糾天/藤堂浩人
今日で四回目になる合同捜査会議で、帳場を新宿警察署に立て直すということになったようだ。浩人と璃砂は再び、今日地取りに出ていた司と、高田馬場駅近くのルノワールで待ち合わせしていた。
浩人はいつも、喫茶店のコーヒーは半分近くまでブラックのままで飲み、半分近く残ったカップの中に砂糖とミルクを入れて飲む。だからいつも、砂糖とミルクのポットは後回しになってしまう。
「司のヤツ遅いな……」
もう半分と少し、カップの中身は減っている。
そしていつも通り半分の中に砂糖とミルクを注ごうとすると。
「入れますよ藤堂さん。お砂糖とミルク。いつも半分になってから入れるなんて、ホント変わってますよね」
璃砂がわざわざカップを持ってくれて、浩人がありがとうも言わないうちに注いで、かき混ぜてしまう。彼女にこのコーヒーの飲み方、そのこだわりについて話したことは無い、はず。
ふとした相方の仕草や好みを、ここまで見てくれている物だろうか。
――なんか手際、良くなってないか。
それに対して俺は彼女の事を、ちゃんと気遣えているだろうか。
「すまんな、そんなことまで気を使わせてしまって」
「いえいえ、気にしないで下さい。私が好きでやっていることですから」
笑顔でこんなことまで言って見せる。本当に頭が上がらない。
――おしどり夫婦め。
からかい半分、この前健人が二人に放った一言を思い出し、頭の中からすぐに打ち消す。
何を考えているんだ、俺は。
でも、彼女ばかりに気を遣わせてはいけないと、そう思っているのは確か。
俺からもちゃんと彼女の事、見てやらないとな。
そんなことを考えていると店内の窓ガラス越し、司が慌てて信号を渡り、こちらへ向かって来るのが見えた。
「いやぁ本当ごめん。いっつも、僕が待たせてばっかりだね」
「そんなことないですよ司さん。お忙しかったんでしょ?」
最近の璃砂はこんなことまで言える様になった。最初からコンビを組んでいた親、いや相方目線からしてみると、本当に成長したと思う。
「で、これが前野先生の今回の検視結果と検証資料」
東京都監察医務院。死体の検死、死因解明のスペシャリストが書いた報告書を、手渡されてすぐ、つぶさに見る。
「もう、そんな今すぐじろじろ見ることないじゃん。野方署に持って帰りなよ」
「そうです藤堂さん。喫茶店でそんなの広げるの、さすがに悪趣味ですよ」
まぁ、それもそうだ。
「ていうか司、お前聞いたか。今回の事案、帳場が新宿署になるって話」
「え、何それ初耳……」
その後は司が出られなかった捜査会議、その内容をざっくりと司にお伝えて、浩人と璃砂は喫茶店を出た。
高田馬場駅からとりあえず中野に出ようと坂を下りた、その時携帯が鳴った。
「はい藤堂」
どうやら名前も知らない戸塚署の強硬班、主任警部補からだった。野方の捜査報告書一式、コピーでいいからすぐに渡してほしいとのことだった。裏手まで出てそこで待っていて欲しい、と指示され、仕方無く応じる。相手の階級は浩人より高い警部補。断り切れる理由もない。
だからこの時は、違和感も全く感じなかった。
ルノワールの裏手の路地は、高田馬場駅に続く道になっていた。
駅の路線とビルに囲まれた閉鎖的なこの空間は実に入り組んでいて、指定された手渡し場所は、それこそ首都東京の暗部といった感じ。淀んだ雰囲気が醸成されている。
目の前のビルはどうやら空き家らしかった。屋上へと続く外付け階段、その入り口の錠も壊れているように見える。夜に不埒な若者が溜まり場にしてもおかしくないくらいだ。
「何か不気味……」
「そうだな」
街灯さえも暗い。こういう場所こそ、今回の犯人であれば絶好の犯行現場に選びそうだ。
「ん……。待てよ」
先ほどの電話、本当に警察職員だったのだろうか。なんで書類一式渡して欲しい、なんて……
――会議で嫌でも顔を合わせる、多野警部補に頼めばすむ話じゃないか?
サラサラと、砂のような恐怖が背中を滑り落ちる。マズい。これはいわゆる……
「藤堂、さん?顔色悪いですよ?」
彼女の手を掴む。
「今すぐここから出よう」
取りあえず人通りのあるところに。考えすぎかもしれないが――
俺のこういう時の勘は、良く当たる。
璃砂の手を引き、歩き出そうとした、その時だった。
通路脇、距離はあるが丁度目の前、人が、立っている。
今さっきまで、確かにいなかった。電柱の陰。その人が佇んでいるのは空きビルの前、誰かを待ち合わせるようにポツンと一人。
人の気配は確かに無かった。歩いてきたなら足音以前に気配でわかる。浩人の全身から、冷や汗が噴き出る。
この人はどこから来たのだ。もしかしてこの空きビルから、飛び降りたんじゃないだろうか。でもそれなら分かりやすい音くらい……。すると浩人が疑問を整理するよりはるかに早く。
その立ち姿が――
視界からブレた。
ズゾゾっと、地を削る音が一瞬、フードを被ったその男が一瞬で――
「ィやぁッ」
気が付けば二人の、目の前。
目にもとまらぬ速さだったが、そいつが璃砂に拳をぶつけんとするのが、それだけがやけにゆっくりに感じる。
考えるより先。
浩人は璃砂の前に立った。
「藤堂さんッ」
拳がいとも簡単に、浩人の厚い腹筋をぶち抜いた。浩人は激痛の中、意識を削り取られる寸前まで、璃砂の事だけが、どうも気がかりで――。