魑魅魍魎
あの廃墟のような、建設途中に放り出されたような、雑居ビル。
あそこを出ると、嫌なくらいの日差しに目が眩んだ。
本当に、監禁されてから。どれくらい経っているのだろう。
廃ビルが立ち並ぶ細い路地を抜ければ、目の前には高いビジネスビルの群れが視界から見切れて広がっている。
そこに、おそらく外から中を除くことはできないであろう、フルスモーク仕様のワンボックスカーが駐車してあった。しかもその後ろには、どうやら二トントラックが詰めてあった。
そこからノバラと、チョウコを含めた女性集団が歩いてくる。車を調達したのは、彼女たちなのだろうか。
「乗、れ」
ニュオグェイがそう指示するとすぐ、屈強な男たちが僕同様、監禁された人たちを連れて、トラックの荷台に入っていく。僕も当然、その列に加わろうとした、けれど。
「お前は、こっちだ」
僕はなんとフルスモークの車、そこに乗り込めと言われているようだった。
従わなければ、殺される。
僕はノバラに連れられ、車の自動ドアに、手をかけた。
ここまで来ると、今呼ばれたのは僕なんだな、くらいの事は分かるようになってきていた。
「指南」
指南。そう。それが今の僕に与えられた呼び名だ。
外から見える景色に見覚えはないが、都内であることは分かるくらいの街並みだった。
それを眺めながら僕は、自分に与えられたその役割を深く自覚する。
僕は指南だ。
そう、おそらく僕はニュオグェイと、この集団にとって必要な道筋を示すナビゲーター。そのために彼は僕の腹を突き破り、同族の化け物とすることで支配したのだ。
そう、僕はもはや、ニュオグェイの命令に逆らえない。
「次が……渋谷です」
その車は、僕が示す道筋に沿って、目的地へと進む。
車が停車した位置からは、ごった返す人込み以外に何も見えない。
渋谷。
もう日は傾いている。暗く陰るどころかネオンに照らされ眩しく光る都会の街並み。ニュオグェイを先頭に集団は、人込みを割るように進む。視界で109が見切れる。そのまま道玄坂を下る。
途中からトラックに乗った大勢の人間、そして僕も顔を知らない人間も合流した。
今から、何処に向かうというのだろう。
行先は繁華街の中心部の外れ、見るからに怪しいビジネスホテルだった。恐らく真島会系傘下の暴力団事務所が、どこかの階にはあるのだろう。そう。
――渋谷は真島会系、確か大津組のシマ。
二年前、相当前に書いた記事を思い出す。最近の渋谷の情勢には疎い。それこそ入社したての頃のネタは渋谷一本だった。その頃は真島会系だけでなく、山城会系傘下も根強かったはずだ。
しかし最近は二年ぶりに、渋谷のネタに手をだしていたのは確かだ。
早稲田通り沿いの連続婦女暴行、および殺人事件。決着がついたのは渋谷だ。
勿論それだけじゃない。確か九月に行われる予定になっていた日中韓首脳会議、惰性で続けていた歌舞伎町フリーク、半グレの記事も書いていた。
もしやその知識のせいで、こういった人種に狙われることになるなんて、思ってなかった。
「記者と刑事事件は、紙一重。隔ててるものなんて、案外無いんだよ」
御手洗篤史が飲みの席で放った一言、それがふと、僕の頭をよぎる。
だがもう、おそらく誰がどう見ても手遅れだった。
ニュオグェイは風を切るように、悠遊とそのビルの中へと足を踏み入れた。ノバラたちが慌てて後を追う。もちろん連れられた僕も、引きずられるように。
入って見ると、そのビジネスビルと思われた建物の中には、やけに長い廊下が続いていて。それがどうやら、この建物の奥の別の建物まで、突っ切っているようだった。そして聞こえてきたのは、ガヤガヤとした人いきれ。
ビジネスビルらしからぬ頑丈そうなドアをくぐり、その先に見えたのは。
とても広い空間だった。
円形の、広い空間。天井も高い。内装はクラブとか、ちょっとおしゃれなバーとか、そういった風情。そこにたくさんの、人がいた。
ほとんどの人が、パーティに行くような、華やかな恰好をしていた。男性は全員、タキシードに蝶ネクタイ。女性と思しき人は、ほとんどが色あでやかな、パーティドレス姿だ。
円形の外側、半円を描く反対側は、正にバーのように座れるカウンターになっているようだ。そこで座る人々は当然のようにグラスを傾けている。そしてそれ以外の人々は立ったまま、もしくは地べたに座り、それとも横になり。
腕に何か、注射器のようなものを――
「おい、あんたら何だ」
僕の少し前、立ち止まるニュオグェイに立ちふさがる男。ニュオグェイより身長こそ低いもののスキンヘッドのその男からは、隠そうともしない鋭角的な雰囲気がある。
僕のような人間ならこんな風貌の彼に逆らおうなんて、これっぽっちも思わないけれど。
まぁ、相手が悪かった。
「どうやってここ……むぐゥッ」
ニュオグェイが躊躇なく、身長差を利用して。その手刀を彼の肩に突き立てた。
「う……がァッ、熱」
一瞬の出来事と裏腹に、その肩からドロドロと赤黒い血があふれ出す。
そしてザワりと、空気が動く。
その場にいた男女全員が素早く反応したのだ。外界からの侵入者に対して、ニュオグェイ、そして僕たちに素早く向けられたのは。
拳銃――!?
何十人もの人が、銃口をこちらに向けている。その一連の仕草は以上に手慣れていて、やはりここは東京の、裏世界なのだと実感させられる。
「身の程を知れ」
突如ニュオグェイの背中が、ブクリと盛り上がる、服を突き破り、そこからなんと。巨大な何かが勢いよく飛び出した。
「う、ごェ」
一番近くにいた男は、発砲の前にその、彼の肩から伸びた何かに勢いよく上から押し潰された。
真っ赤な血が、僕のいるところまで飛び散ってくる。その圧倒的な赤に。目がチカチカする。
パン、パンと。けたたましい破裂音。そして硝煙の匂いが、遅れて香ってくる。
しかしどうやら、ニュオグェイには効果がない。
「待ち人を、出せ」
巨大な触手、その先は鉤型の、巨大な爪の様な形状だ。それが彼の肩から、腰に掛けて昆虫の足のように。
いや、まるで蜘蛛。そう蜘蛛の様だ。右と左、半身それぞれ四本ずつ、合計八本の蜘蛛の足。
「出せと言っている」
まるでニュオグェイの体から、巨大な蜘蛛が這い出ようとしているかのような――
そのおぞましい光景に、足が竦む。
そのいさかいは、周囲にも飛び火していた。ニュオグェイの部下、屈強な男たちは彼ほどの大きさ、本数はないものの、同様に鋭い爪を背中から突き出し、人を襲い始めている。
「いッ、ひ、た助け……」
悲鳴のする方に目を向けると、この地獄から逃れようとする、哀れな男性の姿があった。
円形の空間、そこには対角線上に、複数のドアが設置してあった。その男性はそのうちの一つに手をかけ、外に出ようとしたのだろう。が。
彼の望みは叶わない。
ドアを開けて安堵した表情を浮かべた、その頭部がバスッと吹き飛んだ。
彼の頭部を刈り取ったそれは、ノバラの後頭部から、束ねた髪のように伸びた、鉈のような、触手だった。
――やはり、彼女たちも……
つい左に目線を外せば拳銃を躱し、蛇のように巻き付き首を絞め、男を組み倒した小さな影があった。
動かなくなった男から離れる。振り返ったその、心を殺したような目が僕に刺さった。
チョウコだった。その口元には、ノバラたちとお揃いの、不釣り合いに伸びた犬歯がある。
「ウソ、だろ……」
――あんな、あんな少女まで。
周りを見渡せばこの集団、やはり化け物しかいない。
今度はニュオグェイと、目が合った。その顔はいつかと同じ、角と牙に醜く歪んでいるーー