ヴァイオレント・ヴァイオレット/門田璃砂
「よ、良かったっ、本当……」
璃砂は奇跡的にもその目を開けた、浩人の体に身を預けた。
「な、何。何だこれ。おい」
本当に信じられない。彼の反応を見る限り、腹部の傷もどうやら閉じているようだ。
最初注射してから数分、効果が現れたと気付いたのは、まずその表情だった。
薄暗い街灯に照らされた、蒼白だった彼の顔が、徐々に赤みを取り戻していったのだ。
その後は早かった。
胸から、力強い拍動が聞こえてきた。脈もすぐに取戻し、正に息を吹き返したと言うにふさわしい状況だった。
「い、いい痛みとか、無いんですか」
「無い……、えッ」
彼も何で自分自身の胸が赤く、じっとりと濡れているのか。その意味を悟ったようだ。
「俺、変な夢でも……」
そう思う気持ちは分かる。でも、あれは本当に、目の前で起きたことなのだ。
あの、宙から突然現れ、薬を手渡してくれた男。あの男はどうしているのか。
周囲に、気を配らす。
そこで、璃砂は気付いた。あれだけうるさかった衝撃音が聞こえてこない。
その代わりに――
ブツブツと、呟きのようなものが聞こえる。何か一人ごちているのか、それとも電話越しに会話をしているのか、そんな声だ。
「違う……、ち、違うって……。そうじゃ、ない。そうじゃ……」
あの男か。誰かが、先ほどよりも少し離れた、三メートル先くらいだろうか。
アスファルトの地面に、膝を、ついている。
「無いィッ」
「!?」
叫び声と共に、ガァンと、何か大地を穿つ、大きな衝撃音が突如として響く。
何だろう。その男の背後で何か、蠢いている。地面をがりがりと削る音。
浩人も璃砂も、何も言わずに立ち尽くしていた。
「あぁ、はぁ」
息も荒く、地面に伏すその姿が、雲が晴れたか月光に照らされる。
彼は酷く薄汚れた、ブレザーの学生服のようなものを着ていた。見た目も若い。年の頃はちょうど十代半ばに差し掛かるくらいだろう。今更だが確かにあの時の声も、若いそれであったように思える。
そして背後で蠢くそれは……
その腰から伸びる……なんと尻尾だ。紫色に、てらてらと光る、大の大人さえも巻き付け、絞め殺してしまえそうな、巨大な尻尾。
そこで一層、月光の光が強くなる。
彼が立ち上がり、おもむろに空を仰ぎ。
その顔が見えた。
少し長めの髪が顔にかかる、顔立ちは遠目で見たところ、子供らしい、純朴そうなそれではあった。
しかし漂う雰囲気は、非常に不気味だ。
その頬は、紫色の鱗で覆われている。よく見ると手も。爪が長く伸び、まるで巨大なトカゲの様だ。眼もなぜか紫色に、らんらんと光っている。
深い海の底から覗いた様な、暗い二つの輝き。それが、こちらを、見た。
「おま……、ら」
まともじゃない。そんな声と表情だ。静かな声音でありながら、それはなぜか、はっきりこちらに響き、二人の耳に届く。
「そこで、何し……。お、オマエら、やった、か……」
――そこで、何をしている。お前らが、やったのか。
そう、言っているのだろうか。
状況に対して意味が通らない。どうも先ほど助けてくれた時に比べて、正気ではない。それは確かなようだ。
「まっ……か」
真っ赤?
次は頭を抱え込む、彼が右手に握っていたのか、金属の棒のようなものがぽろっと落ちる。
カランッと金属音。そして――
「キャアッ」
「ッ」
ガン、ガン、ガン、と。
彼のその“尻尾”が、ぐわんぐわんと縦横無尽に暴れだす。ビルの外壁を削り、アスファルトを穿り返し、彼はそれでも尚、暴走を止めない。
「真っ赤ッ……。全部真っ赤だッ。いやだもう見たくないッ」
叫んでいる。バチバチとその体表で輝いているのは、静電気……?
「殺してやる。代わりに俺が……、お、おお俺がお前らを、真っ赤にしてやる」
はっきりと言葉を発し、再びこちらに目を向ける。
悪魔の形相だ。
浩人が璃砂に覆いかぶさり、視界を遮った。彼の濃い血の匂いに交じり、かすかに懐かしい、最近隣にずっと感じた匂いが鼻腔をくすぐる。
死ぬのか。あの尻尾に薙ぎ払われるか、それとも貫かれるのか。
――かと思えば。
「そうじゃ、ないって、言ってるだろォッ」
再び上がった叫び声に、恐る恐る顔を挙げると。
彼は今度は地面に頭と尻尾、両方を打ち付け、地に伏せている。
何かを堪えるように、それとも怖がるかのように。
彼が体を震わせるのを、浩人と璃砂は、ただただ眺めていることしかできなかった。