君に悩む/桑折真夜
今日の朝は私、桑折真夜の所属するクラス、その教室の雰囲気が少し、いつもとは違う様だった。
上履きをつっかけながら自身の通う高校、その三階の端、1-B教室に入るとまずその異様な空気に気付かされた。
しかしこの時は真夜にとって些細かつどうでもいい変化で、ひどく周りに無関心な性分も相まって、その原因を確かめることもなく教室の窓際から二列目最後尾、自分の机にいつの間にか腰掛けていた。
着席するとすぐ、机で頬杖を突く真夜に、近づいてくる影がある。
「真夜ちーん、おはよ~」
今日まず一番に声をかけてきたのは入学以来ことあるごとに擦り寄ってくる三島由香里だ。
「おはよ」
由香里は前の席の椅子を引き、勝手にぽすりと座り込む。
「ねぇ、もう中間の結果帰ってくるんでしょ、由香里不安だよぉ」
中間テストの話題を出したからなのか、それとも何か他に意図があるのか、苗字も知らないクラスメイトが数人、真夜の席に群がり始める。
「由香里、なにぃ試験できてますアピール?」
「いやいや、そんなんじゃないってぇ。数学とか絶対半分いってないもぉん」
「それ、自慢することじゃなくねェ?」
ドっと笑いが起きる。
――何が面白いのだろう。
ずっと黙っている内に話を振られ、あしらい、相槌を打ち、そうしているといつの間にか、ホームルームの五分前になっていた。
このクラスは素直な学生が多いようでみんな五分前には席に着き始める。そんな中、見計らっていたのかとてとてと、小動物のように背を低くしながらこちらに駆け寄る可愛らしい女子が一人。
「おはよ、真夜ちゃん」
登田亜子。容姿も性格も声も可愛らしい、リスのような女子生徒。
「おはよう、どしたの?」
ニコリと微笑み声をかけてやると、それだけで彼女は明るい顔をする。
「あの、その」
と、今度はあたふたとまごつき始める。その仕草は男性には受けこそすれ、同性には嫌われる類のものかもしれないが、彼女は今時珍しいくらいに純粋な女の子だ。真夜にはとても愛らしい仕草に映る。
実はこのクラスで真夜を苛立たせずに会話できるのは彼女くらいのものなのだ。
並の男ならドキリとさせられるであろう、それでいて穢れのない瞳で彼女は見つめてくる。
セミロングの、亜麻色に光る髪がはらりと揺れ、同性なのにはっと息をのんでしまう。
これを無意識でやっているのだから恐ろしい。
果たして。彼女は真夜にとって衝撃の事実を告げた。
「三位君、今日学校、来てるみたいだけど……」
え、嘘。
どうりで朝あの雰囲気だったわけだ。
亜子から目線を外し窓際一列目、後ろから三番目の席を見据える、が、いない。
「なんか、真夜ちゃんが来る前に、先生に連れられて出てっちゃったの」
いてもたってもいられない。素早く立ち上がり、後ろを振り向く。
「「あ」」
亜子と真夜の声が重なり。
刹那、通路を通ろうとしていた何者かにぶつかる。
身長は170㎝とちょっと。165㎝ぴったりの私の身長では見上げる形になる。たいしてイケメンというほどでもないが、どこか深みのある精悍な顔立ち。その顔がどこか、居心地悪そうな表情を浮かべている。
そこには、件の三位明崇が立っていた。
話しかけようか、逡巡する間もないまま、ホームルーム開始のチャイムが鳴り。
明崇は逃げるように、真夜の隣をすり抜けた。
ただ今、時刻11時33分、正に四時限目の授業の真っ最中だ。いつもなら集中できるはずの数学の授業が全然頭に入ってこない。原因はそう、明崇だ。
――別に何も、愛の告白をする訳じゃあるまいし。
私はウジウジ悩む性分じゃない。だからはっきり、面と向かって言ってやる、そのつもりでいたのに……
入学し、同じクラスになってからも、一向にチャンスは訪れない。
視界の左端、いやなくらい背筋を伸ばし、しかし授業を聞いているというわけでもなく窓の外に視線を投げているであろう明崇を恨みがましい視線で見つめる。
――いっそのこと、腹痛にでもなってまた早退してしまえ。
彼とは、実はそこまで深い知り合いというわけではない。幼い頃、確か小学一年くらいだったろうか。真夜は近所だった剣道場で無理やり剣道を始めさせられた。その時知り合ったのが彼、
三位明崇である。
同じ小学校に通っていたにもかかわらず、剣道場で係稽古をしてその時の会話が初めて明崇を認識した瞬間だったと記憶している。その後四年間ほど、彼とは何となく一緒に登校したり、下校したりが増えた。彼との会話は楽しかったが回数は少なく、実際私は友達は多かったし、それくらいのことは彼が特別というわけでは無かった。
しかしある日を境に明崇は突然、学校に来なくなった。忘れもしない、小学五年のことだ。その後その地域の中学校にも、名前こそあったものの不登校状態だった。
ただ、それだけでなく。
私は明崇に、命を救われたのだ。その、小学五年生の初夏、その蒸し暑さにまだ慣れない頃。
明崇が学校に来なくなった、その前日に。
「桑折。ここ、やってみて」
しまった、当てられてしまった。数学教師であり学年主任の鳥越はまだ若く見たところ三十代。顔立ちがそこそこ良いから女子生徒の人気が高い上、生徒をそういう目で見ているのか、女子生徒ばかりを指す傾向がある。
突然指名されて慌ててしまったが、まぁ、でもこれくらいの問題なら、余裕。
回答し終わり、席に向かう。明崇とすれ違い、流し目をくれてやる。
一言お礼が言いたい。でもそれ以上に言いたいことが彼に対してはたくさんある。
あの時から私の何かしらの時間が止まったのだ。
何の因果かまた同じクラスになった。君ともう一度話したい、そう思うのはおかしいことだろうか。
気が付けば、四限目終了のチャイムが鳴っていた。
「ねー、やっぱ鳥越センセって絶ぇっ対アタシらのことやーらしぃ目で見てるよね。最後真夜ちん当てた時もそんな目してたもん」
わざわざ私の机でお弁当を広げる由香里が朝同様に会話の火種を投げる。
そういう由香里は当てられた試しがなかった気がするが。私は数学が特別好きな訳ではないが授業を聞くのはどの教科でも好きだ。記憶力もいいのでここ一か月の授業の内容は簡単に思い浮かぶ。
「でも、真夜ちゃん凄いね、最後の問題あたし分からなかったよ」
由香里の隣、「ここいいかな」、と亜子が可愛い小さな弁当箱を広げながら眩しい笑顔をこちらに向ける。
「そんな大した問題じゃないよ」
後で手取り足取り教えてあげましょうか。鳥越のような男性教師に彼女が質問してしまうのはいただけない。実際亜子はこの一か月だけでかなりの回数鳥越に当てられ、黒板の前で解けずに赤面してしまうのが常だ。
彼女は他のクラスメイトと違い下心のようなものが全くなく、会話をしてもストレスが溜まらない。むしろ癒される。
あれ、この場合私が下心になるのかな。
「だったら真夜ちゃん、たまにでいいなら数学、教えてくれないかな。今度何かお返しするから……」
「いいよ」
むしろ大歓迎だよ。図らずしも思い通りになってしまったのだから、こっちからお小遣いあげちゃいたいくらい。
すると真夜の視線が無意識に明崇を捉えてしまう。それに亜子も気付いたようだ。
「真夜ちゃん、お話できた?」
「まだだよ」
「ん、なになに。何のお話ですかな?」
ああ、そか。この空間には私と亜子の二人だけだと思っていたよ。
「由香里には関係ないは、な、し」
「ええーッ」
うん、食事が終わったら、少し仕掛けてみようかな。
が、食事を終えて目をやると明崇は、同クラスの男子と何か口論を始めていた。
亜子と立って聞いている限り明崇はちゃんと謝罪しているようだったが、如何もその男子が納得できないようだった。
「ね、どしたの後藤君」
名札をちらりと見て、かまわず話しかける。
「三位が一回も委員会に出てないって話」
クラス委員のことか。なかなか学校に出てこないから嬉々として文句を言いに来た、そんなところだろう。
でも、それは仕方ないだろう。明崇は元々休みがちなのだから。そんなことで文句を言えるなら私だって色々文句を言ってやりたい。
「明崇は謝ってんじゃん」
すると、教室の空気が水を打ったように沈黙した。
え、何?
その男子はなぜか舌をかんだように苦々しい表情を浮かべており、周囲を見渡せばクラスメイト全員がこちらに目を向けている。私の背後を振り返ると亜子だけ、何が何だかという顔で、可愛く首を傾げている。
そしてなんと、沈黙を破ったのは明崇だった。
「後藤、ごめんな。俺あんまし学校これなくてさ……。てか、俺もう帰るわ」
落ち着きのある、真夜の記憶している彼の面影を十分に感じさせる、平坦な声が静まった教室に響く。
そして言いたいことを言いきったのか、
さっさと荷物を手際よくまとめ、ガラッと椅子を引く。そして何事もなかったかのように教室の出口へと向かい始めた。みんながその背中を唖然として見つめている。
キムタクじゃないけどその背中に、ちょ、待てよくらい言いそうになってしまった。