愚弟想/沖伽耶奈
伽耶奈は、昨日から連絡の取れなくなった明崇を、血眼になって探していた。
「あの子いったいどこに……」
普段から密に連絡を取っているわけではない。しかし明崇は、伽耶奈の方から連絡すれば、いつもすぐに返事をくれる。でもなぜか昨日のメールの返信は未だになされていない。こんなことは今までではありえなかった。
――これは一大事だ。
今日はまだ重要な仕事も幾つかあったのも確かだが、こんな精神状態で集中できるわけもない。そんな事であれば仕事を最初から休んで、明崇を探した方が自分の心の平穏を満たすのに重要であると言うのは、火を見るより明らかだった。
明崇。明、明、明……。
明日以降の仕事をとりあえず三日間休むと職場に伝えて、伽耶奈は捜索を開始した。
まず自宅。彼のお気に入りの書店、図書館、などなど……。
彼の行動範囲は限られている。決してアウトドアな人種ではない彼の事だ。外出先もひどく限られてくる。しかし、どこにもいない。写真を店員に見せて刑事の真似事をしても、彼の手がかりは、一向に掴むことはできなかった。
「なんでいないのよぉ……」
ここまで来ると明崇と言う存在はもしかして、寂しさ故に自分が勝手に作り出した都合のいい幻想ではなかったかと、そんなバカげた事を思ってしまう自分がいる。
嫌だ。そんなわけない。
今まで感じてきた暖かさは、温もりは。偽物なんかじゃない。
血こそ繋がってはいないけれど、世界で唯一の姉と弟。それは自負できる。
そこではた、と思い当たる。
いやまさかこれはもしかして。
――反抗期というやつか。
確かに明崇にそういう時期は無かった。もうこういう年頃だと、姉という存在は、邪魔なだけではないのだろうか……。
しゅん、と闘志に燃えていた心がしぼむ。
でも、そう。嫌われても良い。ただ今は明が、ちゃんとこの世界に存在していると知ることができれば、それだけで。仲直りは、絶対に果たせる。仲直りしたら姉になんでも、好きなモノをおねだりするといい。
――そういえば。
私のお気に入りの喫茶店を、明崇に紹介したことがある。明崇はすごく気に入ってくれて、伽耶奈は自分が心底喜んだのを覚えている。静謐な雰囲気で、だが陰鬱でないとても不思議なお店だ。
あれは確か、東中野かそこらへんじゃなかっただろうか。
東中野の駅から五分。伽耶奈は数年前からお気に入りの喫茶店、『あるでぃ』を訪れた。
この店はコーヒーが美味しいのは勿論、一人で静かに、ゆったりするにもうってつけのスポットだ。ドアノブをひねり、コーヒーの馥郁とした香りに包まれる。カラカラとベルが、遅れて鳴る。
「どうも」
マスターと伽耶奈はもちろん顔馴染み。明崇のことも、もしかすると覚えているかもしれない。
「ああ、伽耶奈ちゃん。久しぶりだね」
マスターは髪をオールバックにした初老の男性だ。顔つきから感じさせる以上に性格が柔和で、常連には彼との会話を楽しみに訪れる客も多い。
「弟君は、今でもよく来てくれるけど」
何だって。
「マスターごめん。今日はコーヒー飲みに来たんじゃないの……」
手短に事情を説明する。しかしなんだろう、驚いてはいないような。訳知り顔といった感じで、彼は頷いている。
「三日前、来てたよ。明崇君」
どうやら、目に見えておかしな様子だったらしい。
「ずっと端っこの……、ああ、あの席だ」
バイトの子だろうか。ちょうどコーヒーを運んだ店員がついでに端の席のテーブルを拭いている、それを彼は指さした。
「あの席でブレンド注文してから、彼ずっと座ったままだったんだよ。結構遅くまでいたんじゃないかな」
「明崇にブレンド、持って行ったのはあの子ですか?」
「どうだったかな……。ああでも昨日あの時間帯は、そうね。レナちゃん以外はシフト入ってなかったかな」
そこで、「おーいレナちゃん」と。そのバイトの娘に声をかける。
近くでよく見ると、バイトをしている割にそれはそれは育ちが良さそうな御嬢さんだった。
彼女に事情を説明し、明崇の昨日の様子について尋ねると。
「ああー覚えてます覚えてます。なんか気分、悪そうでしたから……」
その割にその日小一時間そこを動かなかったらしい。コーヒーを給仕した際も顔をそむけ、俯いていたとか……
まさか、ね。
明崇は……、場合によって他人に顔を見られるのを避けようとするところがある。まぁそれは彼の、いわば持病の、突発的な発作が原因である。
――薬を、持っていなかったのだろうか。
興奮状態の時決まって彼の頬に奔る、鱗。薬さえあればすぐにあれは退くはずだ。最後に見たのはいつだったろう。
もしかして、という不安は考え出すと止まらない。
しかし、“明崇がここにきて、少し様子が変だった”ということ以上の収穫は得られなかった。必ず近いうち厄介になると言い残し、伽耶奈は『あるでぃ』を後にした。