さよなら歯ブラシ
。・゜・(ノД`)・゜・。
鏡に向かい軽く笑顔を作ってみた私の口で、青海苔一つ付いていない歯は今日も白く輝く。
だが油断してはいけない。
昨晩は、あんなに激しく、激しく、激しく、歯茎から血が滲むまで磨き尽くした綺麗な筈の口内は、睡眠と呼ばれる人間が最も必要とする行為によって、酷くベタついている。
いや、ベタついているのは、私の人間性の方なのかもしれないな……などと自嘲的な思考を巡らせながら、愛用のピンクの歯ブラシのキャップを外す。
少し草臥れたピンクの相棒の毛先は、左右共に外に向かって跳ねていて、何ともだらしがない。
ああ、買い替え時だなんて分かっているさ。ただ捨てようと思う度に、胸の奥底に仕舞い込んだ彼との思い出が、鮮明に脳裏に浮かび上がって、私を思い止どまらせる。その場に踏み止どまらせるんだ。
情が沸いてしまったのか?
私は非情になりきれないのか?
『早く俺を捨てちまいなよ。俺にゃ、もう、あんたの歯を綺麗にする力なんざ、残ってないんだ』
一瞬……それは一瞬、私は相棒の声が聴こえた気がした。初めてのことではない。その度に私は耳を塞いでいたのだ。
気のせいだ、気のせいだ。私は力無い相棒の声が、聴こえてしまうのが怖かった。さよならするのが怖かった。
『さあ、今日でお別れだ。歯磨き粉は、俺のお気に入りにしてくれよな』
鏡の前にある洗面台のラックから、カラフルなチューブを左手に取った。
縺れる指で蓋を開けて、少し多めに捻り出す。顔はまだ洗っていないのに、ポタポタと顔をつたって、洗面台の上に落ちる水滴。私は泣いているのか?
そして今、彼に目を戻すと、くたびれた毛先の上には、なんとも色鮮やかな三色の虹が掛かっていた。
『さあ、最後の晴れ舞台だ。派手にいこう』
私は三色に輝く彼を、自分の口内に突っ込んだ。瞬く間に泡立つ口内。そしてゆっくりと奥歯に当てて、一気に加速させる。
磨くんだ、磨くんだ。
前歯に、奥歯に、犬歯に……
掻き出すんだ、掻き出すんだ、歯垢を、残った酒の匂いを、昨日までのモヤモヤを、泣き虫な自分を。
数時間後、泡だらけになった口を濯いで、私は生まれ変わった。
『今までありがとな。アバヨ』
「バイバイ」
名残惜しかったが、また寂しくなると思い、私は振り返らずに彼を屑籠に捨てた。貴方のことは忘れない。
絶対に。
終