休戦の先
大陸西の沿岸部にある巨大国家、「ポルティス王国」。その中心には、「ミストゲート」という年中霞がかった都市が存在する。霞が立ち込め、外部から攻められにくいこの地は、古来より国家の重要機能が集中していた。銃が発達し、戦争の仕組みが大きく変わり続けている現在でも、ミストゲートは政治の中心であった。
そのミストゲート北西。広大な敷地にそびえる雄大な建物から、霞を払い去るほどの怒鳴り声が響いた。
「ウォルフラム国防大臣、これは一体どういうことですか!」
十代半ば。政治家にしてはいささか若い、黒のローブに身を包んだ、とんがり帽子の少年である。大臣室に乗り込んできた彼は、一枚の紙を突き付けた。片手に握る杖は、質素ながら気品にあふれるデザインと、頂点に鎮座する紫紺の宝珠が、どこか格式ある貴族の出であることをうかがわせる。
大臣室の主、ウォルフラム大臣は、「やっぱり来たか」という表情で頭を抱えた。少年と大臣は、まさしく祖父と孫ほど年齢が離れていそうだ。
「書いてある通りだよ、サイズ・ウラノス副大臣。我が王国はデルシアとの休戦協定を結ぶ。草案ではない。勅令による決定事項だ」
デルシア。ポルティスと海を隔てた先にある大陸の、魔族が統治する国家である。王国は、このデルシアと長期の戦争状態にあった。
「なぜ今さら! 私のプロメテウスがあれば、すぐにでも魔族を滅ぼせるのですよ! 勝利の確約された戦争です!」
「落ち着きたまえ、副大臣。魔族との戦争でご両親を亡くした君の気持ちはよくわかっているが、状況が変わったのだ」
打てば響くサイズ副大臣はすぐに平静を取り戻し、落ち着いた声で聞く。
「状況、とは?」
「うむ」
サイズの問いに、ウォルフラム大臣は椅子から立ちあがり、背を向けて答えた。
「たしかに君の開発したプロメテウスは、非常に強力な魔法だ。君の持つ少ない魔力。……いや、別にバカにしているわけではない。とにかくその小さな魔力で都市を一つ壊滅させるほどの爆発を起こせるとは思わなかった。技術が高度すぎて、未だ君以外は誰も使えんがね。おそらくそれを目にしたすべての人間が思ったように、私も君を救世主だと思った」
「いえ、そのようなことは……」
「しかし、それだけで事態は収まらない。プロメテウスを撃つべく調べを進めるうち、あることが分かったのだ。時を同じくして魔軍にも、『救世主』が登場したのだと」
「つまり、向こうにもプロメテウスと匹敵する高威力の兵器があると」
「そういうことだ。ラグナロク、と呼ばれているらしい。うかつに攻撃すれば報復で国家レベルの致命傷を負いかねん。しかし逆に言えば、デルシアもうかつに手を出せない。調度よい落としどころが、休戦というわけだ」
「見えない抑止力、ですか」
物理的にそこには何もない。しかし厳然と目の前にある、大火力による心理的抑止力の存在。危ういバランスで保たれるジレンマに、サイズはすぐさま勘付いた。
「君は相変わらず理解が早い。本当に子供かね」
「しかし、なぜそれを勅令で強引に? それも国防省副大臣の私にも内緒で」
「こんなことを議会に通せば、確実に紛糾する。戦争には利権が絡むからな。反対派の議員は大勢現れるし、市民の感情も魔族には否定的だ。そうなれば君は反対派から担ぎ上げられ、私の声はおろか、宰相の声さえ届かなくなる。こうするより他なかったのだ」
ウォルフラムは元から用意していたセリフのように、スラスラと説明する。しかしその内容はどこか苦し気だ。第一サイズの耳に入れなかった理由にはなっていない。つまり、何だかよくわからないことをツラツラと述べ、とりあえず勢いで誤魔化すという、為政者が古来より行ってきた常套手段である。
「……わかりました」
サイズはウォルフラムが何か隠していると感じながらも、一先ず納得し、大臣室を後にした。
デルシアとの休戦発表より約一か月が過ぎ、ついに協定締結の期日を明日に迎えたある日。ポルティス王国の宰相、国防大臣、副大臣、以下数名はシルバ島を訪れていた。
シルバ島はポルティス王国とデルシアのほぼ中間に浮かぶ比較的大きな島で、両軍の間で激しい争奪戦が繰り広げられた地である。現在は三分の二程を王国が占領しており、若干優勢である。
「お待ちしておりました、サイズ副大臣閣下」
「誰だお前は」
巨大な帆船から降り立ったサイズは、第一声で怪訝そうに口にした。目の前にはサイズと同じ年頃の、赤い軍服を着た少女が精悍な顔つきで敬礼している。額に掲げた右手には純白の手袋。背はサイズより少し低い。体つきも華奢だが、その堂々とした出で立ちは実に頼りがいがあり、腰に下げた金のサーベルがよく映える。
「ふふん、どうだ、見違えただろ!」
少女は途端に精悍な顔つきを解くと、そのきっちりとした制服には不釣合いに、なれなれしく答える。
「一瞬で崩れるのか、軍人モード」
「いやあ、やっぱ慣れないことすると肩こっちゃうよね。サイズと話すときは普通でいいや」
少女は肩をぐるぐると回した。この幼馴染の軍人モードを初めて目の当たりにしたサイズは若干の戦慄と、身の毛のよだつような気味の悪さを感じたが、やっぱりこっちが本性でホッとした。
「で、何でお前がここにいるんだ?」
「ふふふ、護衛だよ、ご、え、い」
「護衛って、アンジュがか? 信用ならんな」
サイズは話しながらも、スタスタと歩き始めた。アンジュはサイズに従うように、斜め後ろに付いた。
「もう、私これでも陸軍のエースなんだよ! 何たって……」
「アンジュ・ディア。コルセス砦の英雄。レッドデビル。天使の名を持つ悪魔」
アンジュの伝説はたくさんある。弱冠十六歳、女性、さらに魔法の使えない市民階級でありながら、その剣の腕前で数々の武功を上げている。コルセス島は国防の北の要衝で、史上最も凄惨な戦いになったそうだが、何でも一個小隊を率いて二個中隊を撃退したとか、自らの剣でウェアウルフの首を七つ上げたとかで、見事防衛を果たしたらしい。
「何だ、知ってんじゃん」
「これでも国防副大臣だぞ。コルセス砦の活躍は俺が帰ってくる前だが、国防省では語り草だったからな。まあ、そうじゃなくても、悪魔に悪魔とか呼ばれるやべえ奴がいれば嫌でも目に付く。ああ、ありがとうございます」
馬車の扉を開けた魔道師の役人に礼を言うと、サイズはそそくさと乗り込む。アンジュも同じ馬車に乗り込むと、サイズの向かいに座った。
「ちょっと、やべえ奴って、お姉ちゃんに対して失礼じゃないかな!」
「同い年だろ」
「私の方が早く生まれてるから、私の方がお姉さんですう!」
「一時間と二分だ。日が変わっていなければ、法的には同い年ということになる」
「まったく、相変わらず細かいなあ」
馬車が動き出し、車内が大きく揺れ始める。サイズは窓の外を見ながら、うんざりしたように会話を続ける。
「だいたい血はつながってないだろ」
「何言ってんの。あんたお父さんの養子でしょ」
「三日だけな」
「いや、今でもあんた家系図に入ってるからね」
「いっしょに暮したのは三日だけだ。バカな姉ともな」
車窓からは広大な草原と、その中に不自然にたたずむ建造物やがれきが見える。サイズには、ついひと月前まで砲声と断末魔の轟いていたその壮絶な戦争の跡が、まるで絵画を眺めているようにしか思えなかった。
「もう、あの時はほんと、びっくりしたんだからね。五歳のくせに、お父さんが引き取って三日で家出して。お父さん顔真っ青で探し回ったんだから。『サイズに何かあったらあいつに顔向けできない』って」
「まあ、親父さんには悪いと思うよ」
「あげくルチルさんに弟子入りしたとか、ほんと意味わかんないから。ていうかルチルさんって誰よ」
「言っただろ。迷いの森に一人で住んでる、仙人みたいなじいさんだ」
「いやそれすごい怪しいから。迷いの森に住んでる時点で胡散臭いのに、『元公爵のエリート』とか、『元千年に一人の天才魔道師』とか。ひとつも信用できないんだけど」
公爵とは、要するにものすごい貴族のことである。遠縁とはいえ王家の血を引いてたりする。サイズの家が元々は最下層の騎士家であり、副大臣叙任に伴って与えられたのが侯爵位。読みは同じでも、公爵は侯爵よりも偉い。ちなみに歴代の宰相はこの公爵か、最上位の大公のみが任される。
つまるところ、それを自称する浮浪者であるから、胡散臭いのは当然である。かく言うサイズも、「天才魔道師」というところ以外は胡散臭いと思っている。
「お父さん、この前サイズが帰ってくるまでずっと心配してたんだから。白髪もすごい増えちゃったし。それなのに帰ってきたらいつの間にか副大臣に取り立てられて、一人で豪邸なんかに引っ越しちゃうし。お父さん報われないなあ」
「あれは副大臣官邸だから仕方なく……。まあ、悪かったって」
サイズはばつが悪そうな顔をした。幼いころから世話になったアンジュの父に、サイズは頭が上がらなかった。
「もうほんと……あれ、サイズさっき、私のこと姉って言った?」
「今さらかよ」
「なあんだサイズ! やっぱり私のこと、お姉ちゃんだって思ってたんじゃない!」
「もう否定するのもめんどくさかったしな」
「ほらほら、こっち来なさい弟よ。お姉ちゃんが膝枕してあげるよ!」
アンジュは嬉しそうに微笑みながら、自分の膝をポンポンと叩く。アンジュは一般的に見ても美人である。だから本来ならとても嬉しい誘いなのだろうが、軍服なので全然色気がない。
「行かねえよ」
「もう、照れちゃって」
「照れてねえ」
サイズは面倒くさそうに答えながら、同じタイミングでしれっと「バカ」と言ったことについてはいいのかと心内でツッコんだ。
「ところでさ」と、アンジュは話を変える。
「明日って休戦協定の調印式なんでしょ?」
「ん? ああ、そうだな」
「何でサイズまで来るの?」
「そりゃ国防省の高官だからだろ」
何言ってんだお前、という表情で、サイズは呆れた。この姉は戦争のこと以外からっきしのバカであるが、まさかここまでとは。
「いや、でも調印は宰相と大臣がするんでしょ? 副大臣いる?」
「あれ、たしかに。何で俺呼ばれたんだ?」
アンジュの思わぬ指摘に、サイズは考え直した。まさかアンジュがこんな的を射た発言をするとは思わなかった。
同行を命令されたことは確かである。宰相からも大臣からも要請され、サイズもそれに何ら疑問を持たなかった。
しかし考えれば、これまで他国との調印に副大臣が出向くのは珍しい。決定事項を締結するだけの儀式であるから、サインは二人で事足りる。せいぜい大臣多忙のための代理ぐらいで、そうでなければ国内の有事のために、留守番が自然だろう。
「まあ、ひときわ重要な内容だから、出先での大臣の有事に備えて、とかじゃないか? あるいは政治経験の浅い俺に、調印式の空気を吸わせるためとか。そんなところだろ」
「そんなもんかなあ?」
アンジュは何となく納得いってないような顔をした。サイズとしても、まったくもって納得できないが、そんなものは知る由もない。
「そもそもずっと不思議だったのが、何で副大臣なの? プロメテウスは攻撃魔法でしょ? 軍の要職に就くならわかるけど、政府の高官じゃ戦争に使いづらいし」
「軍なんかに入れたら、クーデターに利用されるからだろ。特にプロメテウスは国家を一つ壊滅させることだってできる。最近は各所で革命の機運も高まってるし。幸いポルティスは軍と国防省が明確に分かれてるからな。政府の許可がなければ軍は兵を運用できない」
「いやいや、クーデターなんてしないよ」
「わからんぞ。つい最近、オルセーヌで革命があって、その臨時政府も恐怖政治で市民の心が離れてるところだから、ボネピートとかいう陸軍の指揮官が支持され始めてる。革命派によれば、王政は古い体制らしい。ポルティスは魔軍という共通の脅威があるから、一応は市民も権力に従っているけど、革命の火種はくすぶってるよ」
国防省でも、いわゆる革命派の団体の動きというのは逐一掴んでいる。何せ頭の先から足の先まで安っぽい赤で激しく自己主張してくれるもんだから、見張りやすい。
ポルティスの革命派は未だ小さな勢力だが、その激しい自己主張で着々と力を付けているのは確かである。加えて市民感情は、このところの不況で革命に傾きつつある。
「そうでなくても貴族の権威は着実に落ちてきてる。昔は魔法が使えたこと、つまり唯一遠距離からの攻撃ができたことで、戦争での圧倒的優位性が魔道師の権力を保証してきた。しかし今では銃の性能が飛躍的に向上したことで、誰でも魔法レベルの範囲と威力を手に入れることができる。
権力の絶対的裏付けが教養と伝統しかなくなったタイミングで、魔道師の優位性を復活させるプロメテウスなんて魔法ができたら、そりゃ手元に置いときたいだろ。軍も今では市民階級が多いし、ましてや陸軍なんて初の市民出身の元帥だ。純粋な貴族のよりどころは政界だけ。俺はこっちが政府の本音だと思うね」
「へ、へえ……」
アンジュは何も考えてないような間抜け面で、興味なさげな返事をした。言ってることの半分も理解してないのだろう。それならそれで好都合だと、サイズは思った。
権威の失墜を貴族自身が自覚することは大事だが、市民に気取られるわけにはいかない。それは革命のカウントダウンを早めるだけであり、革命は国家を混乱に陥れるのである。アンジュは市民階級でも信頼できる人間だが、注意するに越したことはないだろう。
サイズはまた車窓に目を移した。流れる景色は先ほどと変わらない。うっそうとした森と、絵画のような戦争の跡だけだった。サイズは滝のように止まらないアンジュのおしゃべりに適当な相槌を打ちながら、外の景色をボーっと眺めることにした。
馬車が目的地に到着したのは、夕方になってからだった。シルバ島の南東砦で、つい先日まで魔軍と戦っていた部隊に合流。そこで一晩を明かすことになった。
「眠れん」
現在は夜も更けた二十二時ごろ。サイズがしかめっ面で起き上がると、固いベッドがキシリと音を立てた。
さすがは政府の高官であるから、無機質な砦の中に宿泊しても、サイズには個室とベッドが用意されていた。とはいえ絶海の孤島の戦地では高品質なベッドなど期待できるはずもなく、安物の簡易ベッドは、ほぼ足のついた板にテーブルクロスが敷いてあるだけと表現しても語弊のないものであった。というより、「それはもはやテーブルなのではないか」と、サイズは思わずにいられなかった。
つまるところ、中途半端に気遣われているせいで、野宿の方がマシ、という状況になってしまったのである。
サイズは首をコキコキと鳴らしてから、おもむろにベッドから降りた。そのまま歩いて、本物のテーブルに置いてあった帽子をかぶり、杖を持って扉を開けた。
「副大臣閣下、こんばんわ。どちらへ?」
さっそく見張りの兵士が敬礼をしてきた。軍規定の赤いローブを着た魔道師である。これが本来の軍人の姿である。アンジュの態度は極特殊な、例外中の例外なのだと、サイズはこの兵士に感心した。
「ちょっと外に出てきます」
「では、私も護衛に」
「いや、いいです」
そう言うと、サイズは制止も聞かずに歩きだす。
「し、しかし」
「少し外の空気を吸ってくるだけです」
「はあ……」
サイズが強引に押し切ると、兵士はそれ以上何も言えなくなった。
以降、見回りの兵士たちからも何度か呼び止められるが、サイズは同じ調子で押し切り、一人で砦を脱出した。
サイズは砦の周りをゆっくりと歩きながら、時折空を見上げて深呼吸をする。テーブルの上で寝続けるよりは、こうやって哲学にふけりながら徹夜する方が賢いのではないかと、サイズは思った。
しばらく歩いていると、正面に森が見えてきた。砦の正面口から右折して、そのまま外周に沿って歩いたので、方角としては北へ向かっていることになる。
よく見ると、森に入る道があることに気づく。砦から続いている道だから、もしかしたら進軍路の一部かもしれない。
サイズは、戦闘の腕前にはある程度の自信があった。「健全な魔力は健全な肉体に宿る」という、どこの本でも書いてない胡散臭い理論のもと、低い魔力量の増強のために、サイズは相当無茶なトレーニングを敢行した。何せ弟子になった当日にどっか知らん山に飛ばされて、一年間一人でサバイバルしたくらいだ。そのとき実に五歳である。少なくとも野生の獣ごときに後れを取ることはない。
少し空気を吸ってくるだけ、のつもりだったことは事実である。しかしサイズは、なぜかその森に引き寄せられているような気がした。
初歩的な火炎魔法で杖の先に小さな火球を作る。それを松明に、サイズは暗い森の中を、ちょっと冒険するような気分で歩いていった。
道はずいぶん奥深くへとつながっていた。基本的に一本道なので迷うことはないが、砦から遠ざかる度、サイズは何となく心細いような気がしてきた。
道の先に開けた空間が見えた。どうやら出口らしい。サイズは火球を消し、小走りになって、星明りの見える方を目指した。
森を抜けると、花畑が広がっていた。月と星のささやかな光の下。黄色や白の、色とりどりの花が咲き乱れる上を、緩やかな風が薙ぐ。人の手の入っていないその土地は、童話の世界に登場する秘密の花園であった。
おそらく先程の道は、この秘密の花畑へ向かう動物たちの獣道だったのだろう。この地が手つかずということは、軍は道に気づいていないのか。あるいは、取るに足らないと無視しているのか。
サイズは何となくがっかりした。何かあると期待していたわけではないが、湧き上がっていた冒険心は一瞬で萎えしぼんでしまった。
「はあ」
サイズは溜息を吐くと、ゆっくりと花畑に入った。まあ、そこかしこに砦や兵器の残骸がある戦地の島で、手つかずの自然を残すこの花園は、ある意味でレアなのかもしれないと、サイズは思うことにした。
「ひゃう!?」
しかし、誰もいないと思っていた秘密の花園に、声がした。サイズは慌てて声の聞こえた方を探すと、そこには一人の幼い少女が座っていた。幼女もサイズ同様、誰も来ないと思っていたらしく、突然の来訪者に驚いたように目を丸くして固まっている。
年の頃は十にも満たないだろうか。小さく、かわいらしい幼女が、いわゆる女の子座りで花に囲まれていた。傍らに自分で編んだらしい花のティアラが置いてある。
ここは本国から遠く離れた戦場の島である。兵士の家族がいるはずはなく、とうぜん我が国の娘ではないだろう。ならば島民の娘だろうか。もしそうであれば、後から入ってきた軍も知らない、この秘密の花園を知っていてもおかしくはないが……。
サイズはこの幼女の正体を推測しながら、もっと情報を集めようと観察した。するとサイズは、幼女のある重大な特徴を見つけてしまった。
幼女に、尻尾が生えていたのである。黒い尻尾が白いスカートの下からしなやかに伸びており、先はトランプのスペード型をしている。その尻尾が、蛇に睨まれた蛙のように動かない幼女の代わりに、時折ピョコっと揺れる。その姿はまさに。
「悪魔……」
尻尾の意味すること。それはサイズがつぶやいた通りであった。つまり彼女は、魔族に属する悪魔の一人だった。
自分を引き寄せたのはこれだ、とサイズは直感した。こいつは自分の両親を殺した魔族の仲間である。必ず仇を討つと、一人迷いの森に入り、師匠に弟子入りした五歳のときの憎悪を、直接ぶつける好機なのだ、と。
幼女は、サイズの冷徹な殺意を持った目に気づいたか、怯えたように動かない。今なら例え悪魔でも、簡単に殺せてしまうだろう。
サイズが杖を掲げると、紫紺の宝珠が鈍く輝きだす。幼女は無抵抗に動かず、サイズを見つめていた。
サイズは焦らすようにゆっくりと魔力を高めると、やがて緊張の糸が切れたようにフッと宝珠の明かりを消した。そのまま杖を下ろし、ローブを翻して踵を返す。幼女は腰が抜けたように座り込んだまま、花園を出て行くサイズの後ろ姿を見送った。
来た道を戻りながら、サイズは考えた。なぜあの悪魔を見逃したのか。その理由は明確だ。
休戦協定締結の前夜である。そんな折に戦場となった島にいる魔族の幼女ならば、おそらくデルシア要人の娘か何かだろう。
だとすると、このタイミングで彼女を殺したとなれば、間違いなく国際問題である。休戦協定が破綻するのは別に願ってもないことだが、政治的立場は副大臣といえども高くはない。家柄や幼少時のコネがないのは不利である。政策自体に非がない以上、感情で動くのは危険だ。
サイズはあくまで打算的に、そう考えることにした。
砦に戻ったサイズは、またテーブルの上で眠る気にもなれず、砦の外周をうろうろしながら、「人間とは」などという壮大なテーマについて哲学を深めるうちに、すっかり夜が明けていた。無論答えなど出なかったが、実に有意義な時間であったと、サイズは思った。「無知の知」というやつである。
さて、今日は休戦協定の調印式である。調印はシルバ島の中心地にあるセンテルハウスで行われる。
センテルハウスはポルティス軍の司令部として作られた小さな宮殿のような建物である。しかし後に魔軍と激しい奪い合いになったらしい。現在はかろうじてポルティスが管理しているが、あと少し戦争が長引いていれば、奪われていた可能性が高い。
昨日と同じく馬車に乗り込み、護衛のアンジュの止まらないおしゃべりを「たしかに」、「そうだな」などと、必要最小限の語彙で聞き流していると、昼頃にはセンテルハウスに到着した。
センテルハウスには、戦争の傷跡が生々しく残っている。各所に無数の銃痕が残り、窓ガラスは割れてないものを探す方が難しい。屋根には大砲で穿たれたらしく、板を張って応急処置的に補強した様子が見える。調印式に向けて片づけたのか、死体は一体も残っていないが、庭の一部に死体置き場であったろう広範囲の血痕が、未だ拭き残されていた。
柵の外には、ハンチングをかぶった数人の男たちが待機している。魔族と思われる耳の長い男もいる。わざわざご苦労なことだが、こんなところまで記者が来ているようだ。
国防省の役人たちに導かれ、宰相や大臣に続いて建物に入る。廊下にがれきが散乱しており、ところどころ引き裂かれているカーテンには血痕が付着している。宰相や大臣は見慣れているのか普通の顔をしているが、サイズは段々と気分が悪くなってきた。
新品のじゅうたんを敷いて取り繕ってある廊下を歩き、控室へ。アンジュら、護衛は扉の外に立った。準備が整うまで、サイズたちはこの部屋で待機することになる。
「しかし、酷いな。吐き気さえしてくる」
「ええ、まったく」
いかにも練達の魔法使いといった風貌の宰相スティビウムの言葉に、ウォルフラム大臣が同調する。二人の冷静な様子を見ていたサイズは、その何気ない会話に驚いた。
「なんと。宰相殿も大臣も、慣れておられるのでは?」
「まさか、慣れることなどできんよ。見慣れてはいるから、一々顔には出さんがね」
三人の声はこれで途切れる。この惨状を表すのに、この沈黙を超える表現はないだろう。
常に老獪で狡猾な政治をするスティビウム宰相からは、想像できないようなその言葉に、ずいぶんと失礼なことだが、サイズはどこか親近感のようなものを感じた。
無言のまま少し待つと、扉が叩かれる。呼びに来た役人に案内され、今度はギャラリーに入った。
ギャラリーはこの建物で最も広い。儀式や重大な発表をするために作られた部屋である。当初は数多くの絵画が飾られており、幹部たちのすさんだ心を癒していたそうだが、今ではそのほとんどが無惨にも傷つけられるか、盗まれてしまっている。
奥に一段高くなったステージがあり、半身で向かい合うようにして机が置いてある。宰相と大臣はその右翼に座り、直接調印に関わらないサイズは傍聴席に立った。
傍聴席の人数はまばらである。サイズはその中に、昨晩の悪魔の幼女がいるのを、横目にちらりと確認した。基本的に式を傍聴できるのは、両国の政府高官とその親族、進行に関わる役人、護衛くらいのもの。であれば、やはりデルシア要人の関係者である。
「ねえサイズ」
傍らのアンジュが、こっそりと耳打ちしてきた。サイズは幼女から目をそらす。
「しゃべるな。式典中だぞ」
「いや、でもあそこに座ってる人、すごい貫録だよね。若いのに」
アンジュが示す指先を見ると、ステージ左翼には貫録のある、タキシードを着た男が座っていた。隣には片メガネのウェアウルフがおり、そいつもなかなかの貫録だが、タキシード男には敵わない。
「ああ、たぶんあれが魔族のトップだろう」
外見は若いが、どことなく百戦錬磨の気品を放っている。立派な片角の紳士である。おそらく魔族の王、ベルゼビュート二世だろう。
「それでは、これよりポルティス王国、デルシア両国の休戦協定の調印を行います」
ステージ下に、牧師みたいな恰好の耳の長いエルフの女が現れ、進行する。まずエルフは協定の内容を読み上げた。
要点だけ言えば、まず五年間の休戦であること。原則として五年ごとに修正を加えず更新すること。休戦の確実な履行のため軍縮を進めることを定め、あとは休戦ラインや法律の適用など、細かい部分が確認された。サイズに知らされるより、ずいぶん前から練り上げられていることが伺える。
「以上。異存なければ、サインを持って協定の発効といたします」
エルフが締めると、両国の代表が手元の書類にサラサラとサインをした。これで無事、休戦協定の締結である。わかってはいたが、結局ここまで来た意味はなかったかと、サイズはがっかりした。
と、思った瞬間だった。
「続いて、協定締結の証として、デルシア王ベルゼビュート二世のご息女、ピア・エメラルド嬢とポルティス王国、サイズ・ウラノス国防副大臣の婚儀に移ります」
「何!?」
血迷ったとしか思えない衝撃の発表に、サイズは思わず素っ頓狂な声を上げた。しかしまるで予行演習でもあったように、タイミングよく傍聴席から一人の少女が出てきた。その女性はサイズも見覚えがある。昨夜、秘密の花園で出会ったあの少女であった。デルシア要人というか王の娘だった。
何が何だかわからず固まっているサイズに、宰相と大臣が無言のまま「早く行け」という眼差しを送ってくる。不意に何者かが背中を押した。振り向くと、アンジュも「はよ行け」と無言の圧力をかけてくる。
よくわからないまま前に歩み出たサイズは、よくわからないまま幼女の隣に立った。こうして隣に立つとかなり身長差がある。
サイズが笑顔を引きつらせて困惑するも、エルフはお構いなしに神父みたいな口ぶりで語り出した。
「汝、健やかなるときも、病めるときも、これを愛することを誓いますか?」
「誓います」
いや、知らねえよ。
ノーモーションで間髪入れずに答えた新婦、ピアの横で、新郎サイズは心の中でツッコんだ。そして気づく。最初にウォルフラム大臣が隠していたのはこれだった。
「誓いますか?」
「え? あ、はい。……え?」
さっきより語気を強めたエルフの威圧に、サイズは思わず返事をした。
「え……?」
何も知らないサイズを置いてきぼりにして、式は粛々と進んだ。
「宰相殿、これは一体どういうことですか!」
センテルハウスの廊下を早足で歩きながら、サイズは叫んだ。宰相のスティビウムは、サイズの前を逃げるようにツカツカと歩く。サイズの後ろには、ウォルフラム大臣と護衛たちが付いていく。
「ご説明いただきたい! なぜ私のいないところで、私の結婚が決まっているのですか! なぜその相手が悪魔なのですか!」
スティビウムは何も答えない。どこかに急いでいるようである。廊下のじゅうたんはがれきやガラス片がささり、ボロボロになっている。調印式のためにギャラリーまでのじゅうたんは張り替えてあったが、他は手つかずのようだ。
調印式の後、なぜかサイズは結婚していた。相手はピア・エメラルドという名の、よく知らん悪魔の幼女。魔族の王の娘らしいが、他の情報は聞いていない。無論幼いころに結婚を約束した覚えはないし、両親は下流貴族だったから、特に許嫁がいたなんてこともない。魔族との交流だってあるわけない。
「納得できません! 宰相殿! ご説明を……!」
喚きながら説明を求めるサイズの声を無視して、スティビウムは不意に扉の前で立ち止まった。ギャラリーからはずいぶん離れた場所である。おそらく幹部の執務室だった部屋だ。
そっと扉を開け、スティビウムは静かな声で言った。
「入り給え、副大臣」
長い髭を蓄えた老人の顔。しかしとてもすり減っているとは思えないギラギラとした、狡猾な鷲のような眼光に、サイズは息を飲んだ。
「失礼いたします」
「大臣、見張りを頼む。誰もこの部屋に近づけるな」
「承知しました。では諸君、護衛ご苦労だった。解散してくれ。ディア少尉は残り、見張りを手伝ってくれ」
「はっ!」
兵士たちは敬礼すると、後ろを向いて去って行った。残ったアンジュとウォルフラム大臣は扉の前に控える。スティビウムは他の兵士たちが部屋を離れるのを確認して、扉を閉じた。
部屋の中は、他のすべての部屋と同様、戦争の傷跡が深く残っていた。高級な食器棚やランプはすべてが倒れ、そこら中に散乱している。壁にかかっていた絵は床に落ちたまま。
しかしその中で、上座に当たる荘厳な執務机と椅子だけが、まるで年老いたこの偉大なる為政者のように、不自然に置かれていた。
サイズが机の前に立つと、スティビウムはゆっくりとした動作で椅子に座り、張り詰めた空気を解くように、息をついた。
「さて、ウラノス副大臣。これからすべてを話そう。この話は極秘事項だ。限られた人間にしか話すことはできないから、こんなところまで来てもらった」
スティビウムはそう前置くと、この不可解な状況を説明しだした。
「まず、この休戦協定のことだな。我がポルティス王国は、デルシアと戦争状態にあった。デルシアと海を隔てた大陸の国家だ。人類の防波堤として、我が国は他国から多大な軍事的、経済的援助を受けている。実際軍の二割は他国からの支援兵だ。しかし、長く膠着していた戦いは、確実に我が国の経済を圧迫している。この休戦協定も、もとは財務省の提案だった」
「財務省? 戦争で最も得をしているのは、その財務省のはずでは?」
ポルティス王国は、人類の防波堤である。大陸の主権を魔族に渡すまいと、王国はあらゆる生産を犠牲にしている。その分、王国は人員だけでなく、経済的にも相当額の支援を受けており、財務省は何もしなくても儲かる状況にあるのである。しかし戦争で儲け、戦争に生かされている財務省が休戦に動いていたとは、一体どういうことだろうか。
「財務省が戦争で儲けていたのは数年前までだ。我が王国はどうも外交が弱い。ずっと殿様商売ができていたが、他国はポルティス王国という絶対的な大国がいる上で隣国を相手取らなければならない。その経験の差は大きい。
五年前に経済援助が現物から現金に変わった。従来の倍は上乗せされたその額に、外務省はすぐに飛びついたようだ。おそらく賄賂もあったのだろう。わしには事後報告だった。外務省の動きを把握しきれなかったのは、わしの落ち度だな。
消費のほとんどを輸入に頼ることとなった王国は、深刻な食糧不足に陥る。急激な物価の上昇、インフレに悩まされ、市民の生活レベルは中世に落ちたといって過言ではない。かといって魔軍への敗北はすなわち国家の破滅だから、軍事費は削減できない。かくして財務省は、一刻も早く魔軍との戦争を終わらせ、経済を正常化する必要に迫られたのだ」
つまり、外務省が「してやられた」尻ぬぐいということである。財務省同様、何もしなくても儲かる外務省は、他国の提案に他意を疑わない。王国の破滅=人類の破滅だからである。しかし厳しい環境で生き抜いた他国の外務省は一枚も二枚も上手である。
多少援助を減らしたところで、王国は抵抗を緩めることはないと踏んで、「王国から可能な限り搾り取り、しかし破綻はさせない」程度の微妙な落としどころを探し当てたのだ。結果、王国は自発的な経済の発展を閉じられる。行きつく先は、国家とは名ばかりの、各国共同出資の連合軍である。
「そういう意味では、君のプロメテウスは天恵であった。戦争に勝利し、速やかに終結させる希望だ。デルシアを植民地にできれば、王国の生産は一気に拡大できる。何せあの広大な土地と豊富な労働力だからな。しかし現実には、プロメテウスは撃てない。君も知っている通り、魔軍の救世主の存在だ」
「抑止力、ですね」
「そう。その抑止力によって、我々は速やかな勝利の道を閉ざされた。しかし立ち返ってみれば、王国の真の目的は勝利ではなく戦争の終結だ。休戦でも人類の安全は担保される。故に、我が王国はデルシアとの休戦を決定した。ここまではわかるな」
「はい。大臣から聞いています」
「では、次は君が最も聞きたいだろう、ピア・エメラルドとの婚姻についてだ。事前に話せば、君はおそらく拒否するからな。決定してしまった後なら、まさか覆せまい。君が魔族に大きな恨みを持っているからこそ、騙すような真似をしてしまった。許してくれ」
たしかに、事前に魔族と結婚しろなどと言われたら、自分は何も聞かないうちにクーデターを起こしていたかもしれないと、サイズは思った。
「さて、初めに言っておく。これは政略結婚だ」
今や結婚にはお互いの同意が必要である。中世のように妻には一切の拒否権がない慣習はすっかり廃れたし、妻が必ず夫の姓に入る慣習も薄れている。概念的には結婚は自由意志ということになった。
しかし、こと貴族の世界では未だ結婚は政治に使われることが多く、政略結婚という言葉には、サイズはあまり不満を感じなかった。
「先に話した魔軍の救世主。ピア・エメラルドこそが、その救世主なのだ」
これには、サイズは驚いた。ピア・エメラルド。初めて会ったばかりで妻となった小さな少女。彼女がラグナロクなる魔法を使うらしい。
昨晩偶然にも見つけた妻の、あの怯えたような目からは、何も知らないような幼い顔からは、とても国を傾かせるほどの力は想像できない。
「魔王ベルゼビュート二世の娘。しかし血のつながりはなく、養子だ。出生は貧しい淫魔族の長女。エメラルドはその家の姓だな。生まれたころより体に膨大な魔力を宿していたため、魔王に育てられたらしい」
「天才ですか……」
サイズは天才というものが嫌いだった。
魔道師の世界では、生まれ持った魔力の量こそが実力を決める。魔力が多ければ、それだけ魔法を撃つことができる。また、いわゆる上級に分類される魔法は軒並み魔力を多く消費する。
サイズのように才能がない中で、既存の魔法の効率化に腐心し、技術を磨いて魔法を強化した人物は、おそらく他にいないだろう。
「両親については定かではないが、結構な金で娘を売ったとか、殺されたと噂されている。そしてそのラグナロクは、どうやら遠距離から放つことができないらしい。プロメテウスならば限度はあるにせよ、遠くの目標を狙うことができる。ええと、どのくらいだったかな」
「少なくとも、このシルバ島からデルシアを狙うことはできます。座標さえあれば」
「そう。このように射程に差がある。休戦に当たっては、どうしてもその差を埋めて公平な協定としたいとの申し出だった。性能では多少勝っているとはいえ、抑止力の存在に違いはない。ここからデルシアを壊滅に追い込んでも、たった一人を取り逃せば、我が王国も致命的な報復を受けかねない。
致し方なくてな。ならばお互いの最終兵器に婚姻関係を結ばせ、エメラルド嬢に我が王国の心臓を狙えるようにしようというわけだ」
「まあ、言わんとしていることのロジックをわかりました」
つまり、抑止力を正常に作用させるため、あえて俗っぽく言うのならば、お互いのタマを握りあった状態にしたいということである。
サイズは溜息を吐き、呆れたように尋ねる。
「それで、裏の理由は何ですか?」
「裏、とな?」
「まさか、宰相殿がその程度の要望を跳ねのけられない人物ではないでしょう。それでも国家を転覆させる魔法を持った、敵のスパイを引き入れるなどという、リスクの高い選択をした。さらにこの程度の話なら、誰に聞かれたって問題はないはずです。ついでに結婚の説明が意味不明です」
一応三つも言ったが、サイズが裏を読み取った根拠は最後に集約されている。これまでの説明で結婚までする必要は一切ない。また政治家特有の勢いで誤魔化す戦法である。
「ふふ、やはり副大臣なら、これくらいの裏は読めるか。無論、話すつもりだ。君の存在が不可欠な計画だからな。見当は付いているかね?」
「まあ、概ね」
「言ってみ給え」
サイズは表情を変えず、ただ算数の解を導くように淡々と答えた。
「エメラルド嬢の暗殺、と言ったところでしょうか」
「ふむ、ご名答。さすがだ」
スティビウム宰相はまた狡猾な鷲のような眼光をギラつかせて、真の計画を語り出した。
「無論、休戦などという甘えた対処をするつもりなど端からない。他国との競争は熾烈だ。こうしている内にも他国は植民地を広げ、国力を拡大している。軍縮などは愚の骨頂。
まずはデルシアの兵器を無力化し、一気に壊滅へと追い込む。デルシアを植民地とし、生き残りの魔族を奴隷とし、軍事力を維持、強化したまま、南東諸島も視野に入れて隣国との領土争いに参入する。南方大陸の植民地だけでは生産が追い付かんからな。領土を増やし、経済を立て直し、市民の生活と王国を再び繁栄させる。
その計画の足掛かりを、ウラノス副大臣。君にお願いしたい」
やはり昨晩の邂逅は運命だったのである。いっそあの場で殺していればと、サイズは己の甘さを悔やんだ。
エメラルド嬢と結婚し、引き入れれば、彼女を手にかけるのは容易になる。暗殺の知らせが到着するのも早くはないだろう。その間にプロメテウスでデルシアを狙える位置に入れば、その後は音を立てて魔族の国家は崩壊する。
「ただし、ラグナロクの発動条件がわからない。場合によっては死をトリガーにした自爆型の可能性もある。副大臣にはその見極めもしてほしい。タイムリミットは一か月。その間に情報を引きだしてほしい。暗殺が不可能なら、新たに対策を考える」
むやみに殺すことは危険ということである。
「そして最後に、魔族を身近に置くということは、状況は君も同じということだ。デルシアも当然君の命を狙ってくるだろう。何でも嫁入りに際して、世話役を一人つけるとのことだ。この際怪しいのはそいつだ。相手は二人とはいえ、注意してくれ」
当然である。お互いに最終兵器は一つ。両国のトップは、その一つが破壊されれば終わることを承知の上で、相手の兵器を破壊するチャンスを作ったのである。つまりお互いに、国家の命運を賭けた作戦なのである。
「とりあえず軍からも何人か、腕利きの護衛を手配している。陸軍のエースも付けるつもりだ」
「つっ……!」
サイズは聞き覚えのある二つ名に、思わず噴き出した。
「り、陸軍のエースと言いますと……」
「うむ。天使の名を持つ悪魔、アンジュ・ディア少尉だ。少尉には君の護衛として、これから常にともに行動してもらう。彼女とは幼馴染と聞く。その方が、君も過ごしやすかろう」
「それは、頼もしい限りですな……」
あいつ、知ってやがったな……。
サイズは馬車での会話を思い出しながら、笑顔を引きつらせた。
センテルハウスを出たサイズたちは、門に横づけた馬車に一組ずつ乗り込んだ。馬車が動き出すと、サイズは車窓に目をやったまま尋ねた。
「お前、どこまで知ってる?」
正面のアンジュは少し考えるようにサイズの顔を見つめると、質問の意味を察した。
「計画の内容と目的は聞いてるよ」
ほぼ全部である。
「やっぱりお前、あの時には俺が結婚するって知ってたのか……」
アンジュは昨日、サイズが呼ばれた理由なんかを聞いていたが、それは理由を知ったうえでの質問だったということである。おそらく本当にサイズが知らないのかの確認といったところか。
「まあ、ね。だから最後に膝枕でもって思ったんだけど……」
「は? それとこれと何の関係がある」
「何でもない。まったく、十年も森に引きこもってて、女心が全然わかんないんだから。そんなんで結婚生活、やっていけるのかな! 奥さん愛想尽かして出てっちゃうよ! このロリコン!」
「いや、ロリコンって……。何怒ってんだよ……」
突然怒鳴り出し、ぷいっと顔を背けたアンジュに、サイズは面倒くさそうな表情をした。実際五歳からの修業期間、約十年は異性とのコミュニケーションを完全に断っていたため、サイズは女心を知らない。それがパーティーのときに孤立する理由だったりする。女性を敵にすると活き辛くなるのは、どこの国でも一緒だ。
「それでさ」
アンジュはまた真面目なトーンに戻って、話を切り出す。
「できるの?」
「何が」
「暗殺」
暗殺という言葉を聞くと、サイズは一瞬だけアンジュの顔を見て、すぐに車窓に視線を戻す。
「できるよ」
「もしサイズの命令があれば、私が実行していいって言われてるんだけど」
「これぐらい、神の翼を借りるまでもない」
「人を殺したこと、ある?」
「……やり方なら知ってる」
アンジュは悲しいような顔をしながら押し黙り、白い手袋をはめた己の右手を見下ろした。
「人を殺すのって、そんなに簡単じゃないよ……」
かすかに下を向くアンジュの目に、影がかかっているような気がした。この、悪魔に悪魔と呼ばれる天使は、きっと今まで、数え切れないほどの命を手にかけてきたのだろう。
サイズは戦争の傷跡を映す絵画を眺めながら、口を開く。
「なら問題ない。俺が殺すのは、人じゃない」
自分に言い聞かせるように。