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眠れるはずがない。父の研究日誌からどこの誰とも知れない宛の手紙が出てくるのだから、寝ている場合ではないのだ。
「ローラって、女よね」
ローラとはどこの馬の骨なのだろうか。母が亡くなってからというもの、父は殆ど家から出ることをせず、友人すら少ない人だった。そんな人間関係希薄の父が遺書を残すほどの女とはどんな人だろうか。
「やっぱり、愛人だったの?」
私が外へ仕事に出ている間にその女と逢引していたのだろうか。この家によその女が出入りしていたと想像すると、寒気がしてきてしまって、無理やりその予想を振り払うことにした。
「どうして、私には何も残してくれなかったの?」
日誌をいくら捲っても私宛の遺書は見つけられなかった。私は寝台で冷たく眠る父にそう問いかけてみたが、もちろん反応は何もない。ずっと続く無音に耐えられなくなって、寝室を飛び出し、父の書斎へ駆け込んだ。そして鳥の研究が記された膨大な書物を開くことにした。
「まずは、キュフ君を元に戻してあげないといけないよね」
訪ねてきたあの少女の言葉が本当ならば、どこかにあの赤い鳥が魂を食べるという記述が残されているはずだ。ランプの灯を頼りにひたすら頁を捲る。紙の擦れる音だけが耳障りな、とてもとても静かな夜だ。
どこからか歌が聴こえてくる。聴いたことがないはずなのにどこか懐かしいような感覚を覚えるその歌は、遠くから聞こえているようだった。
「いつの間にか寝てた」
硝子窓の外が白くなっている。文字を読んでいるとすぐに眠たくなってしまうのは昔から変わらない私の悪い所だ。
「まだ聴こえる」
夢の中だと思ったが、その歌は実際に誰かが歌っているようだった。私は窓を押し上げ、身を窓枠から乗り出して周りを見渡した。しかし近くに誰もいない上に、途端に歌は聴こえなくなってしまった。
「気のせいかしら」
窓を閉めて、机の上に広げた本や書類を片付けていると、玄関の扉が数回たたかれる音が響いて来た。居間に眠っているソラヤちゃんを起こしては悪いと、忍び足で玄関まで行き、ゆっくり扉を開ける。
「おはようございます。ご注文のお花をお届けに参りました」
扉の前に立っていたのは、昨日売り込みに来た花屋の男の子だった。それにしても、持ってくるのが早朝すぎると思う。しかも声が大きい。
「おはよう。本当に早いのね」
「真っ先にお持ちしました」
「ありがとう。お代はここに入ってるから」
小さな籠に青い花数束入っていて、花だけを受けとる。籠まで受け取ってしまうと別途料金が増されるので要注意だ。
「確かに受け取りました。それでは失礼します。ご愁傷さまでした」
封筒に入ったお金を受け取ると、男の子はとても嬉しそうに微笑みながら元気よく走って帰っていった。
「イルザさん、おはようございます。お客さんですか?」
男の子があまりにも大声で話すので、ソラヤちゃんが目を覚ましたようだった。
「頼んでいた花が届いたの。ごめんね、起こしちゃったでしょう」
「いいえ。目が覚めていたので大丈夫です。それよりお花を注文していたってことはお祝い事でもあるんですか?」
目が覚めていたという割には、とても眠そうな細い目をしている。安眠を妨げてしまって悪いことをしてしまった。
「いいえ。今日はお葬式なの」
「誰のお葬式なんですか?」
「父よ。今日、納棺するの」
ソラヤちゃんは眠そうな目を思いっきり見開いて、口まで開けて驚いた顔をする。
「ごめんなさい。そんな大変な時期とは知らず押しかけてしまって。あ、あの。何か手伝います」
そういえば父が亡くなっているという事を伝えてはいたが、それが一昨日だとは話していなかった。
「気にしなくて大丈夫。もう、準備は終わっているから、後は見送るだけなの」
「でも、一人では何かと大変ではないんですか?私、グッタのお葬式について何も知らないけど、泊めてもらったし、何かできることがあれば手伝わせてください」
こんな風に正面からこの少女を見ていると、とても不思議な気持ちになる。瞳は澄んでいて疑いを知らず、屈託なく笑ったと思ったら、次の瞬間には品の良いお嬢様のような表情を見せたりする。この子は何者なんだろうか。
「それなら、側にいてくれる?」
「え?」
「一緒にお葬式に参列してくれないかな?」
「はい。分かりました」
ほら、そんな風に優しく純粋に微笑まれたら甘えてしまう。
「ありがとう」
青い花束を握りしめて、私は少女に礼を述べた。自分で口にしてようやく実感が湧き始めた。今日で父と別れなくてはならないという事を。
お葬式に参列するならば喪服を着なくてはならない。喪服といっても正式な正装でなくてもよいが、全身黒ずくめで参列するのがしきたりだ。私は物置をひっかきまわして若い頃に着ていた服を探す。いつか仕立て直しが出来るかもしれないと思い、比較的綺麗な状態の服は残しておいたはず。
「あった!」
寝間着のままようやく見つけ出した頃には、すっかり朝日が完全に顔を出して気温すら上昇し始めていた。
急いで黒いワンピースをソラヤちゃんに着させる。丈は少し短いようだったが、気になるほどではないと思う。女性らしい服を着れて嬉しそうに飛び跳ねるソラヤちゃんを押さえつけ、長い髪を一つに結んで三つ編みにしてあげる。そしてソラヤちゃんは貴重品が入っているのか、黒い布袋を肩掛けにするので、「荷物は置いておいた方がいいよ。」と私は忠告したのだが、それを笑顔ではねのけた。その袋は黒いワンピースには似合わないし重そうだったのだが、本人がそれで良いというなら仕方ない。
赤い鳥には鳥用の餌を与えて、私たちは固いパンを齧った。なんとか用意が済んだ頃、葬儀屋が時間通りに家の扉を叩いた。
「おはようございます。ご準備の方はお済でしょうか」
葬儀屋は他に二人の男を連れており、その男たちは担架のような物を抱えている。普通なら棺桶を家の前に持ってきて、亡くなった人を納棺して墓へ連れて行くのが通例らしいが、私は棺桶を買うことが出来なかった。
「担架にてお父様をお運びいたします。簡易なものになってしまい申し訳ございません」
葬儀屋は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいんです。私がそうお願いしましたから」
「上がらせて頂いても宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ。父は一番奥の部屋です」
葬儀屋が家に上がると、他の男たちも担架を担いだまま連なっていく。男たちは汚れの染みついた薄茶色の作業服に身を包んでいて、いたるところに穴やひっかき傷が見受けられた。
「私ね、棺桶が買えなかったの」
赤い鳥を抱えるソラヤちゃんの隣で、私は独り言のように喋り始めた。
「父は昔、大学の教授をしていて、とても頭が良くて立派な人なの。でも、私の稼ぎが悪いせいで父に相応しいお墓も建ててあげられない。棺桶すら用意できなかった。だから、母のお墓に列葬してもらうことにしたの。母が眠っているお墓を再び掘って、棺を開けて、そこに父を入れてもらう。父は背が高い人だったから足を折りたたんで、少し窮屈に入ってもらうことになるでしょうね。……本当に私って、親不孝の娘よ」
ソラヤちゃんは私の顔を心配そうに見つめながら黙って私の独り言を聴いてくれた。
「イルザさん、一緒に眠れる相手がいるって幸せだと思うよ」
そう慰めてくれたのは、赤い鳥だった。
父を乗せた担架は静かに家を出て、墓地へと向かった。その道中で誰かに出会うこともなく、野生動物が通り過ぎることもなかった。誰も一言も話さずに黙々と歩き、不思議なくらい静かな山道を通って、共同墓地に辿り着いた。
墓地には法師様が待っていて、母の墓の前で先に祈りを捧げていた。
墓の前に着くや否や担架を担いでいた二人の男が父を地面に下すと、母の墓を掘り始めた。背中に背負っていた鍬で淡々と掘っていくのだが、明らかに掘る速度が速い。普通の人よりも数倍の土を張り返していく。そしてあっという間に母の棺が見えた。
「それでは開けますね」
葬儀屋がそう言うと、法師様が祈りの言葉を紡ぎ始める。
一人の若い方の男が棺の淵に降り立ち、ゆっくりと蓋を開けていく。棺が軋む音と共に砂埃が舞う。蓋はもう一人の男へ受け渡されて、父を乗せた担架の隣に置かれた。
「……」
想像はしていたが、実際に棺の中を見てしまうと絶句してしまう。そこに母の懐かしい姿は無く、白い骨が人間の形を現すように並んでいるだけだった。
男たちは担架から父をおろして、ゆっくり白い骨の並ぶ隣に寝かした。予想通り、棺は父には小さく、膝を折り曲げるようにして中へ納める。そして葬儀屋が父の胸元に白い花を手向けると、棺は再び閉じられた。法師様が祈り終わる頃には掘り返された土も元通りに埋め戻された。
「法師様。父と母の為に祈ってくださりありがとうございました」
私は用意していたお布施を手渡す。法師様はそれを受け取ると、金属でできた腕輪を数回鳴らしてこの場を立ち去ろうとした。
「あの、法師様に一つお聞きしたことがあるんですが」
「なんでしょうか」
「この町にローラという女性はいますか?」
「ローラですか。聞いたことがありませんね」
「そうですか。ならもう大丈夫です。ありがとうございました」
法師様は少し不思議そうな顔をしていたが、次があるらしく急いで墓地を出て行った。
「それではお名前を掘らせていただきます」
葬儀屋はそう言うと、鍬を背負った男たちに紙を見せて墓石の前に座らせた。紙には父の名前が記されていて、生年月日も書かれている。男たちはその紙をしっかり確認し、自分の右手の人差し指を小型ナイフで切り裂いた。
「え?」
ソラヤちゃんの驚きはもっともだ。私だってどうして私の両親の墓の前で流血しているのか疑問でしかないのだから。
赤い血がダラダラ垂れ落ちて墓石を赤色で汚していく。自分の血を人差し指に馴染ませて石の表面をなぞり始めた。
「な、何をしているんですか!」
私は血で汚れた手で大事な墓石をべたべた触るというあまりに不気味な光景に思わず大きな声を出してしまった。
「心配しないでください。彼らはこうして石を彫るんです」
葬儀屋が私の前に立ちはだかって落ち着かせようと冷静な声で話すのだが、ソラヤちゃんはその葬儀屋を無視して男たちの元へ駆け寄る。
「どうして指を自分で切るんですか?」
男たちは話しかけられたことに驚いて、二人でどうしようかと目くばせしながら対応に困っている。
「両親の墓石を血で汚す理由を私にも教えてください」
葬儀屋を振り払って、私も男たちの元へ駆け寄り問いただした。
「汚してはいません。ご心配なさいませんよう。名前を掘り終わってから綺麗に磨きますので」
年上の男がそう言って作業に戻ると、確かに血が付いた指を石の上でなぞることで石が削られていくようだった。
「どうして血なんですか?」
その技に興味を持ったソラヤちゃんは男たちの側にしゃがみ込んでそう質問した。
「血の中には鉄が含まれていて、それを固めて彫るんだよ」
若い方の男が優しい口調で説明する。
「すごい。それって、私にもできますか?」
「それは無理かな」
「えー。私も出来るようになりたかった」
ああ、そういうことか。この男たちは普通の人間ではないのだ。怪しげな技を使って生活する私たちとは違う人種の生き物で、幼いころから深く関わってはいけないと教えられてきた者たち。
「出来なくていいの。ソラヤちゃんは人間だから」
私がそう言うと、ソラヤちゃんは困惑して黙ってしまった。私は葬儀屋の腕を掴んで墓から離れた場所へ引っ張っていく。
「葬儀屋さん、どういうことですか」
「どう、とは?」
「どうして彼らに頼んだんですか?」
私が「彼ら」と言うので、葬儀屋は後ろを振り向いて二人の男に聞かれていないかどうか確認する。
「我が家が古くから付き合いのある、信頼できる者たちです」
「お金を出せないからって、あんまりではありませんか。だって、ゼノよ」
「何か問題でも?」
葬儀屋は何も問題などないといった風に聞き返す。問題はもちろんある。
「だってゼノは……」
「ゼノは何ですか?」
私がソラヤちゃんの方に目を向けると、彫り作業が終了したのか、墓石の前で男たちはこっちを向いて、私たちの話が終わるのを待っている。
「彼らは仕事も早く、気も良い。一度埋めた白骨眠る棺も文句言わずに開けてくれますし、それについてどうこう言ったりもしません」
この町の多くは、葬儀が行われるとなると隣人や知人が集まって葬儀を手伝ってくれる。棺作りも墓穴を掘るのも、棺を運ぶのも、一緒に祈ってくれて、花も持ち寄って手向けてくれるものだ。しかし、父は町の変わり者だった。鳥の研究一筋で金も稼がず、近所付き合いもしない人。
「こんなことを言っては失礼かもしれませんが、彼らはあの赤い鳥を嫌いませんし、博士のことも疎んでいません。私は彼らが適任だと思いました」
もし近所の男衆に葬儀を頼んでも集まってくれなかっただろう。たとえ来てくれたとしてもきっと厭々に違いない。
私は目の奥から集まってくる涙に瞳を溺れさせながら、奥歯を力いっぱい噛みしめた。
「作業が終了したようです。その花を手向けてください」
葬儀屋が私の背中を優しく押しながら、父と母が眠る墓の前まで導いた。私は今朝届いたばかりの青い花を墓石の前に供え、その場に崩れるように座り込んでボロボロと大粒の涙を落とした。
ソラヤちゃんはキュフ君を私に預け、どこかへふらっといなくなり、数分後に背の低い野草の花を摘んで戻って来た。素朴な花を供えると、突然異国の言葉で歌い始めるのだった。けっして上手ではなかったが、その歌に釣られて男たちも赤い鳥も一緒になって歌う。その歌を歌えないのは私だけのようだ。
「ソラヤちゃん、それ何て言う歌?」
「え!イルザさんこの歌、知らないんですか?」
私がその歌を知らないという事を驚いたのはソラヤちゃんだけではない。ゼノの男たちも赤い鳥も目を見開いて口もだらしなく開けて驚愕していた。その驚いた表情が面白くて、少し笑ってしまった。
「シルシのレクイエムです。亡くなった人に歌う歌なんですよ」
それはルシオラの歌。どこかで聴いたことがあるような懐かしい気持ちにさせる、聞き心地の優しい歌だった。
花の香りが風に乗って私の鼻に届く。それはソラヤちゃんが摘んできてくれた花の香りで、その花は秋になると町中で開花するアーザムで一番好かれている花だった。