嵐の前の…/三位明崇
第一章 鮮血街
東京都新宿区、早稲田二丁目。ゴールデンウィークももうすぐ明ける、五月上旬の昼下がり。
俺、三位明崇は最近流行だという混ぜそば、いわゆる汁無しラーメンのような料理を高校一年生にして初めて食していた。
普段から私用で新宿をフラフラしている明崇だが、食事に対して強い探究心があるわけでもない。ここ界隈でひしめくラーメン屋も、人付き合いでなければ自分から入ることはない。
だから普段から入らない飲食店に、今回立ち会っている時点で。
これも当然付き合いということになる。
とはいっても今回はこちらの都合に彼らが付き合ってくれたという形だ。三人で待ち合わせ、一人が一度行ってみたかったとこの店舗の名を挙げた時も俺は特に理由もなかったので異議は申し立てなかった。
今回明崇の都合に付き合わされた二人は両脇でおいしそうにその“混ぜそば”をすすっている。この二人、実はどちらも既に世に出て労働に従事している立派な社会人である。
食事に一息つきたかったのか、それとも混ぜそばが混ぜたりなかったからなのか、右隣で今日のお昼の場所を指定した張本人、御手洗篤史が口火を切った。
「ンで、今回は何、電話で済む用事じゃないの」
「だからこうやって場を設けてるんじゃないですか」
「はぁ、どうせまた殺人事件の検死結果教えてとかムチャ言うんでしょ?無理だから。僕は一介の文屋。検死結果とかがっちり報道規制しかれるんだから知らないのは無理ないじゃーん」
油で光る箸をこちらに向ける。
「まずね、君高校生。この時点でアウトー」
「よかった。ちゃんと俺の求めてるもの、理解してくれてはいるんですね」
篤史は文屋、つまり記者だ。
特に彼は大手の朝夕新聞に勤めており、警視庁の記者クラブ所属で殺人事件を筆頭とした刑事事件を報道する立場にある。
殺人事件を報道する際の、どの情報を新聞に明かし、どの情報を新聞に伏せるか、という警察の広報官との間でなされるいわば報道の交渉は複数の新聞会社の面々で構成された記者クラブ内で行われる。
そして彼は朝夕新聞社の代表としてその交渉を現警視庁警務部広報官と直に行っていると聞く。ある殺人事件を追っている明崇にとって彼はこれからの行動を左右する重要な指針、コンパスともいえる存在だ。
「四月七日、新宿区戸塚五丁目の殺人及び白骨化死体遺棄事件、帳場が立ったのは勿論戸塚警察署」
「うん、ほれがろしたの」
ズズッと混ぜそばを勢いよくすする。こちらには目もくれない。
「全身に鋭利な刃物と鈍器によると思われる極度の損傷、また頭部にも損壊は及んでいた……。そう、朝夕新聞だけじゃない。どの新聞でも頭部損壊には言及して報道してますよね」
篤史が目を細める。今年で39になるという彼は飄々とした物言いこそするものの、そのダンディかつ濃い顔立ちも相まってこちらを睨む表情はとても様になっている。
口からはみ出た麺が台無しだが。
「頭部に損壊。どの程度だったんですか?篤史さんなら知ってますよね」
「まあまあ明。せっかくの美味しい麺が伸びてしまうぞ」
今度は明崇の左隣から声。発したのはカウンター席に優雅に腰掛ける若い女性。
沖伽耶奈。明崇の保護者兼公的な場ではパートナーだ。一言で分かりやすく説明するなら、理解者、というのが最も妥当な表現だろうか。
どんぶりに目をやるとなんと、彼女はもう混ぜそばの“大盛り”を食べきっていた。相変わらず食べるのが早い。
「久しぶりにこうして会えたんだ。なぁ明、私に会いたかっただろう?ん?寂しかっただろう?」
「うん、そだね。会えてうれしいよ伽耶奈」
「……そっけないな」
明崇は四年前ある刑事事件で家族を失い、天涯孤独の身の上になった。伽耶奈はその時18歳ながら当時小学5年生だった俺を義姉として引き取り沖家に招き入れ、支えてくれた存在だ。
飛び級で薬学の博士号を取得したいわば天才で、明崇の科学の師でもある。三か月前にドイツの研究機関に出張に行っていたが、今日帰国した。
実は明崇に記者の知り合いとして篤史を紹介してくれたのも、この伽耶奈である。
「私は一人で寂しかったんだぞぉ。三ヶ月……。はぁ、長かったよ」
フォーマルなパンツスーツをばっちりと着こなす伽耶奈はいつみても様になっているが、お酒を煽るようにコップの水に口を付ける動作は何とも親父くさい。
「そうだよ。今日は伽耶奈ちゃんのお疲れ会なんだからさぁ。今日はそういう仕事の話は、なしって方向で」
篤史は調子良く、明崇に向かって両の人差し指でバッテンを作る。
「なしってなんですか。篤史さんが俺のさっきの質問たった一個に答えてくれればいいんですよ。そしたら伽耶奈のお疲れ会でもなんでもしますから」
途端に渋そうな顔をする篤史。反対側からは伽耶奈の嬉しそうな声が聞こえる。
「そうだ!さっさと答えろ」
「全く君たちは……」
篤史が体ごとこちらを向く。それだけで彼が纏う雰囲気が一変する。俺の目の前に腰掛ける男は既に飄々とした口調のチョイ悪親父から、年相応にして文屋としての矜持を自覚した一端の記者へと変貌していた。
「明崇君、君は被害者遺族だ。その意味が分かっているかい?」
そう。明崇は家族を亡くした未解決の殺人事件、その犯人を追っている。そういった意味では確かに明崇のとっている行動は褒められたものではない。
警察は特に、もはや篤史のような記者でさえも、殺人事件によって社会から一時宙づり状態になってしまう被害者遺族には特に情報の規制が厳しいと言える。もちろんそれは、報復による第二の刑事事件の発生を抑止するためだ。
本来、新聞やニュースという形で報道される殺人を含む刑事事件はほぼ概要だけを説明し、詳細は勿論秘匿、制限されている。それは当然のことであり、一般人であってもその対応なのだ。
被害者遺族ならなおさら。篤史はそう言いたいのだろう。
「弟君のことが心配なのは分かる。でも、君じゃどうしようもないだろう?」
篤史の声は切実だ。十数年近く新聞記者をやっているだけあってこのような状況に相対したことももしかしたら二度三度あったのかもしれない。
でも、そうじゃない。どうしようもないのはむしろ警察のほうだ。
――アイツは、誰にも止められない。
やれるのは明崇だけだ。そのことを詳らかに篤史に伝えることはできないが、絶対にこの場で情報は入手しなければならない。
ヤツが犯人なら、はっきりとした痕跡があるのだ。脳の異常なほどの損壊。それさえ確かめられれば。
「篤史さん。一つ情報を提供します。取引、しましょう」
篤史が眉根を寄せる。顔を近づけ、内緒話をする体勢になる。
「見返りは戸塚の一件の被害者の脳の損壊の詳細について、か」
「ええ」
「明、ちょっと待て」
伽耶奈が途端に鋭い声を出す。一部とはいえ情報を篤史に開示する。それが孕む危険性を言いたいのだろう。
振り向けば、すぐに目が合う。
彼女の目は弟の身を案じる姉の、正にそれに近い何かを感じさせた。周囲には冷たいともとられがちなレモン型の、しかしぱっちりとした目は少し潤んでいる。
大丈夫だと、意思を持って見返すと彼女は目を伏せてしまう。
勝手にしろ、とそういうことだろうか。
話を続ける。
「多分、俺が想像しているヤツが犯人であるなら、脳の損壊、それはとても特徴的なものになるはずです。こう、線状痕のような共通的な痕跡とか」
「というと?」
流石にそれくらいじゃぼろは出さないか。慎重に、言葉を選び、切り出す。その反応を見過ごさないよう、篤史を“観”る。眼球の動き、眉根、表情筋の収縮、掌の挙動。
「損傷は、頭蓋。いやもっと奥」
ピクリ。と篤史の眉が動く。餌にかかった。切り札を切る適切な間を意識してこちらの話に引き込み、動揺を誘う。
「大脳、つまり脳味噌の深部にまで到達していた、違いますか」
――ビンゴ。
途端、目に見えて変化は現れた。明崇が観察していた篤史の心象を測る全てのパラメータが著しく変動する。ウソ発見器にかける必要すら無い。犯人と捜査に関わった警視庁刑事課と警務部広報官、そして報道協定に関わった記者数人しか知っているはずがないことを一般人、しかも高校生が知っている。
明崇の思惑を知ることができ無かったからこそ、そして話に聞き入ってしまったからこそ、動揺は分かりやすい形で彼の表情に現れた。
篤史は動揺を悟られた、それに気づいて苦笑する。
「参ったね、こりゃ勝ち目なんてハナからなかったわけだ」
篤史はそれでもどこか嬉しそうだ。もしかすると、文屋の性か、この殺人事件に痛く興味を持ってしまったのかもしれない。
残った麺をすすりあげ、三人は店を後にした。
明崇はとりあえず確信した。アイツがまた、動き出した。
篤史は事件の検死結果の詳細を道すがら打ち明け、さらに詳細な検死内容を後に何らかの方法で伝えると言い残し高田馬場駅まで着くとそのまま別れる形になった。
結果は、大体明崇の予想した通りだった。
最後やけに協力的だったのはただいいネタを掴んだことによる興奮とか、そういうのとはまた違った理由なのだろう。頭蓋を粉砕する。そんな犯人過去にもあまり例がないのだ。
閑散とし始めた、高田馬場駅、そのロータリーを見つめながら伽耶奈がぽつりとひとりごちる。
「明は、凄いな」
「何が」
「私の心配は、いつも杞憂に終わってしまう」
「大袈裟……」
時刻はもう午後の三時を回っていた。彼女の瞳はどこか遠くを見ている。
「ここからが正念場さ」
見上げれば明崇の気持ちと裏腹に、空は嫌なくらい晴れている。
その蒼い空を見上げ、明崇は続ける。
「抑制薬を1ダース追加、それと発現薬1.5を2ダース、制御薬を3ダース……後、発現薬2.7を1ダース頼む」
はっと、隣で伽耶奈の息使いが聞こえる。
「本気なのか」
心配してくれるんだな。その心配が明崇を引きとめてくれるから、自分が無茶しなくて済むことを彼自身が自覚している。
からりと晴れたこの蒼天の下。この東京の、きっとどこかにアイツはいる。いつ遭遇してもおかしくはない。
今度こそ、四年前の決着を付けようじゃないか。