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わたしはかんがえる

作者: 万天

 「わたしはかんがえる」という文章がある。この文章は「わたし」という名詞、「は」という副助詞、「かんがえる」というア行下一段活用動詞の終止形の三単語で構成されている。

 そして日本語においては、現代では上から下、或いは左から右に書くことが基本であり、一般的には主語で始まり述語で終わるというルールがある。

 ここでこんな言語――仮にンホニ語と名付けよう――を考える。

 その言語は基本的に下から上、または右から左に書く。加えて述語で始まり主語で終わるルールだ。

 「したわ」という名詞があり、日本語に訳すと「わたし」と同じ意味だ。同様に、「は」という助詞、「るえがんか」という動詞もある。もちろん意味は、日本語における「は」や「かんがえる」と同じだ。

 するとどうだろう。先程の「わたしはかんがえる」という文章は、日本語とンホニ語では読解のプロセスが全く異なるのにも関わらず、同じ意味に解釈されることになる。


 多分、私達の精神も同じことをしているのだと思う。

 悲しい話を読むと――少なくとも幾らかの人は――悲しくなる。同じインプットを受けて、同じアウトプットを返すわけである。しかし、それぞれの人はそれぞれの異なるプロセスを辿ってアウトプットを弾き出す。人と人との違いは、そのプロセスにあるのではないか。

 お読みいただき、ありがとうございます。

 もしお時間があれば、他の作品も読んでいただけると嬉しいです。

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