急狗/沖伽耶奈
その音を伽耶奈が認識したのは、何回かコールが、既に鳴った後だった。
「ぅん……」
私設研究所の自室。染色処理が終わった机。その横の何も置いていない机に突っ伏し、伽耶奈は休憩ついでに眠りこけていた。その浅い眠りを妨げる、コール音。
「誰ぇ……」
ぱたぱたと、突っ伏したまま腕を伸ばして音のありかを探り当てる。
「はい……、沖です」
どうせあれだ、この前からしつこく飲みに誘ってきた理化学研究所の主任教授だ。もしくはドイツの学会でやたらと口説いてきた、若い上に脳みそが空っぽのバカ殿准教授だろう。
――もう少し、まともな人からかかってこないかな……
しかし声の主は、予想だにしない人物だった。
「伽耶奈姉さん、ですか……?あ、その」
――亜子、です。
「ん!?あ、え、ええッ。亜子ちゃん?」
思わず立ち上がってしまった。けほけほと咳をし、声の調子を整える。うん、完璧。
「ど、どどどうしたんだ?」
ところが、気持ちが全然整ってなかった。
そりゃ、連絡先は交換したけど。
まさか亜子ちゃんから電話をもらえる日が来るとは思わなかった。
――なんかお姉ちゃん、うれしいなぁ。
自然に頬が緩んでしまった伽耶奈だが。次の一言で、彼女は氷水を浴びたような気分になった。
「あ、あの。今、アキ君と、真夜ちゃんが大変で……」
気持ちがすっと、明崇の方に向いた。
明崇と真夜が、大変。
――嫌な予感がした。
電話越しにうるさく、何か音がしている。
その音にもどこか、意味があるように思えてきてしまう。
――確か研修旅行、とか……
そうだ。
明崇は今日、神薙を、持って行ってない……
「その、かん、かん……「神薙」っそう、カンナ?を、持ってきてって」
「場所は?」
「んぅ、えーと……」
「代わりました、剛です」
声の主が、途中から聞こえていた、剛のものに変わった。
「今渋谷の、ヒカリエの中に明崇と真夜が閉じ込められてます。例の明崇の追ってた殺人犯だと思います、結構ヤバいっぽいです。なんか、よく分かんないすけどその人殺し……」
――正体がうちの教師、だったみたいで。
何、だって。
それまで聞いてすぐ、伽耶奈は車のキーを引っ掴み、外に出た。
もう眠気は、微塵も感じなかった。