おまじないをかける人と軽音楽団
環の一週間の大半は剣道で占められている。環の通う高校の剣道部はいわゆる強豪ではないので勉学する間を惜しんで練習ということはないが、皆がそれぞれの目標を掲げて日々鍛練を積んでいる。特に環は自主的にストレッチや筋肉トレーニングも行い、土曜日には午前の部活動に加えて道場でも練習をしている。最早剣道は環にとってなくてはならない体の一部のような存在であった。
そんな環が唯一体を休ませると決めているのが日曜日だ。この日は部活もなければ道場にも行かない。とはいえ何もしないのはどうにも落ち着かないので庭での素振りやジョギング、自室での簡単な筋肉トレーニングをしてしまうことは許容範囲としている。これが相澤 環のいつもの一週間及び日曜日の過ごし方である…はずだった。
「カンカン!次の日曜もバンド練習だからいつもの場所に集合~!みっちりやろうぜい!」
そう言い残して颯爽と去っていく琉生は充実感に満ち溢れていた。
一方の環は中々疲れが取れずその表情はいつにも増して固い。有志による文化祭でのステージ発表は毎年行われているが、まさか自分が出演する側になるとは思ってもみないことだった。
とはいえ、一度やると決めたからには手を抜くつもりはない。環にとって未経験の楽器ではなく歌を担当することになったのは都合が良い。これなら普段剣道漬けの環でも帰り道などの隙間時間を利用して歌を覚えることができる。これまでの人生で一度も触れたことのない4弦楽器を割り振られた絢斗はこれも琉生の思惑通りだと苦虫を噛み潰したような顔でぼやいていた。
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「今日もお疲れさまー!ってことでメシ食いに行こうぜい☆ほらあ!若いんだからいつまでも座ってないで立った立った!」
本来であれば休養日である日曜日、朝9時から現時刻午後6時までフルタイムでの練習をこなした環と絢斗はその疲労でぐったりと座り込んでいた。
「お前なぁ…こっちはやったこともないことを急にやれって言われていっぱいいっぱいなんだよ。お前らは経験者だから余裕だろうが初心者が朝から晩までこいつを掻き鳴らして疲れねえわけねえだろが」
「ちょちょちょ苦しっ苦しあややっ」
「ぼ、暴力は駄目だぞ梅宮!」
ここ最近の絢斗は怒りの沸点が低い。いつもは冷静に自分や周りを客観視できる彼だが、柄にもなく琉生の胸ぐらをがっしり掴んで締め上げている姿を見るに彼の内側には眠れる鬼がいるのではないか。環はこれまた他人事のようにそんなことを考えていた。鬼が暴れるその原因は言わずもがな、この軽音楽にある。軽音楽器の経験のない絢斗の担当は琉生の独断でベースとなったのだがそれには特別不服だとは感じなかった。環は自分と同様に未経験者だが試合に向けての部活動もある為、今から一から始める時間がないことは分かっている。だから彼がボーカルということには納得している。琉生と義は経験者なので今回ステージで披露する曲を練習すればいいだけの話だが絢斗はそうはいかない。絢斗は知識としてベースの存在を知っているものの、演奏するとなると全くの初心者なのだ。
文化祭の準備は実行委員会が中心となって行っているので、文化祭においての生徒会としての役割はあくまでサポートである。十分とは言えないが環よりは練習にさける時間があるというのがベースに選ばれた理由らしい。
とはいえ初心者が人前で披露するレベルになることは簡単ではない。絢斗は自分のスタート位置が他の3人よりもずっと後ろであり、練習を始める前から既に出遅れていると感じていた。皆が次のステップへとどんどん進んでいく中で絢斗は基本のきの字すらままならないと感じ、皆に置いていかれる孤独感と足を引っ張っているのではないかという焦燥感、そして周りからの期待の圧力で持ち前の冷静さを徐々に失っていった。
「いやでも梅宮はコツを掴むのが早いと思う」
やっとのことで琉生と絢斗を引き離した義は素直な意見を述べる。
「こんな短い時間で初めから全部覚えるなんて中々できないって。しかも生徒会の仕事もやりながらだし。けど梅宮は大体できてるし細かいとこはこれからどうともなるからさ。センスあるよ、正直羨ましいくらい」
それはその場しのぎの下手なフォローではなく義の思ったままの言葉だということは、さっきまで他人事のように傍観していた環にも分かる。
実はドラム担当の義は父親の影響でギターやベースも人に教えられるくらいには弾くことができるので今回の絢斗の指導はほぼ彼が担当している。さらにはこの練習をしている場所も学校や有料のスタジオなどではなく、荻野家の敷地内にあるプライベートスタジオだというのだから驚きだ。これも義の父親が音楽関係の仕事をしているのもありわざわざ作ったものだという。
つまり義は幼い頃から音楽に触れてその感覚を養ってきたのだ。そんな彼の言葉にはお世辞や嘘は一切ない。
「そうか…?」
「そうそう!きつきつのスケジュールだけどまだ時間はあるし梅宮なら何とかいけると思う」
「荻野にそう言われると悪い気はしないな…。まあ、ここで投げ出すわけにはいかないからな。やれることはやっていくさ」
義の言葉を聞いた途端に絢斗の頬が微かにゆるみ、跡が残りそうな程に深く刻まれていた眉間のしわが消えていった。
絢斗がスタートした時点では習得しなくてはならないことの量が誰よりも多かったが、何に対してもそつなくこなせると自負していた彼は今回も短い期間でも上手くやれると思っていた。けれど練習していく中で自分では中々手応えを感じることが出来ず、その度に時間が足りないことを言い訳にしてしまいたくなるがそれをぐっと堪えた。一度引き受けた以上は責任を果たす、そう何度も心の中で唱えてきた。
その姿を義達はしっかり見ていたのだ。
「よーし!ということでみんなの頑張りを労って飯食いにいこーっ」
「お前の奢りな」
「えぇえっ!?」
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「何食べるか決まった人ー!?はーい!すみませーん!注文お願いしまーす!」
「自己解決するなよまだ決まってねえよ!」
あれから義の自宅近くのファミレスへと場所を移し、相変わらずマイペースの琉生に鬼の形相を向ける絢斗と我関せずにメニューに目を通し続ける環。
(梅宮はわりと短気で相澤は江崎とは違うタイプのマイペース…)
義は騒がしい3人の様子を見て改めてそう感じた。琉生とは中学からの付き合いであり彼が他人に左右されない性格であることはよく知っていたものの、環や絢斗についてはあくまで周りからの評価に基づいた「剣道部の寡黙なエース」「模範的優等生の次期生徒会長」というイメージしかなかったのだが、今回琉生の思い付きに巻き込まれたおかげでこれまでのイメージとは違う彼らの一面を知る機会ができたことには感謝さえしている。
(今まで江崎繋がりで話したことはあっても何となく近寄りがたいっていうか…自分とは違う世界に生きてるような感じがして深く付き合うことはないだろうなって思ってたけど)
「じゃああややはあれとそれとこれとこれでいいじゃん!すみませーん!」
「おい勝手に決めるなよ!ていうかそんなに食べられねえしそもそも全部ライスじゃねえか!メインはどこにいったんだよ!」
(学校じゃインテリ系イケメンとか神対応とか女子がキャーキャー言ってんの聞いたことあるし実際気配り上手いけど、梅宮意外と口が悪い。そんでよくキレる)
「…絢斗」
「なんだよ、早く決めねえとチャラ男のせいでライスまみれになりそうなんだよ。どうせお前は決めてんだろ」
「いーじゃーん。俺の奢りなんだから決める権利は俺にありまーす!」
「いや俺は自分のは払うから選ばせろ!」
「絢斗」
「だからなんだよ環。今選んでるところだろ」
「ライスまみれの何が不満なんだ。まみれるほどの食材とそれを頂けるこの環境に感謝するべきだ。当たり前なことではないんだと今一度その胸に刻め」
「誰かこの馬鹿真面目を黙らせてくれ!」
相変わらず真面目に生きている環と悲鳴にも近い叫び声をあげる絢斗を見て琉生は腹を抱えて楽しそうに笑っている。義が環や絢斗と関わるようになって分かったことはこの3人のやり取りは大体収拾がつかないということだ。絢斗が『キレる』気持ちも分かる。
そしてそんな状況を打破する術はただひとつ。
『ピンポーン』
「「あ」」
あえて外野に徹することで巻き込まれることを避け無理矢理進行する。
義は店員呼び出しのチャイムから手を離し何事もなかったかのようにメニューに目を戻した。
「はーい。お待たせしました。ご注文お伺いしまーす」
パタパタとやってきた店員に注文をしようと全員が顔を向けた瞬間
「「「あ」」」
「っ!あーっ!」
「…暖」
4人の注文を取りに来た店員は彼らがよく知っている人物、五十嵐 暖であった。
「びっくりしたーっ!みんなここで何してるのー?」
「いや何って飯を食いに来たん「はるる可愛いー!ウェイトレスの格好超似合ってるじゃん☆」
「…江崎、梅宮の顔を押し退けるの止めろって…。マジで怒ってるって鬼になってるって」
鬼の顔をぐいっと押し退けるお調子者を制しようとする突っ込み新参者。
彼らとはまた別に静かに驚いている男が一人。
「…暖、お前バイトしてたのか」
「うん!最近始めたんだー。バイトモードのはるちゃんも中々いいでしょー!」
「いい!超いい!全っ然いい!もうかわ「チャラチャラチャラチャラうるせぇよこのチャラ崎チャラいが」
鬼はチャラ男の両頬を右手でがっと掴むと込められる限りの力でその頬をへこませていく。
「いらいいらいいらいっ」
「江崎もこうなること分かってやってるだろ…」
「あ!ところでご注文は?私こう見えてもお仕事中なの!責任持ってお伺いします!」
暖はえへんと胸を張り、思いがけない出会いで何の為にチャイムを鳴らしたのか忘れかけていた面々に注文をするように促した。そうだったと思い出したように各々注文をしていく中で、環は内心穏やかではいられなかった。
「―はい!ご注文は以上でよろしいですか?」
「よろしいでーす☆」
「それでは失礼いたしました。料理が来るまで大人しく待っててね」
暖が注文を取り終えるとまた次の呼び出しのチャイムが鳴る。「はーい」といつもと変わらぬ明るい声で反応を示してその席へと向かっていった。
「まっさかここではるるに会うなんてね~。しかも制服スカートだし似合ってるし可愛いし~」
「うぜぇな。まあうちの学校は別にバイト禁止ではないからな」
「俺もバイトしよっかなぁー。あ!みんなで同じとこでバイトしようぜい☆」
「うぜぇな。荻野ドリンクバー行くか」
「そのちょいょいうぜぇな挟むの止めて!」
「そうだな…。ドリンク持ってくるか」
「あっきーまで俺を置いてかないで!」
大人しく待つとは一体何なのか。相変わらずの騒がしさの中で暖の言いつけ通りに静かなのは環だけであった。3人は険しい顔をしたままの彼を置いて席を立つ。
「相澤フリーズしたまま置いてきて大丈夫だったか?」
義は今までいた席をちらりと見て絢斗に問いかけた。環は普段から口数が多い訳ではないが、まだ付き合いの浅い義も彼の様子がおかしいと感じていたのだ。
「ああ、気にするな。あいつは五十嵐相手だといつもああなんだよ。結構面倒な奴で。まあそのうち荻野も分かるだろ」
「そうなのか?」
「そうそう!カンカンって不器用っていうかムッツリっていうか~。早くはるると付き合っちゃえばいいのにね☆」
「はぁ!?あの2人って付き合ってないの!?」
「ちょちょちょっあっきージュース入れすぎ入れすぎ!溢れてるって!」
義は驚きのあまりドリンクバーのボタンから指を離すことを忘れ、コップの許容以上に注がれた炭酸飲料が溢れ出してしまった。
「いやいやいや、相澤達が学校でイチャイチャしてるの何度も見たことあるけど?」
「それな、よくよく思い返してみてほしいんだがイチャイチャ攻めてるのは必ず五十嵐で環は大体迷惑そうに見えなかったか?」
「あー…そういえば付き合ってるにしては違和感あるっていうか、照れ隠しにしては割とそっけないリアクションするなぁとは思ったな」
義はなみなみと注がれた飲み物を運びやすいように少しすすり、自分が目撃した2人のやり取りを思い出してみる。
「そういえばこの間廊下で2人が横にくっついて話してるのを見たんだけどさ」
とある日の午後、義が次の授業の為に移動していた時にたまたま2人が話している現場を目撃したらしい。
「五十嵐が相澤の腕に抱きついてスマホ見せながら話しててさ、イチャついてるなぁとか思ったんけどよく見たら足で壁作ってたんだよね相澤」
「こういう感じで」と義は片足を上げ膝をつきだして再現して見せた。足蹴にしないあたり、申し訳程度であっても彼の礼儀を感じるところでもある。
「しかもすごいのがそのまま普通に会話してるとこ。五十嵐も五十嵐で特に気にしないでくっついてるし。それくっついて良いのか悪いのかどっちだよって思わず言いたくなった。まあ、そのまま見なかったことにしたけど」
義の目撃談を聞きながら琉生はしゃぎ過ぎた喉を潤した。席に戻る前に飲むことを咎める鬼の視線は気にしない。水分が渇いた喉に染み渡ったことを感じてから得意のトークを再開させた。
「カンカンってはるるのこと好きなのにわざとツンツンしてんだよね~。本人は好きじゃないとか言ってるけどさ誰が見たって好きでしょ。ツンツンするのも好き過ぎてどうしてかいいか分からないんじゃない?でもあれってさ、俺が思うにはるるに構ってほしいからやってるんだよ。いつもは女子に興味なさげにクールぶってるけど意外と構ってちゃんっていうか甘えん坊ていうか可愛いとこあるのに素直じゃないよね~。ていうかはるるだって」
「…暖が何だ?」
「いやだから…ってうわっ!カンカン!」
「たかだか飲み物持ってくるだけで何でこんなに時間がかかるんだ?」
琉生は喋ることに夢中になるあまり背後に迫る気配に全く気が付かなかったが、周りはそうではない。
「いやいや俺だけじゃないしー!あややとあっきーもここでずっと喋ってたし…っていないんですけどーっ!?」
琉生よりも先に迫り来る危険を察知した二人はさっさと席へと戻って自分の身の安全を確保していたのだ。逃げ遅れたのは話し出すと止まらないマシンガン琉生、ただ一人であった。
「お前また好き勝手に言いやがって」
「別に好き勝手言ってる訳じゃなくて!みーんなが思ってることを代弁してててててていててててっっ肋骨を拳でグリグリしないでっ」
「…江崎って要領いいのか悪いのか分からない時がある…」
「まああいつは見た目はバカそうだからな。ただ恐ろしく悪知恵が働く上に勘もいい。あれもどうせわざとだよ」
絢斗と義はマシンガンが制裁を受けている姿を対岸の火事のように眺めながら、いつの間にか運ばれていたピザをを口に運ぶ。
(環がいつまでもウジウジしてるのを分かっててやってるんだろ。あいつの背中を押したいと思っているのは俺だけじゃなかったってことか)
絢斗は親友に一歩を踏み出して欲しいと思っていた。けれどそれが出来ずにその場で足踏みをしているだけの彼に苛立ちを覚えるあまり口論になり、結局は何も答えを出せないまま険悪な雰囲気で終わることが多かった。
(琉生ならあいつの気持ちを少しでも前に動かせるかもしれない)
琉生はウェイトレスとして働く暖に小さく指を差しながら環に耳打ちをしていたが案の定叩かれていた。冗談混じりでも彼女に関する話をし続けて険悪な雰囲気にならないのは、琉生が自分の性質と環の精神的な領域を理解して上手く調整しているからだろう。
(人たらしのチャラ男は伊達じゃなかったな)
琉生は土足で相手の領域に踏み込むことはしない。その人懐こさで少しずつでも確実に距離を縮めていく。そんな彼だからこそ、暖のことになると考えることを止めてしまいがちな環に一歩を踏み出すきっかけを与えられるかも知れない。
どんなきっかけであろうとどんな結果が待っていようとも、環が今よりも前に進めるのであれば絢斗にとっても願ったり叶ったりである。ただこれまで悩む親友の姿を見てきた身としてはそのきっかけを作るのは自分であるべきだという思いがあるが故に、現状で自分よりも環にそれを与えられる可能性が高い琉生に対して焦りを感じていた。最早それは思いというよりも絢斗個人のプライドなのかもしれない。環とは中学校時代からの付き合いで今では互いに親友と呼べる存在だ。そんな親友の迷いや悩みに対して何か具体的な助言も気の利いた言葉もかけることが出来ずにいる自分が歯痒かった。例え助言が出来たところで行動をするかどうか決心をするのは環本人なのだから、結局は他人の自分が出来ることなどないのだと言い聞かせていたのだが。
「…簡単に鉄壁を崩せるんだなあいつは」
「…?それ何の話だ?」
「俺は要領のいいバカチャラ男にはなれないって話だよ」
「は?…梅宮は江崎リスペクトなの?確かにすげー奴だと思うけどさ、梅宮だって十分過ぎる位すげーじゃん。頭良いし統率力っていうの?俺は人を引っ張ったり動かしたりってのが苦手だからそれがサクッと出来る梅宮が羨ましいもん」
義はそう言いながらピザにこれでもかとタバスコをかけていた。トマトソースの赤色が更に深みを増したところで表情ひとつ変えずにそれを頬張る。
「別にリスペクトって訳じゃないが素直にすげーと思う、あいつのああいうところは。俺が手を伸ばしても届かない場所にいとも簡単にいっちまう。そこだけは俺も羨ましいよ」
「えぇっ!あの完璧人間の梅宮がまさかの江崎リスペクト!?マジで!?」
義のタバスコをかける手の動きが驚きに比例して激しくなる。ピザの上にバシャバシャと音が聞こえそうな位の量の赤い雨が降り注ぐ。
「いやリスペクトとは違うが俺にはない物を持っているってところだな。…というか荻野お前タバスコかけすぎだろ。ピザのトッピングが血まみれだぞ」
「えーっ!血まみれ事件発生!?やばいじゃんっ現場どこどこ!?お巡りさーっむぐっ…ぎゃああああっからああああっ」
タイミング悪く血まみれという単語に反応した琉生が騒ぎ始めたので、絢斗は店内の従業員及び他のお客様に迷惑がかからないよう迅速に対応した。その方法は多少荒っぽいものであり、更に騒々しくなってしまったのだがあらぬ誤解を招き店内が修羅場になる
よりかはマシだろう。
「どうだ上手いか。荻野特製血まみれピザの味は」
「俺のとっておきだったのに…」
「琉生、食材とそれを頂けるこの環境に感謝して全部食え」
「みっみずっ誰かみずをーっっ」
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「さて!宴もたけなわではございますが、時間の都合上ここでお開きにしたいと思います!」
「お前がひとりで勝手に盛り上がってただけだろ」
義の特製ピザによる刺激が完全に消えたところでいつもの調子を取り戻した琉生はご機嫌な様子で場を締めようとしていた。絢斗はそんな彼に対して迷惑そうにしていたがそれもいつものことである。
時計の針は夜の8時半を指そうとしている。男子高校生4人で朝から夕方6時までバンドの練習をした上に更にファミレスで2時間以上も過ごしていたのだ。
「今日は朝から晩まで男だらけでむさい日曜日でした!」
「心配するな。文化祭さえ終わればもう会うこともないだろう。短い付き合いだったが悪くはなかったが良くもなかった。元気でな、お前は悪い奴ではなかったよ。良い奴でもなかったが」
「えええっ!?会うじゃんっ!文化祭終わったって高校生活はまだ続くじゃん!超会うじゃん!週5で会うじゃん!ていうか淡白!全体的に感想淡白!もっと仲良くしろよーっ!」
「琉生、お前は悪い奴ではない。それは事実だ。もっとしっかり生きろ」
「え、それフォロー?ねえカンカンそれフォロー?もしフォローなら普通そこは良い奴って言わない?え何?俺の心配してくれてるの?自己評価では十分しっかりしてると思うんだけどー…あれあれー?みんな財布出してどこ行くん、あーレジねー。なるほどー先を急ぎますー?みんな俺を置いて先に行くのー?もういーさっみんな俺をそうやって置いてきぼりにしてっ」
「うるせーよっ早く来い!」
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「五十嵐さんお疲れ様」
「あ、お疲れ様ですー!」
午後9時、ファミレスの営業終了までにはまだ時間はあるが高校生である暖の業務はこれにて終了となる。
更衣室で着替えた暖にアルバイト仲間が声をかけた。
「ねえ、さっきまでいた男の子達って五十嵐さんと同じ学校なんでしょ?結構かっこよくなかった?」
「あ、それ実はあたしも思ってたー!4人ともタイプの違うイケメンって感じで!」
暖の職場は学校の予定に合わせてシフトを組みやすいこともあり高校生や大学生と学生のアルバイトが多い。暖より年上の女子大生組も融通の利くシフト制のアルバイトを探した結果、このファミレスに辿り着いたらしい。
その2人は先程までいた騒がしい4人組の話をしたくてたまらないようであった。
「高校生だからもちろん年下だけどさ、卒業まで待てばもうこっちのものじゃない?」
「分かるー!高校生と大学生じゃ見えない壁があっても卒業してその肩書きなくなっちゃえば対等だもんね!」
「あのー…お2人はなんの話をしてるのでしょうかー…」
「気にすることないよ五十嵐さん。こいつらはいつも客の顔見てキャーキャー騒ぎたいだけなんだから」
「あ、菊田さん」
突然始まる女子同士の共感祭りについていけない暖に助け船を出してくれたのは男子大学生アルバイトメンバーの菊田 圭介だ。
「こんな話に付き合ってたら帰る時間が遅くなるよ。女の子の夜道は危険だから本当は送ってあげたいけど、俺はまだ上がりの時間じゃないから」
「ちょっと菊田ー!あたし達にはそんな気遣いしてくれないくせに五十嵐さんの前でカッコつけんなー!それはそうと確かに遅くなっちゃうね、ごめんね五十嵐さん。帰り道気を付けてね」
「いえいえ!お気持ちだけでも嬉しいです!ではではお先に失礼しまーす」
暖は先輩達に元気よく挨拶をすると職場の従業員専用出入り口のドアノブに手をかけて外へ出た。これから近くのバス停へと向かう為に。
アルバイトは楽しい。学校の授業だけでは得られない成功体験、失敗体験が出来る場というのは貴重だ。これから人間社会へと飛び立つ練習としても非常に意味がある。そして学校とは違う出会いもある。上司、先輩、後輩、そして客として訪れる人々。敬語などの適した言葉の使い方やそれに合わせた表情、またそれぞれの距離感。最初は業務自体に慣れず戸惑うことも多いが、それでもここで働くことを楽しいと感じている。
ただ1つ不安なことを挙げるのであればそれは―
(やっぱり苦手だなぁ菊田さん…)
菊田圭介は大学生であり暖にとってはアルバイトの先輩でもある。彼はアルバイト初心者の暖に対して細やかな気配りをしてくれる。暖の緊張を感じとればそれを解すかのように笑わせてくれる。ミスをしてしまった時は助けてくれるだけでなく丁寧にアドバイスをもくれる、まさに非の打ち所のない先輩だ。
だが正直なところ暖はそんな彼に言い様のない不安を感じている。もちろん感謝はしている。感謝しても足りないくらいに彼には助けてもらっているのだから。それとはまた別のところで暖は彼を恐れている。その理由はもう何となく分かっていた。
(似てるんだ…何となく。菊田さんはすっごく優しいしいっぱい助けてくれる。けど…)
バス停へと向かう足が自然と早まる。まるで早くこの場から立ち去りたいと思っているかのように。だが暖は少し走り始めたところで突然その足を止めた。
(…そうだ…私の帰る場所はないんだ)
暖は下を向いたままぎゅっとスカートの裾を握り締めた。
「――暖」
はっと振り返る。自分の名前を呼ぶ声が誰のものかなんてことは顔を見なくとも暖には分かる。
「―たまき!」
そこには帰ったはずの環が立っていた。その額にはじんわりと汗が滲んでいるように見える。
「何でここにいるの!?みんなと一緒にかえったんじゃなかったのー?あ!もしかして私を待っててくれたの!?わぁーったまき優しー!大好きーっ」
暖はいつもの無邪気な笑顔で目の前に現れた環に思い切り抱きついた…つもりだったのだが環の体に巻き付ける筈の腕は空を切り、彼に預ける筈の自分の体はその勢いのままアスファルトに倒れ…こまなかった。
「…お前いい加減その後先考えず突っ込んでくるのを止めろ」
「さささっすがたまきぃー…信じてたよぉーぐえぇ」
間一髪のところで環が暖の襟元を掴んだお陰でアスファルトに飛び込まずにすんだ。が、すぐ離せばいいものを何故か数秒間そのまま首根っこを掴んだ状態を保っている。
「だまぎぃーぐるっぐるじぃー」
「ああ悪い。深い意味はない」
環はぱっとその手を離すとバス停へと向かった。暖はごほごほと咳をしてはいたが呼吸状態は心配ないようだ。
「あれ?たまきもバスで来たの?」
「いや荻野の家がここから近いから徒歩だ」
「あっきーの家ってこの近くなんだ~。じゃあ自転車取りにあっきーん家に行くの?」
暖は環の後ろについて歩く。バス停はもう目の前だ。環が義の家に置いてきた自転車を取りに行くのであればここでお別れとなる。とは言っても環と暖は隣人で毎日顔を合わせているのだからお別れという表現はかなり大げさだが、暖にとって彼は何よりも失いたくない存在だ。彼がいればつまらない不安など一瞬で忘れてしまう。その分彼がいない時はそのつまらないものが波になって押し寄せる。忘れさせてなるものかとこれでもかと彼女に襲いかかる。暖は何度も何度もその波に立ち向かいたいと思い、強く在りたいと願ってきたが結局は何も変わらぬまま時間だけが過ぎていった。いつしか暖は諦めることが癖になっていた。
いつものように「えー一緒に帰ろうよ~!大好きなたまきと帰りたいな~。たまきも本当は私と帰りたいくせに~」なんて軽く言えばいい。言えば言うほどにおまじないの効果は高まる。暖は結果を求めなくなった。本当の気持ちをほんの少し軽口にのせられればそれで伝えられた気分にはなれるのだから。
「暖、ちょうどバスが来た。早く乗れ」
タイミングが悪く軽口を言うチャンスもなく既に波が押し寄せ始めていた。
「うん…じゃっじゃーね!はるちゃんと離ればなれで寂しいかもしれないけどちょっとの我慢だからね~!自転車気を付けてね!」
暖はそれだけ言うことにいっぱいいっぱいで環の顔もよく見られなかった。その場から逃げるようにバスに乗り込み空いている席に腰を下ろす。バスのドアが閉まりまた次の駅へと走り出す。窓の外を見るけれど環の姿はもう見えなかった。
「…お前はいつからバイトなんて始めたんだ?」
「きゃあっ!?」
姿が見えなかった彼は今まさに暖の隣に座っていた。暖は思わぬ乗客に驚き悲鳴をあげたことで乗り合わせた他の乗客から不審げな視線を集めてしまった。
「すすみません…」
「叫ぶことねえだろ」
「だだだだってだって!何でここにいるの!?自転車は!?」
「俺は自転車で来てない」
「いやいやっだーかーらー!あっきーの家に置いてきたんでしょ?だって何に乗ってあっきーの家に行ったの?あ!もしかしてバス?だから自転車ないのかー!」
暖は1人で答えを見つけて納得しているようだがそれが正解とは限らない。
「違う。徒歩だ」
「あぁ徒歩かぁ~…徒歩!?とほって歩くってことだよね!?歩きで行ったの!?だって家から私のバイト先までバスで20分くらいかかるんだよー!あっきーの家だってそれくらいでしょー」
「いや正確には走った」
「はしっ走ったの!?バスで20分の距離を朝からー!?」
「トレーニングの一環だ」
大したことはないとそう涼しい顔で言うものだから暖は思わず笑ってしまった。
「あはははっ」
「何笑ってるんだよ」
「だってやっぱりたまきだなぁって思って~」
「何当たり前なことを言ってるんだ
」
ついさっきまで不安の波にのまれそうになっていたことが嘘かのように暖は笑えていた。環がいる、ただそれだけで暖の心はふわっと軽くなる。
「で、バイトはいつからやってるんだ。初めて聞いたぞ」
「へっ?」
「何間抜けな顔してんだ」
「えっだってたまきがなんかたまきじゃない…。逆に怖い」
常に笑顔でいる暖が見せる貴重な真顔。失礼なことを言うなとばかりに暖の前頭部に手刀打ちが飛んできた。
「痛いっ」
「それでバイトは?」
「えぇ~…ん~と」
頭をさすりながら暖が答える。
「たまきがるいるい達とバンド練習をするようになってからかな~」
「最近か。お前も文化祭の委員会やってるし、じゃなくても色々忙しいだろ。何で急にバイトし始めたんだ?まあ家の事情もあるだろうが…」
そう環が言いづらそうにするのを見て暖は心配をかけまいと慌てて言葉を付け加えた。
「あ!別にお金がないとかじゃないの!何ていうか~社会勉強?お父さんは単身赴任で頑張ってくれてるし、お兄ちゃんも自分のことは自分でって言って学校の後にバイトしてるもん。私も自分のお小遣いくらい自分で稼がなきゃって思って」
「…そうか」
環は呟くようにそれだけ言うともう深く聞こうとはせずにただバスの運賃表示器を見るともなく見ていた。
「…」
「…あれれ?それだけ?」
「何がだ?」
「何がだじゃないよー!何でバイト始めたのか聞くから答えたのに反応それだけなのー?」
暖は拍子抜けした。暖の知っている環はまず暖がどこで何をしようがあまり感心がない。話をすればちゃんと聞いてくれるが自分から「今日はどうだった」かなんて聞くことはほとんどなかった。そんな彼が珍しく暖のバイトについて興味を持ったばかりでなく自分から質問もしてきたのだ。これは暖にとっても予想外なことなので思わず間抜けな顔にもなってしまう。
それなのに「そうか」の一言で終わってしまった。そこが彼らしいといえばらしいのだが。
「もーったまき訳分かんなーいっ!別に内緒にしてたつもりじゃないけどたまきに言わないでバイトしてたから心配してくれてるのかなって思うじゃーん」
「…」
「…あれれ?もしかして図星?…え図星なの!?」
「…うるせえな」
「きゃあ~!否定しないってことはやっぱり心配してくれてたんだー!たまき大すき痛いっ」
ひとり騒ぐ暖に再び手刀打ちが飛んできたことは言うまでもなかった。
そうこうしている内にバスは2人の自宅最寄りの停留所に止まる。そこにはバスに乗り込む様子もない男性が立っており、街灯に照らされた顔はこちらを鋭く睨み付けているように見えた。車内からその表情は良くは見えないのだが少なくとも笑顔を浮かべている訳ではないことは分かる。何故ならその男性は―
「あ、お兄ちゃん!」
「…五十嵐さん」
五十嵐 五十嵐 皐月 大学に通う暖の3歳上の兄だ。環は正直なところ彼に苦手意識を持っている。彼に強い敵意を向けられていると感じているからだ。剣道の試合のそれであれば真正面から向き合い打ち合うことが礼儀であるが、彼から感じるそれはそんな生易しいものではない。憎悪なんて言葉が合っているのかも分からないが、嫌いという感情以上の何かであることは間違いない。
「暖帰るぞ」
それだけ言うと暖の体を自分の方に引き寄せて自宅へと向かって行った。あの琉生に負けず劣らず騒がしい暖が何も言わずされるがまま、というより何かを言う隙もなかったというのが正しいだろう。それは環も同じだった。無言の圧力は環以上のものがある。有無を言わさない。言わせない。皐月はまるで環から暖を守るように、遠ざけるように足早に去っていった。
バス停から環と暖の家は少し歩けばすぐの距離だが、環は2人が自宅に着くであろう時間を見計らっていた。何となく2人の背中を見ながら帰るのは気が引けた。考えすぎだとは思っていても遠ざかる暖の姿を見ると自分達の距離は開くばかりで縮まることなどないのだと暗に示されているような気がしてくる。
「はあ…」
環は小さくため息をつくと、もう見えない彼女の小さな背中を思い浮かべながら同じ道を辿っていった。