイズの差し出した手に、ピアは照れ隠しのように笑いながら掴まった。優雅に歩いて絵にたどり着いた二人は、キャンバスをのぞき込んだ。
「あまり時間がないので、ひとまず人物のみ。これから時間をかけて修正と背景を加えていきます。完成は一か月程度先ですな」
キャンバスの中央に人物が二人描かれている。少し背の高い椅子に座り、ひときわ鮮明に描かれているのはピア・エメラルド夫人である。彼女は月のような微笑を湛え、そのしおらしさ、しとやかさ、高潔さ、優しさ、かわいらしさ、そして幼い美しさが表現されていた。とても三十分で描かれたとは思えない出来である。これからさらに修正を加えていくというのだから、楽しみなものである。困ったことにこの執事の実力は本当に本物であった。
「ほあー! とても上手ですね! 本物よりこんな綺麗に描いてくださって!」
「いえ、何の! お嬢様の実物の美しさには到底及びませんよ!」
ピアは本当にそう思っているように執事を誉めると、執事はデレデレしながら謙遜した。
ピアの横に直立するサイズ・ウラノス侯爵も、強い表現力であった。憂いを帯び、かすかに下を向く魔導師の少年は、十代とは思えない貫禄である。人はこの絵画の中の、この人物をどう思うだろうか。
きっと誰も想像しないだろう。この少年は、この美しい幼い少女を殺そうとし、殺すまいとしているなどと。
「サイズ様もとても素敵です! サイズ様の責任感と優しさがよく表れています!」
責任感。そう。人類を勝利に導くという責任感である。幼くして失った両親の復讐を果たすという責任感である。
優しさ。それは違う。サイズはただ、弱いのである。迷っているのである。何が正しく、何が悪なのか。これまであらゆる哲学に自分の答えを見出してきたが、しかしこの問いに答えを見出すことができるのだろうか。
サイズは無邪気な笑顔を向けるピアに、疲れた笑顔を返した。
ミストゲート。それはポルティス王国の政治の中心で、すなわち貴族の中枢であった。故にこの町は夜行性であり、夜にこそその喧騒は本性を現す。今夜も眠らない町には優雅な音楽が響き渡り、合いの手代わりの怒号が夜霧を切り裂いた。
「だから何度も言わせるな! パーティーに妻を連れてきて何が悪い!」
ひときわ巨大な宰相、スティビウム邸の正門で、サイズは吠えた。背後には軍服姿のアンジュと冷徹な目つきのメイド、ソルが控え、かなりの威圧感である。サイズの足元で恐縮そうにオドオドしているピアが何とかその雰囲気を和らげている。
「い、いえ、ですから招待状がなければ中には……」
執事服の二人のうち、一人が困ったように言う。
「警備として後ろの二人を庭に入れるのはいいですが、さすがに招待状がない方を屋敷にお通しすることは……」
「これまでの慣例としても、妻や愛人については融通を利かせるはずだ! なぜ今回はそれができない!」
「そ、それは……」
執事はサイズの足元をちらりと見る。その目がとらえているのは間違いなくピア・エメラルド。魔族の娘である。
要するに招待状などは関係ない。魔族を家に入れたくない。参加させたくないと、そういうことである。
「納得できん! 宰相殿は私を愚弄するか!」
「い、いえ、決してそのような……。お、おい」
「あ、はい! しょ、少々お待ちください!」
サイズの気迫についぞ耐えきれなくなったか、もう一人の執事が屋敷に走っていった。しばらくそのまま待つと、息を切らして戻ってくる。
「我が主より許可をいただいてきました。ウラノス侯爵夫妻様、お待ちしておりました。よい夜を……」
「ご苦労」
サイズは何事もなかったように執事の間をすり抜け、正門をくぐった。アンジュは申し訳なさそうに後に続き、ピアはさらに申し訳なさそうな表情で門をくぐる。
広大な前庭を歩きながら、アンジュが口を開く。
「ちょっとサイズ。ピアちゃんが行くこと、事前に話してなかったの?」
「当たり前だ。エメラルド嬢を連れていくなんて事前に話して、はいそうですかと、なるわけがない。向こうは初めから魔族を入れる気なんてないんだ。公式に参加不可が通達されて、それで終わりだ」
「相変わらず強引だね」
「大きな力に抗うには、多少強引でなくてはならん」
パーティーは前庭でもテーブルと食事が用意され、多くのゲストが夜風に当たりながらワインと会話を楽しんでいた。しかしそんなゲストたちは、サイズ一行が横を通ると一様に会話を止め、通り過ぎるとひそひそ内緒話を始めた。
ピアがその光景に、また下を向く。サイズはピアを一瞥すると、咳払いして手を差し出す。
「気にするな。エスコートしよう」
ピアはサイズを見上げると、自然にほほ笑んで手をつかんだ。
屋敷の前に到着し、サイズは足を止めた。開け広げられた扉の奥からは、きらびやかな話声が満ちている。
「さて、アンジュとメイドはここまでだな」
サーベルを下げた門番がジロジロと見回す中、サイズが言った。
「うん。気を付けてね、サイズ、ピアちゃん」
「ピア様のこと、くれぐれもお願いします」
「では、行ってくる」
サイズはピアをエスコートしながら、屋敷の中に入り込んだ。グラスの並んだテーブルで控える執事に、サイズはさっそく声をかける。
「水を二つ頼む」
「……かしこまりました」
執事はピアを一瞥して、一瞬息をのんでから、何事もないようにうなずいた。執事がグラスに水を注ぐ。サイズは酒が嫌いだった。
「ありがとう」
サイズはグラスを受け取ると、ひとつをピアに無言のまま手渡した。
「あ、ありがとうございます」
ピアはサイズの手をつかんだまま、もう片方の手でグラスを受け取った。サイズはしばらくその場に足を止め、ゲストの顔を見回した。かなりの数であるが、ほとんどが財務省の関係者や、一部の国防省役人。つまりデルシア外交における宰相の支持者であった。
「おお、ウラノス副大臣ではないか。こんばんは」
老人の声がかかり、サイズは声の主に顔を向けた。
「これはウォルフラム大臣。こんばんは」
サイズはピアの手を離し、グラスを持ち替えて大臣と握手をした。ピアは名残惜しそうにつないでいたサイズの手を見ると、大臣に小さく会釈をした。
大臣は途端に不遜な顔をする。彼女に「こんばんは、マダム」とだけ言うと、わざとらしく喉を鳴らした。
「ん、んん。エメラルド嬢を連れて来たのかね」
「はい。妻をパーティーに同伴させるのは、貴族として自然なことかと」
「それは、そうだな……」
「ところで、大臣の奥様はいずこに?」
なんだか不穏な空気になり始めたところで、サイズは巧く話を変えた。
「うむ、あいつはすぐに友達のところに行った。おかげでパーティーだというのに一人で話し相手を見つけねばならん。これだからオルセーヌの女は嫌なのだ。いくつになっても自分勝手で我がまま。宰相も苦労が絶えんだろうな。カトリーヌと来ればよかった」
「ご愛人もオルセーヌ女じゃないですか。それも娼婦」
「年老いた我がままばあさんよりはずっといい。体はもっといい」
などと、貴族らしい下品なジョークを言い合っていると、金属音のような耳に触る声が会場に響いた。
「ちょっとあなた! あなたどこなの! この人の持ってる極東の扇! とってもキレイなの! 私も欲しいわ!」
大臣は溜息をつきながら額を押さえた。
「我がまま女がお呼びだ。副大臣、よい夜を……」
「よ、よい夜を……」
大臣は痛みを抑えるように頭を抱えたまま、肩を落として歩いて行った。サイズたちは大臣の後姿をしばらく見送ると、同じタイミングで顔を見合わせ、二人して苦笑いを浮かべた。女性経験の少ないサイズは苦笑しながら、まさかこの控えめな少女が、実は大臣の妻のようなわがままな性質の持ち主ではないよなと、一抹の不安を感じた。
その後、サイズはいくらかのゲストたちと話をした。隣に控えるピアについて、為政者たちはどこか警戒するような顔をしたが、みな表には出さなかった。しかし為政者の妻たちは立場も品格も違うようで、露骨に嫌な顔をすると「まあ、なぜこんなところに動物が迷い込んでいるのでしょう」などと、何のひねりもない嫌味を言って離れていく。
ピアを壁際の椅子に座らせて小休止しながら、サイズは替えのグラスを差し出した。
「つらいか?」
「い、いえ、そのような……」
ピアはグラスを受け取ると、気のないように返事をした。サイズはしばらくピアの顔を見た。
「帰ろう」
「え? わ、私は大丈夫ですよ!」
ピアは慌てて気丈に笑うが、その反応がむしろ苦労を引き立たせる。
「こんな騒がしいところに長居しても何の意味もない」
「ですが、まだ宰相様にご挨拶してないのでは……?」
ピアは心配そうにサイズの顔を見た。パーティーの途中退席はおかしなことではない。しかしホストであり、かつ直属の上司である宰相に挨拶もなしに退席するのはあまりに無礼である。
パーティーでの貴族の挨拶は、暗黙の内に順序が決まる。基本的には身分により、当然偉いものから話す権利がある。
サイズはもう一度会場を見回した。
サイズは侯爵であるから、充分に高級貴族の一員なのだが、出席者の中にはその上の公爵も多い。さらに侯爵となって日の浅いサイズは他の高級貴族になめられている節があり、実質的な身分はかなり低い。
サイズはピアの顔に視線を戻す。その表情は賢明に抑えているが、精神的疲労の色が濃い。
「宰相にはあとで手紙でも書こう。俺はうるさい場所が苦手だ」
「サイズ様……」
天井に目をそらし言ったサイズに、ピアは申し訳なさそうな表情で、しかしホッとしたように言った。
「さて、では行こう」
サイズが手を差し出すと、ピアは掴まろうと手を伸ばした。
「ウラノス侯爵様……」
二人の手が触れようとした瞬間、タイミングの悪いことにまたもや年老いた声がかかった。サイズは見るからに機嫌悪そうな顔を、その声に向ける。
「我が主がお呼びでございます。ご挨拶されたいと」
しかしその老齢の執事は、一切物怖じした様子なく、用件を伝える。さすがは宰相の執事長である。
「ちょうどいい。エメラルド嬢、顔だけ出して帰ろう」
サイズがもう一度エスコートしようと手を出すと、執事長は語気を強めていった。
「侯爵様おひとりで、とのことでございます」
他の公爵や侯爵の挨拶が終わった。とは思えない。時間としては大公たちとの話が終わったころ合いか。
つまり従来の慣例や関係を無視してでも早急に話さなくてはならない重大な内容で、かつ妻であるピアの同伴を許さない。ただの挨拶ではなく、込み入ったことなのは明らかである。
サイズにはわかっていた。これは答えを出すときなのだ。
「エメラルド嬢、ひとりで待てるか?」
「あっ……! はい……」
ピアは何かを言いかけて手を伸ばし、しかし引っ込めた。
「すぐに戻る」
サイズが背を向けると、ピアは「はい……」と、もう一度抑圧された返事をした。その声音から察するのは、不安。このパーティーで一人にされるという不安か。いやその声音には、もっと別の、例えば、もうサイズが帰ってこないのではないかと、そんな巨大な不安が感じられた。
老執事についていき、サイズは喧騒を抜けた。長い廊下を歩いていくと、まるで異界にでも繋がっているような扉が、ポツンと一つだけ見えた。
老執事がノックし、扉を開いた。
「旦那様。ウラノス侯爵がいらっしゃいました」
老執事に続いて、サイズも入室する。
「待っていたよ。副大臣」
宰相スティビウムは背を向け、壁にかかった絵画を眺めたまま出迎えた。
「ご機嫌麗しゅう。宰相殿」
絵画はたしか、三百年ほど前に高名な画家の描いたという幻の油絵、「英雄たちの狩猟」。甲冑に身を包んだ騎士たちが、寄ってたかって倒れ込んだウェアウルフに突きかかっている。その場面は戦争ではなく、まさしく狩猟。オオカミが獲物を狩るがごとく。その兜の中のまなざしは、誇り高き騎士のそれではなかった。
「失礼いたします」
と、言って老執事がすぐに退室し、宰相と二人きりになった。しばらく二人で沈黙していると、宰相がそのままの体勢で話し始めた。
「楽しんでいるかね」
「ええ、刺激的な夜ですな」
「エメラルド嬢を、連れて来たようだな」
「はい、妻ですので」
「ふむ……」
宰相は絵画から目を落とした。
「君のご両親のことを調べさせてもらった。お二人とも立派な軍人で……」
「父は捕虜となり、仲間の奇襲作戦をしゃべってから死にました。母はその奇襲作戦に参加し、待ち伏せされると敵前逃亡して後ろから撃たれました」
「そう……だったかな……」
両親を思い出させて、憎しみを再燃させようとしたのだろうが、その思惑は外れである。両親はたしかに褒められた死に様ではない。しかし、問題はそこではない。
魔軍への恨み。それはたしかにある。親がどんな人間であれ、子にとって親はかけがえがない。しかしそれはピアへの恨みではない。
両親を殺したのは軍人であり、両親もまた曲がりなりにも軍人であった。偏見をなくして考えれば、戦争とはそういうものである。
宰相は考えるように黙り込むと、また絵画を見上げる。
「ところで君は、好いている者はいるのかね」
「嫁のいる男にする話ではありませんね」
「エメラルド嬢を暗殺したあとの話だ。もし意中のものがいないなら、わしの孫娘はいかがだろうか」
宰相の孫といえば、容姿端麗、才色兼備の器量よしと、王国の貴族たちのあこがれの的である。その孫娘をやるというのだから、並大抵のことではない。
「年も君と近い。その上公爵の孫娘。君を公爵に叙任する名分も立つ」
「お戯れを……」
「わしの孫娘が不満なら、女王陛下ではどうだ」
サイズがおどけると、宰相は突然振り返り、かぶせて言った。
「年は離れているが、まあエメラルド嬢より少し若いくらいなら問題あるまい。身分の差はわしが何とかしよう。わしは陛下の婚約相手を決める権利を持っている。君ならさしたしがらみもないだろうし、議会の反対意見もねじ伏せる。これで副大臣も晴れて王族の仲間入りだ」
宰相の傀儡とはいえ、女王陛下はれっきとした国家の王である。勅令は何者も、たとえ宰相でさえ逆らえない絶対的な権力を持つ。その陛下と婚約するということは、すなわち今後の政務を自由にする権利さえ手に入れるということである。
「ほ、本気ですか?」
「冗談ではない。わしは君が欲しい」
「それほどプロメテウスには価値がありますか?」
「プロメテウスだけではない。わしは君を評価している。君の頭脳、意思、愛国心。素晴らしい性質の持ち主だ。わしと共に、君に千年続く王国を導いてほしい」
宰相の顔は真剣だった。ずいぶんと甘い言葉である。人格も能力もすべてを認められ、宰相に、いや王にさえしてやると言っているのだ。どんな人間だって心が揺れないはずがない。宰相はそれほど真剣ということだ。
しかし、だとしたら、宰相は言葉の選択を間違えた。
「残念ですが、お断りさせていただきます」
サイズはきっぱりと言い切った。
「……何が不満なのかね」
「宰相のお孫様も、女王陛下も、もちろん私も、あなたの物ではありません」
この際宰相は、サイズに「利」ではなく「理」を説かねばならなかった。無論この内容に理などないのだが。
どれほど甘い言葉をかけようと、宰相の目に映るサイズは、孫娘は、女王は、そしてピア・エメラルドも、「使える道具」なのであった。
サイズはこのときはっきりと、獣の心を醜いと思った。
「それでは宰相殿、よい夜を。失礼します」
サイズが踵を返し、扉を開けた。
「副大臣、いいのだな? もう戻れんぞ」
宰相の言葉にサイズは足を止め、振り向かずに答えた。
「私の帰りを待っている人がいるので」
サイズはそのまま部屋を出た。会場につながる長い廊下を、サイズは早歩きで渡る。
貴族のパーティーは、敵味方を見極める場である。今のやりとりはまさしく、敵と味方の分かれ道であった。
サイズはこの時、政界で唯一の味方であった宰相と、その支持者を敵に回した。それはつまり国家すべてを敵に回すことと同義である。しかし、サイズに後悔はなかった。
パーティー会場に入ると、サイズは自分の帰りを待っているはずの人を探した。別れた場所に戻ると、ピアはその場でじっと待っていた。
「あらあら、なんだか匂うわね」
「きっとどこぞに獣でもいるのですわ」
「匂いが移るといやだわ。早く出て行ってくれないかしら」
派手で眩暈のするロココドレスを着た老女と、その両脇の、同じくロココのコバンザメが、ピアの目の前で「ホホホ」とか言って笑っていた。その老女は何度か見たことがある。宰相の妻である。しかし旦那に似ず、上品さのかけらもない。
ピアは何も言い返さず、さりとて逃げるわけでもなく、ただ下を向いて耐えていた。ただひたすらに、サイズの帰りを待っているのだろう。
サイズはすかさずピアの後ろに立つ。
「サイズ様……?」
ピアが首だけ振り向くと、サイズは不敵に笑って見せてから、老女たちに向けて大げさな身振りで口を開いた。
「おっと、かぐわしいと思ったらマダムたちでしたか。しかし香水の趣味は変えた方がいいですな。チーズの香りというのは」
体臭が香水で隠せていませんよと、つまりそういうことである。
「なっ!? なんと無礼な! あの人に言いつけてやる!」
言われるまでもなく、たった先ほど宰相と敵対することになったサイズには、そんなものは関係なかった。
「失礼、マダム。よい夜を」
サイズは不敵な笑顔を崩さぬまま、ピアの手を引いた。
「さあエメラルド嬢、もうこんな場所に用はない。帰ろう」
「へ? あ、はい」
ピアはなんだかわからず困惑しながら、サイズに手を引かれるままに歩きだす。
「あ、あの、ありがとうございます」
「気にするな。思ったことを言ったまでだよ」
二人はそのまま屋敷を出た。すかさずアンジュとソルが近づいてくる。サイズは立ち止まらず、早歩きで庭を進んでいく。アンジュが追随しながら言った。
「お早いお帰りだね。旦那様」
「アンジュ。軍の命令と俺の命令、どっちを聞く?」
サイズの質問に、アンジュは少し考える風をした。
「自分が正しいと思う方、かな?」
「エメラルド嬢の暗殺と護衛なら?」
「サイズの方」
「どっちだよ」
「護衛でしょ?」
サイズはようやく立ち止まり、アンジュの顔を見た。アンジュはいかにも当然といったような真顔をしている。サイズの思考など簡単に読まれているらしい。
「わたくしはもとより人間にも魔族にも味方いたしません。ただピア様に、そしてピア様の信ずるサイズ様に、忠節を尽くすのみ。ただそれが、正しき道と信じて」
ソルはそのメイド服にピッタリの潔いお辞儀をした。
ピアの顔を見てから、サイズは下を向いた。
「正しいと思う方、ね」
つぶやくと、なぜか笑いがこみ上げてきた。サイズは顔を上げて振り向く。
「何が本当に正しいのかは、俺にはわからない。しかし、俺は俺の心が正しいと思ったから、戦うことにした。この国と」
欲望の灯が燃え上がる宰相の屋敷を、サイズは不敵に見据えた。