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死亡判断をした父の担当医が葬儀屋を紹介してくれた。その葬儀屋がお昼前に家を訪ねてきた。
葬儀屋は棺を用意し、墓穴を掘ってくれる。そして墓石も制作してくれるのだが、そのどれにももちろんお金がかかる。父は趣味のような研究一筋の変わり者だったので、これといった収入は無かった。家計を支えていたのは、私がお針子として稼いだ少ない給料だけだ。
私の稼ぎでは棺も作れず、墓石は用意できそうになかった。
「父は生前、母の隣に埋葬してほしいと言っていましたので、母の棺に入れてくれませんか?」
この提案に、葬儀屋は渋い顔をした。この反応は当然だろうと思う。誰も埋葬した棺を再び開けることに抵抗がないものなどいないから。
「分かりました。では、お母さまの墓石に名前を連ねましょう」
とても理解のある葬儀屋で、私の無理な頼みをすんなり受け入れてくれた。私が頭を深く下げていると、葬儀屋は疲れた声でこう言った。
「一緒に埋葬するというのは、最近ではよくあることですから、気になさらないでください」
私が顔を上げた頃、葬儀屋は荷物を手に玄関扉を開けていた。そして私に「ご愁傷さまです」と伝えて帰っていった。
「……」
再び訪れた静寂の中、ふと自分の呼吸音が「五月蝿いな」と思った。
次に花屋が家の扉を叩いた。花屋の幼い少年は季節の花を集めた花籠を持っていて、一輪ずつ説明を始める。
「この青い花を棺に入れてはどうでしょうか。魂を清めると言われていて、巫様の硝子箱の中にも咲いている花だそうです。こっちの白い花は墓石の周りに植えるととても縁起が良くて、それから、こっちは家の玄関扉に飾っておくと、不幸ごとが続かないと言われています。いかがでしょうか」
私が青い花を一束を注文すると、花屋の少年は嬉しそうに不揃いの白い歯を見せた。
「ごめんなさい。白い花はまた今度にするわ」
「はい。それでは明日の朝に青い花をお届けいたします。お代はその時に」
「ええ、よろしくね」
「はい。それでは、この度はご愁傷さまでした」
少年はどこか朗らかにそう言って、軽い足取りで帰っていった。
この家にはほとんど客が来なかったのに、父が死んでからというもの次から次へと人が訪れる。私には財布から金を巻き上げていく魔物に見えた。
何をしようか。
「そうだ、喪服を出さないといけなかった」
次に何をしよう。
「お布施を用意しておかなければ」
それからどうしよう。それから……。
気づいたら、辺りが暗くなっていた。日没の時間はあっという間に過ぎていて、部屋の中が真っ暗になっていることにやっと気が付いた。ランプに火をつけて、机に置いた時、再び玄関扉を叩く音が鳴り響いた。
「はい、どちら様ですか?」
ランプ片手に扉を開けると、そこには秋口にしては厚着をした若い男の子が立っていた。珍しい色素の薄い髪が頭巾の下から零れ落ちていて頭巾を深くかぶっているせいで表情が良く見えない。
「あ、あの。ここはコルデス博士のお宅ですか?」
「そうだけど、何か御用?」
男の子はぱっと顔を上げると、眉尻を下げ、私との間を一気に詰めて、縋るようにこう言った。
「お願いします。助けてください」
「え?」
あまりに必死に訴えかけてくるので思わず、後ずさりしてしまう。
「博士に会わせてほしいんです」
「そ、それは無理なお願いね」
「お出かけなんですか?」
「そうではなくて」
「では、お仕事が忙しくてですか?博士の都合の良い時間まで待ちますから、お願いします」
どうしてこんな日も暮れた時間帯に血相変えてやってきたのだろうか。それに、さっきから外套の下で抱えている物は何だろう。
「いくらお願いされてもだめなの。父は死んだから」
「……そんな」
男の子は途端に勢いを失って、その場に力なくフラフラと座り込んでしまった。そして、外套の下で抱えていた物を私の前で出して見せる。
「君がどうしてそれを?」
男の子の両腕に納まっていたのは今朝放したばかりの父の赤い鳥だった。
「この赤い鳥が、私の知り合いを食べたんです」
その言葉に私は言葉を失った。
男の子を居間に通し、白湯を淹れてやるのだが、男の子は赤い鳥を抱えたまま俯いていて、白い湯気が立ち上っていることに気づきそうにもない。
私は父の書斎へ入り、部屋に灯をともす。乱雑に置かれた紙や本の山。壁一面の本棚に埋め込まれた本は今にも零れ落ちてしまいそうなくらいぎゅうぎゅうに押し込まれている。足元の紙や箱を退けながら机の上の分厚い革張り手帳を手に取った。これは生前、父がつけていた研究日誌だ。
「どこにも書いていないわね」
鳥が人を襲うなどの記述はなく、鳥と人との共存歴史についてがほとんどだった。
「そもそも、人を食べるって、あの小さい嘴でどうやって?」
私は日誌を脇に抱え、来た道を辿って居間に戻る。
「ねえ、知り合いを食べたって、猫か何かとかなの?」
「いいえ、人間です」
「どう見ても、その嘴では人間は食べられないわ。それにこの鳥は肉食ではないの」
男の子の膝の上ですやすや眠る赤い鳥は人間を食べたとは思えない程、体が歪に肥大していたりはしていない。
「人間と言うか、幽霊と言うか」
「ユウレイってなに?」
「うーん。説明が難しいんですが。人の形を保ったままの魂と言った方がいいでしょうか」
何を言っているのだろうか。この男の子は空想癖があるのだろうか。それとも虚言癖だろうか。
「ほら、魂って形が金色の雫みたいで光っているじゃないですか」
「……ええ」
もしかして魂って、墓地でたまに見かけるあの火の玉の事なのだろうか。
「キュフは光ってもないし、雫状でもないですが、体から離された魂で、人の形を保ったままなんです」
ああ、なんだろう。頭が痛くなってきた。
「人の形を保っているのに、どうして体から離された魂だって分かるの?」
「それはキュフの体が透けているからです」
体が透けた人間が存在するだろうか、否、存在するはずがない。もしかして、何かの新しい詐欺か何かなのか?憔悴した人間に近づいて、真っ当な判断が出来ないこんな時期に甘い言葉で騙して、お金を巻き上げようっていう魂胆なのかしら。
「あの、本当の事なんです。信じて下さい」
「大丈夫。疑ってなんていないの。ただ、信じられそうにないだけ」
男の子はみるみるうちに元気を無くしていき、今にも泣きだしそうだ。そしてやけを起こしたのか、突然赤い鳥を抱えて大きく揺すり始めた。
「お願い。キュフを返して。ほら、水を飲むようにすっと吸い込めたんだから、その逆だって出来るでしょう!」
鳥の頭がぐらんぐらん、前後左右に揺れる。このままでは鳥の首の骨が折れかねない。私が鳥を揺する男の子の手を握って止めると、男の子は勢いよく私を振り向く。その時、目深に被っていた頭巾が背中に沿うように外れた。
「君、女の子だったの?」
頭巾の中から溢れ出てきた色素の薄い長髪が空を切る。よく見れば顔も、女の子らしい顔つきで、男の子だと勘違いしていたのが恥ずかしいくらい、この目の前の子は女の子だった。
「もう、何もかも駄目だ」
女の子は鳥を私に押し付けて、その場にへたり込んでしまった。
「何が駄目なの?」
「アーザムに着いたらまずは一番安い傭兵を雇って、二番目に安い宿を取る。そしてアーザムで旅券を発行してもらって、次の日にはグッタの首都へ向かって出発する予定だったのに」
この子は首都ルクスへ向かう途中だったのか。どうしてこんな若い娘が一人旅をするのだろう。
「関所の前で赤い鳥を見つけたばっかりに、キュフは食べられるし、傭兵は出払っていて雇えなかったし、赤い鳥を連れているせいで宿は断られるし、町の人たちも逃げていくし。食べ物も売ってくれない。この服暑いのに耐えてたのに女だって知られたし、もう何もかも駄目なんです」
私は女の子の向かいにしゃがみ込んで、その細い背中をさすってやる。涙がぼろぼろ落ちてしゃっくりが止まりそうになかったから。
「お、お前はキュフを食べてお腹いっぱいかもしれないけど、こっちは、は、腹ペコなんだよ」
赤い鳥を弱々しい力で撫でるように叩くと、鳥が一瞬、驚いたようにビクついた。そして小さな目がゆっくり開いて、首を左右にゆっくり動かす。その姿は鳥の動きではないように感じた。
「こ、ここどこ?貴女は誰?」
赤い鳥が私の目をじっと見て嘴を器用に動かす。
「しゃ、喋ったーー」
私は驚きのあまり、悲鳴を上げることもなく、呼吸を瞬時に止めて鳥から手を離した。ぼてん、と鳥は鈍い音を立てて絨毯の上に転がる。そして確かに落ちた音と一緒に聞こえた「痛っ!」という人間の男の声を。
女の子が涙を止めて、絨毯の上で痛みにもがく鳥を見つめて口をあんぐり開けている。
「痛かった。それより、ソラヤ。どうして泣いてるんだ?」
鳥は体勢を立て直して、細し二本の足で立つと、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった女の子の元に歩み寄って、赤い翼でその涙を拭おうとしていた。
「キュフ、鳥になっちゃったの?」
「何を言ってるんだ。人間が鳥になれるはずが……。そういえば手ではなくて赤い翼が見える」
女の子が鞄の中から鏡を取り出して、鳥に向けててやると、赤い鳥は予想通り、酷い声で叫ぶように驚いた。
「何これ……」
私がようやく息を吸って、思わず発した言葉はそんなありふれた言葉だった。
詐欺ではないという事は確かだろう。しかし、この目前で繰り広げられている意味の分からない不可思議な事態は何だというのだろう。
父の研究していた赤い鳥はどうして魂を食べて、どうして食べられた魂が喋るのだろうか。前世を見る鳥だったのではないのか?
分からない。何から何まで意味不明だ。私は頭を抱えながら、台所で火を扱っていた。そういえば私自身も昨日から何も食べていなかったことを思い出した。それに女の子は父の鳥のせいで食べ物も買えなかったらしいので、食事を出してあげるのがせめてもの償いになればと思ったからだ。固くなったパンを細かく切って、野菜と一緒に煮る。
「大したものではないけど、良かったらどうぞ」
居間の机に料理を出してあげると、二人とも疲れた顔で私に礼を述べてくれた。そうだ、この状況を私より困っているのはこの二人だ。
「ああ、シンプルな料理を食べたのは久しぶりです」
「シンなんとかって、どういう意味?」
「ええっと、気にしないでください。とにかく美味しいです」
「そう、ありがとう」
女の子はここに来る前まではルシオラの里に居たらしく、ルシオラの作る料理は香草を多く使って匂いの強い料理らしい。
赤い鳥には鳥用の餌を出してやったのだが、どこか不服そうな顔で啄んでいる。
「あ、そうだ。貴方たちの名前は?」
いろんなことがあって、自己紹介すら忘れていた。
「私はソラヤです。こっちの鳥に食われた人はキュフです」
「私はイルザ。ソラヤちゃんはどうして男装して旅をしているの?」
「女の旅は危ないから旅に出るなら男装しなさいって言われたんです」
「それはルシオラに言われたの?」
「はい。トキトさんっていう歌の上手なおじさんで、とっても良い人なんです」
ルシオラという人種が存在することは知っているけど、私はルシオラと話をしたことがない。グッタではルシオラやプルモといったこの土地の原住民達とは距離を置いている。
「ルシオラが歌が上手いって本当なんだね」
「え!イルザさん、ルシオラの歌を聴いたことないんですか?」
ソラヤが目を見開いて私を凝視する。赤い鳥まで驚いた顔をされたらこっちが困る。
「グッタではルシオラの歌を聴く機会がないんだから仕様がないでしょう」
「じゃあ、人が死んだときはどうするんですか?ルシオラに歌って貰わないんですか?」
「ルシオラがいなくても信仰が安らかに眠れるように祈ってくれるから問題ないのよ」
「信仰ってなんですか?」
「嘘でしょう。ソラヤちゃん、神様知らないの?」
女の子は首を横にぶんぶん振った。そんなまさか。この世の中に神様を知らないで生きている人がいるなんて信じられない。ルシオラの歌を知らない私より、よっぼどそっちの方が重傷だと思う。
「ソラヤちゃん、今日は家に泊っていいよ」
「いいんですか!」
「うん、この国の事を教えてあげる」
赤い鳥と男装の女の子は手と翼を取り合って喜んでいた。その姿を見ていると、夢を見ているようで父が死んだことすら夢か妄想だったんじゃないかとすら思えてくる。このまま夢が続けばいいのに、と現実から逃げたくて彼女たちを泊めることにした自分が少し、情けなく感じた。
神は飢えに苦しむアピス人に理想郷があることを告げる。そこは水の豊かな肥沃の土地で、どんな食物も育ち、気候も温暖で住みやすいのだという。アピス人は理想郷を求めて海を渡ることを決意した。ウォークス海は荒れた海で理想郷に辿り着くまでに半分以上のアピス人が海に飲み込まれた。命からがら辿り着いた新天地は神のお告げ通り、緑豊かな美しい地であった。
「へえ、そんな歴史があるんですね」
私が語る昔話にソラヤちゃんは幼子のように楽しそうだ。
「中央山脈から西側の人間の多くはアピス人で、先祖は大海向こうの島国から移住してきたらしいの。今となっては混血してしまって、見た目ではアピス人かどうか判断するのは難しいわね」
「でも、アピス人は移住しないと絶滅してしまう所だったんですよね。グッタへ行きなさいって言った神様って何でも知ってるんですね」
「そう、神様は全知全能っていってね、何でも知っているし何でも先読みするの」
アピス人の信じてきた神は唯一神で世界の理を統べる者とされている。神の名前は極秘で、一部の高僧にしか知れないらしい。
「じゃあ、グッタの神様はキュフがどうすれば元に戻れるか知っているんですね」
「ええ、きっとそうね」
赤い鳥は机の上で羽をたたみ、小さくため息を吐いた。
「神様って本当に居るのかな?」
赤い鳥のこの質問に、私は少し頭を叩かれたように驚いてしまった。なぜなら、神様の存在を疑ったことが未だかつて一度たりとも無いから。
「何言ってるのキュフ。居るに決まってるでしょう。居るからお告げだって信じれたし、こんなに大きな国になったんだよ」
「そうか。ならなおさらグッタの首都へ行かないといけないな」
「そうそう、神様に会いに行こう!」
二人は決意を新たにしたのか、瞳が希望で輝いているように見える。しかしとても言いにくい事実を伝えておかなければならない。心苦しいが仕方ないと私は心を鬼にして事実を述べようと息を吸った時。
「やっぱりグッタへ行くのは間違いではなかったんだね。キュフ、良かったね。神様を頼ったら何も怖くないし、全部上手くいくんだよ」
「ああ、先が明るくて助かった」
「……」
あまりにも二人が嬉しそうなので、私は「神様には会えない」という言葉をゆっくり飲み込んだ。世の中には知らない方が幸せだってこともある。
「そろそろ、二人とも寝たらどうかな?夜も遅いし、私も明日は朝から忙しいから早く寝ようと思うんだけど」
ソラヤちゃんは私の提案にすんなり頷き、体に巻いていた鞄やベルトを外し始める。私は母が昔使っていた布団を出して来て、居間に敷いてあげる。
「この布団、少し黴っぽいかもしれないど使って。被せ布は洗ってあるから大丈夫だと思うけど、埃っぽかったらごめんね」
「いいえ。ありがとうございます。野宿を覚悟していた身としては十分すぎるくらいですから」
「キュフ君はどうする?鳥用の寝床ならあるけど」
父は赤い鳥に籠の中に毛布を敷き詰めてで作った寝床を一羽一羽に用意していた。
「それをお願いします」
鳥がぺこっと頭を下げる姿は、どうにも馴染めない違和感のある光景だ。
この赤い鳥が使っていた籠を持ってきて、ソラヤちゃんの布団の側に置く。鳥は慣れた仕草で籠に納まり、目を閉じてすやすやいとも簡単に眠ってしまった。
「イルザさん、おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
そう言って、私は蝋燭に灯った火を噴き消そうとした。
「あ、日誌を忘れてた」
机の上に置いたままの日誌を手にとると、紙と紙の間から一枚の封筒がすり落ちた。
「イルザさん、ローラってイルザさんのお母さんの名前ですか?」
手帳に挟まれていた封筒には父の字で「ローラ」と丁寧に書かれていた。
「いいえ。違うわ」
私はその封筒をソラヤちゃんから受け取る。私の右手は小刻みに震えて止まらなかった。