柔覚/三位明崇
明崇が目を覚ましたのは、その、匂いのせいだったのかもしれない。
知らない、布団。天日干しした洗濯物の匂い。背中に感じる柔らかい寝床の感触。優しく包む、布団の重み。
「……」
明崇は完全にその眼を開けた。
そこはどうにも、見知らぬ部屋の寝室、そこに敷いた布団の上の様だった。
部屋自体が、柔らかい、落ち着いた雰囲気を持っていた。クリーム色の壁、明るい色合いの棚、机などの家具。そして、いたるところで目に入る、ぬいぐるみ。
そこでその部屋の、ドアが開いた。
「あっ、どうも。失礼しますぅ……」
なんと、見知らぬオジサンが、そこに立って。
「あ、おはよーぅ」
明崇に、笑いかけていた。
「……」
いや。待て待て待て待て。
――ここ、何処!?
見知らぬ、しかし女性的な部屋。そしてなぜかそこに入ってきた、正にサラリーマンの休日といった風体の、ポロシャツの中年。
いや、これはマズいって。何が何だか分からないけど、いろいろマズい。
俺はそのオジサンを見据え、起き上がり、取りあえず距離を取ろうと――
「ちょっと、パパぁ?勝手に入っちゃダメェ」
「えッ」
そこで何とか、明崇は冷静に立ち返ることができた。
「あれ、アキ君おはよ」
亜子だ。また、エプロン姿。じゃあつまり、この部屋は……。
「パパ、亜子の部屋に勝手に入らないでって、いつも言ってるよ?」
そう言い、彼女は腰に手を当てる。明崇は、亜子が人を叱っているのを初めてみた。しかも相手は父親。
――なん、だよな?
「そ、そんなこといったってさーぁ?気になるじゃん?その、亜子の友達泊まってるっていっても今度は、お、男なんだぜっ。気になるじゃん。パパ気になって夜も寝られない、じゃん。まぁ、昨日は普通に寝たけど」
な、何なんだこの人……。
「ぅんもっ、いいからパパはホラっ、あっち行くっ」
「え、ちょ、ひどぉい。亜子ちゃんひどぉい」
中年、もとい登田父、退場。
「……今の、お父さん?」
「うん、パパ」
――そう、だよな。
一般的な家庭なら、父親がいるのも当然のことだ。まあそれ以上に、疑問に思うことは多々ある、変わったお父さんではあったかもしれないが。
そこでストン、と。亜子が明崇の寝る、布団の枕元に腰掛けた。
「アキ君、真夜ちゃんはママとスーパーに行ってるから、それまで亜子とお話ししよ?」
――二人とも、もうすぐ帰ると思うけど。
「あ、ああ。それはいいけど。伽耶奈は」
至急、今後の事を話し合わなければならないのだが……。
「伽耶奈姉さん?お仕事昨日までお休みしてたから、今日は行かないとって言ってたよ?」
そうか。またアイツ、仕事ほっぽりだして来てたのか。
「でも大丈夫。夜にはここにまた来るって。お夕飯食べに」
まぁ、寂しがり屋だからなあいつ。ここに来るなら、その時にちょっとした話くらいできるだろう。
「伽耶奈姉さん、いいお姉さんだよねっ」
「は?」
そうだ。なぜか亜子は先ほどから、伽耶奈の事を姉さんと呼んでいる。
「だから、伽耶奈“姉”さん」
その口ぶりだと、だいぶ伽耶奈と亜子は親密になったようだ。別にそれは構わないのだけど……
――真夜はともかく亜子にまで、余計な事喋ってないだろうな。
少しそれが、明崇の中に心地良い不安と恥ずかしさを生んだ。言い訳をしたいけど、できないような、何かそれくらいの、微妙な感傷。
「アキ君の事、伽耶奈さんもずぅっと探してたんだよ?」
「ああ、そうだよな」
そう、それに関しても、気の利いた文句ひとつ言えない。感謝の言葉しか、ない。
――暴走状態だとどうなっていたか。
そう考えるだけで怖気が奔る。
伽耶奈だけじゃない。考えてみれば真夜も、亜子も、剛も。みんなが動いてくれていたのだろう。今もそうだ。こうやって、休ませてもらっている。
――とんでもない借りが、できてしまったな。
「そう、いえば」
その彼、剛は今。
「剛は……どうしてるんだ」
「お兄ちゃん?んー、お兄ちゃんはね、お昼からずっと寝てるー」
お昼、ね。昼……?
「最近もね、ずっと、忙しそうなの」
そう言えば今、何時なのだろう。日付も。曜日感覚が完全に失われている。
がばっと、飛び起きた。
「わわっ、どしたの?」
今の日付と時刻、曜日を聞くと、彼女はすぐさま、携帯電話を確認した。
「5月22日、日曜日ぃ。ただ今4時22分だよ……あれ、23分になった」
そう言われても、中々ぴんと来なかった。以前亜子と一緒に下校した時が何日だったかも、もはや覚えていない。
あれから結構、経っていることは確かなのだろうが。
「俺、どれくらい寝てた?」
「うん、アキ君が倒れて寝込んじゃったのが、20日の夜だね」
丸一日は、寝ていたということか。
そう言えば……ものすごく腹が減っている。全身がふわふわとして、力が入りにくいことに、自分で起き上がってみて気付いた。