鬼人化/三位明崇
俺の意識は、深い深い海の底にあるようだった。
亜子からなんとかあの殺人鬼を撃退して、それから一先ず明崇は落ち着こうと、顔を隠し、何かから逃げるように、以前伽耶奈に紹介してもらった喫茶店に入った。
いつも何かに行き詰った時。
決まって明崇はこの喫茶店を訪れる。
尻尾は簡単にしまえるのだけど、顔は兎も角全身に斑に広がった鱗は、どうしても退いてくれなかった。
注射は何回も打った。
けど、効かなかった。
今用いている抑制薬は発症の初期状態でなければ効果が無い。開発者自身だからそれくらいわかってはいるけれど、どうしても打つことを止められなかった。
コーヒーを飲み終わり喫茶店を出てからは、どうしていたのか。
自分でもあまり判然としない。
どうにも感情が、思考が一方通行で。でも多分あいつらのところには戻らないという決意と。
あの殺人鬼を、殺さなきゃいけないと言うことは、分かっていた。
そこで、感じたのだ。どこかも知れない新宿のビジネスビルの屋上で、まるで野獣のように身を隠しながら。
どうやらそれは気配だった。遠く遠く、しかしはっきりとした気配。
――アイツだ。あの男……。
非常に遠くでありながら、俺は一度だけ相対した殺人鬼の気配を、色濃く感じることができるようだった。
――殺してやる。
何度その気配を辿ったか知れない。しかしその気配も一日中あるわけではなく、途中で消えたり、感じ取れなくなったりした。
時間の感覚が無くなり、いくつか夜が来て、それと同じ数の朝が来た。
それを通してわかった事。どうやら俺は、アイツが鬼人化している間でしか、その気配を感じ取ることはできないようだった。
そう、アイツは人殺しである前に、本当に鬼と呼称されるべき、存在だ。
鬼。
角と牙のある、空想上の化け物。しかしアイツのあの姿はまがい物ではない。明崇の鱗と尻尾も勿論……。
いっそのこと、悪い夢であって欲しいとも思う。
その、所謂鬼に関する正確な記述は明崇が知る限り1000年前までさかのぼる。そしてその存在を明確に表していると明崇が思う一言が、骸鬼という呼び名だ。それは単純に鬼、として過去の記述には登場する。最近は鬼人と呼ばれ、半ば都市伝説化している。
そう、実はずいぶん昔から、それは実在していた。
なぜなら。
鬼人、その名が示すように、鬼自体が、実のところ普通の人間であるからだ。生物学的にはヒト、ホモ・サピエンス。通常の人間と、遺伝子の配列上、何も変わりはしない。
鬼は人の中に、潜む。
人という集団が存在し続ける限り、そこには大きな影が跋扈する。
人と鬼は、表裏一体なのだ。
しかし正常な人間と異なるのは、その遺伝子の、発現の度合い。簡単にいうなれば、あるいくつかの遺伝子が発動するかどうか、人と鬼人の違いは、その一点のみ。
第十三番染色体GBL領域。これがその、問題の遺伝子だ。
ヒトを含めたあまねく生命体は今や誰もが知る、遺伝子と言うものを細胞一個ずつの中に持っている。いわゆるDNAだ。そのDNAを元に生命体は形造られ、生命活動を維持し、最終的に子孫を残し、死んでいく。
ヒトの場合その遺伝子は46本の染色体という束に分けられている。しかしヒトを含めた高等生物の遺伝子にはほとんどの場合スペアを含めて同じ遺伝子が二つずつある。つまりヒトの遺伝子は染色体46本の半分、23本の染色体の中にちりばめられている。
その23本中の13本目に属する染色体、そこに潜む狂気。これが明崇を、四年間苦しめ続けている。
遺伝子発現の手順は、経過自体は実に単純だ。DNAはいわば、遺伝情報の保管庫である。その中のものを勝手に持ち出したりしては、問題が起きてしまう。丁度図書館の本を、勝手に持ち出してはいけないのと似ている。
しかし、そんなDNA中の大切な遺伝情報も、“コピー”することができる。コピーしてしまえば、原本は無事なのだから、そのコピーをどう使おうが勝手だ。
そのコピーをDNAに対してRNAという。DNAに非常に良く似た構造をした化学構造をした、このRNAという複写された設計図を元に、人の肉、骨は作られるのだ。
これがつまり遺伝子の発現、その過程である。
明崇やあの殺人鬼は、前述した13本目、その中の遺伝子が、なぜか“過剰発現”している。
それは正に、呪いのようなものだ。原因は不明。普通の人間なら発現のストップがかかっている領域、その遺伝子が異常にコピーされ、設計図の複写たるRNAが全身にばらまかれる。興奮状態であればそれは顕著になり、その結果として自我を失ってしまう。
――龍骨因子……。
龍の鬼にカテゴライズされる、明崇の持つ、GBL領域内の遺伝子の一つだ。
転写された龍骨を支配する遺伝子のRNA、幾千ものそれは全身の細胞一つ一つを食い破り、理性に咬みつき、そして――
そして、俺は鬼に変わる。
角が伸び牙が生え、明崇のような“龍骨持”の場合骨組織に由来する鱗や尻尾、翼が出たりする。
ここまできたら、本能のままに生きる正に野獣だ。ここまで来ると諫早、見かけは確かに人間では無い。
現在の明崇がそうだ。自我こそ失っていないけれどもうその意識は朦朧としている。
そして精神面だけではない。そうなった、いわゆる鬼人化した人間は、非常に頑丈になる。
久々に相対し隙をついても、やっぱり一撃じゃ致命傷は与えられない。
――でも、でもこの男だけは……
許せない。
久々の気配を辿ってみれば案の定。スーツの女性に襲いかかるあの姿があった。それを確認して明崇は飛び移ってきたビルから飛び降り。
「ぅアッ……」
空中から神薙で、急襲した。
先ほど、明崇が来る前にあの男の一撃が女性の連れの男性の腹をぶち抜き、ぼろ雑巾を投げるかのように吹き飛ばしていた。しかしそれくらいで死なせはしない。
――誰も、こいつに殺されてやる道理など、ない。
「そこの人」
ビクっと。背後で固まっていた女性にポケットのものを手渡す。
「体のどこでもいい、男の人にこれを注射してください」
「たッ……、助かるんですか」
「絶対に助かる。信じて」
――信じられないようなことばっかりだろうけど。
「さぁ、殺人鬼」
明崇は獣の如く地面に張り付きこちらに今にも襲い掛からんとする、その同類を見据える。
「第二ラウンドだ」
男と明崇。動き出したのはほぼ同時だった。