弛緩/藤堂浩人
「あっつ……」
目の前で門田璃砂が、スーツを脱いだのが目に映った。無自覚というよりは最近は、ただ遠慮がなくなったというのが大きいのだろうと思う。
東京都中野、野方警察署。
警視庁捜査一課八係、多野班所属の巡査部長、藤堂浩人はその野方署の刑事課デスクで、継続捜査の報告書を書いていた。
「今日ものすっごく暑くないです?八月終わるのにめちゃくちゃ汗かいちゃいましたよ、藤堂さん」
おう、それはいいから。そのだらしのない恰好でワイシャツをパタパタするな。仮にも刑事課職員なのだから。
彼女は今でこそ野方署の刑事課員だが、実際のところは世間知らず、いまだ20前半のキャリア警部補だ。なまじっか30代の浩人よりも階級が高いから扱いづらいと言ったらない。
「へへ。藤堂さん。これ……なんだと思います?」
璃砂は手に持った、何か小さな棒状の物を見せてきた。報告書を書いてる途中なのが見えないのだろうか。
「ボールペン、だろ」
「そう、ボールペンです。しかし少し特別なんです。このボールペン。ほらちょっと、藤堂さん押して芯出してみてください」
そういわれて押すやつは多分この世界中、特に疑り深い警察官には中々いないと思う。
「ダメだ。そんな事をしている暇はない」
「え、ちょっと持って押すだけですよ?それだけなんですよ?」
「……」
流石に無視した。
「ちぇー。藤堂さんのけち」
璃砂が口を尖らせ、そっぽを向いた。だが刑事部屋から出ていく気配はない。できれば早く、他の標的を探しに行ってほしいところだが。
この年の離れた相方と組むのも、すでに慣れっこになってきていた。
門田璃砂と浩人が組んだのは今も継続捜査の報告書を書いている事件、その残虐性と被疑者射殺という解決を見せ世間を驚愕させた早稲田通り沿い連続婦女暴行殺人事件の時からだ。
最初はとっつきにくかった彼女とも、この事件の捜査で互いに信頼できるぐらいにはなった。事実、浩人が危機に直面した時、命を助けてくれたのは彼女だった。
――アイツがいなかったら、俺は。
今でもふと、そんな事を考えてしまう。
「お疲れさまです」
次に刑事課へ入ってきたのはこの野方署に正式に配属している50代のベテラン刑事だった。
奥から浩人と同じ捜査一課八係多野班の巡査、倉持健人がくっつくようにして入ってくる。
「そろそろ飯にしません?外暑いし……出前でも頼みましょうよ」
もうそんな時間か。
「いや、もうちょっと待っていよう。そろそろ多野主任も来る頃だろうし」
それから十分後、予想通り多野主任も刑事課へと顔を出した。今彼が組んでいるのは倉持の入庁同期の女性警察官、時田朱里だ。
「ん、何これ」
多野主任が目をやったのは先ほど璃砂がデスクにおいてったあの、怪しげなボールペンだった。
「んふふ。何だと思います?」
璃砂がニヤニヤしながら多野に“押してみてくださいよ”とばかりに擦り寄った。
「おい、やめとけ門田、あの多野さん――」
浩人の静止は、間に合わなかった。
「痛ったァ!」
ボールペンを押すと同時、雷に打たれたように多野の体がくずおれた。
「やったぁ、多野さん引っかかりましたね!」
「おい門田ッ、主任に失礼だろッ。常識無いのか」
「あ、や、その……すみません」
「い、いやいや藤堂君、な、中々、面白いねこれ」
息も絶え絶え。半ばフラフラになりながら、多野主任が立ち上がった。
「でも、流石にこれは……」
「まぁそっすね。門田ちゃんやり過ぎ」
「いつも多野主任相手にやり過ぎてるのは健人君だけどね」
朱里が健人に突っ込みを入れる。
「あれ、ばれちゃった?」
「ま、まぁこんなの、可愛い娘の悪戯だと思えば……」
そんな事を言うからつけあがるのだ。って、それより。
「門田、そもそもそれどこから持ってきた」
「あ、あの。この前そこで乱闘事件ありましたよね?酔っ払い同士の喧嘩、みたいな……」
ああ、確か職種がプロのマジシャンだった、あのおじさんの。
え、マジシャン?
「おい、まさかお前……」
「その、あのおじさんの押収品、触ってみる?って鑑識課の中田さんが……」
中田。確かあの30代手前の、見るからにトロそうな鑑識課職員か。
浩人の顔が険しくなる。最近この顔にはすごみが増したらしい。璃砂は恐怖のにじむ顔で浩人を見上げた。
「ひッ……」
この、バカ共……!
「さっさと返して来いッ。押収品で遊ぶ奴があるかッ」
「す、すいませんでしたーッ」
璃砂は脱兎のごとく、刑事課を飛び出していった。