仲直りと微睡落/三位明崇
混沌とした悪夢に、唐突な終わりが訪れた。明崇はその微睡の中、嗅ぎなれた懐かしい、血の繋がらない姉の匂いを嗅いだ。
そうか俺はまた……伽耶奈に助けられたのか。そう思い、彼女の胸から顔を出した。
しかし顔を上げるとそこには。
伽耶奈だけじゃなかった。亜子と剛、そして一番手前に、真夜。
「明崇」
にこっ、と。晴れやかな笑みで彼女は笑いかけてきた。しかし明崇は知っている。
――アレは本当に、キレてる時の顔だ。
昔からそう。本気で明崇に対して怒っている、もしくは苛立っている時、決まって見せたあの笑顔。
だから、逃げ出してしまったのだ。しかし抑制薬特有の、痺れるような感覚が奔ってすぐに体の自由は効かなくなった。情けないことに、駆け上がった屋上から一歩、動くにもやっとという有様だ。
思い返せばそれはもう、怒られる内容に心当たりはあった。
――今日中にメールしてね。後電話もすること。
あれからもう、本当に何日経っているのだろうか。
明崇の場合、鬼人化が進行するにつれて、何かを思い出す、と言うのは徐々にできなくなってくる。高次な思考が、だんだんと難しくなってしまうのだ。
でも。だから忘れたなんて、真夜には口が裂けても言えない。
カン、カン、カン、と。複数の、階段を駆け上がる足音が聞こえてくる。明崇は立ち上がり、逃げるように、屋上の隅へと歩き出す。
けど勿論。逃げられるはずもない。
後ろに視線を感じ、恐る恐る、振り返った。
紛れもない、四人がそこにいる。
最初言葉を発したのは、亜子だった。
なぜか、なぜだか彼女は……エプロン姿。
「アキ君……逃げるの得意だね」
どうにか返そうにも喉が掠れて、上手く声がでない。
「あ、ああ」
彼女らしい言葉の中に、分かりやすく優しい怒りが、混じっている。
「でも、逃がさないからね。卑怯だもん。そんなの」
「卑、怯……?」
よく、分からない。
「卑怯だよッ!」
亜子の小柄な体が、逆立ったように見えた。正直、びっくりした。
「アキ君とは……、友達になれて嬉しかったよ。本当だよ!?なのに……なんで友達なのに、そんな逃げるような事、するの」
彼女の激情が、いやおうも無く明崇の胸を揺さぶる。その強い感情の奔流が、明崇の心臓に無理矢理流し込まされていくようだ。
「アキ君は私の事、助けてくれたよね。それは私が、友達だからじゃないの。なのに私がアキ君にお礼をしようとしたら、それが何でダメなの。なんでどこかに行っちゃったの?あんなに苦しそうにして……、亜子言ったよね、何でもするよ?だから私にもアキ君のこと……助けさせてよ」
――それとも私はアキ君の、友達にはなれないの。
亜子のふらついた肩を、真夜が抱いた。
「俺からも……一ついいか」
剛だった。そういえば彼は何でここにいるのだろう。
「明崇にはさ。まぁ、亜子を無事に家に帰してくれたってのが、本当になんてお礼言えばいいか……」
――だけどそういうやり方って、変だ。
「やりようによっては明崇、お前のは、自分から押し付けるだけ押し付けて、そして逃げてる。なんかうまく言えないけど、そんな感じする」
亜子が袖を目元に当てながら、ぶんぶんと首を縦に振る。そのオーバーな仕草が懐かしい。
「頼むから、亜子に、ていうかそれより先に真夜と伽耶奈さんにも、気を配ってやれよ」
もう、返す言葉もない。もし言い返せるとしても、その言葉が思い浮かぶのは後になってしまうだろう。
そこで今まで、ただ立っているだけだった真夜が、動き出した。
「ッ……」
――怖い。すごく、怖い。明崇は思わず後ずさった。
真夜の目には、純粋な怒りが見て取れる。こんなに怒らせてしまったのは初めてかもしれない。そんなどうでもいい事を考えてしまう。
つかつかと、彼女は近寄り。
――パシィン。
平手打ちの衝撃、それにコンマ一秒遅れて、肩に柔らかい黒髪の重み。
真夜の小さな頭が、肩からずれ落ちて、明崇の胸に預けられていた。
「ば、バカかぁッ、この、このぉ」
泣いている。彼女が泣いているのを見るのは、流石に初めてだ。
そして泣かせたのは。
――俺なんだな。それくらいは分かった。
とす、とす、とす、と。
彼女の小さな拳が、明崇の胸を優しく叩く。
その拳が胸に触れるたびに、じわじわとそこが熱くなる。
「し、しんぱいしたっ、心配したよぉっ」
叩かれるたびに、暖かくて、でも奥底は痛くて。
そこになって俺はようやく理屈抜きに、バカな事をしたと、そう思った。
「……ごめん」
無意識に、真夜の細い胴に手を回していた。まだ意識が、少し朦朧としていたのかもしれない。
「あっ」
真夜が耳元で、明崇が今までに聞いたことのないような、この距離じゃないと聞こえないような、それくらい小さな声を漏らした。
視界の端で、伽耶奈は何かかっこつけているつもりなのか、ずっと壁に肩を預け、ニヤニヤと薄気味悪い笑顔で、こちらを見ている。
「よぉしっ、お兄ちゃん私達も行くよっ」
「おま、ばか。だからそこは空気読めよ」
とすん、と。そこにまた、二人分の重みが加わった。真夜の顔が近い。
「ま、待って、私もッ!」
一人にしないでとばかりに、今度は回り込んで後ろから。これで四人目。
ああ、眠い……。四人分の体温に包まれて、それが体から、抵抗する気力を奪っていく。
眠気を感じたのはいつ振りだろうか。
明崇は心底安心して、その心地いい眠りの中に身を投げた。