第二部プロローグ/Hone and Fung
僕という人間は、なんてツイてないんだろう。この時ほど、そう、自分の不運さを呪ったことはないと思う。
学生時代、A判定だった名門国立大学の受験日当日、腹痛のためにその年の合格をあきらめなければいけなかった事。
大手とは言えないマスコミ会社になんとか就職し、新聞記者になってまもなく、客引きに連れていかれたクラブで数十万円ぼったくられた事。
まだある。自分の不幸自慢は数多くあるが、それでも、今の現実ほど身の上の悲劇を感じる出来事はない。
先日、とはいっても今があの日から何日経っているかはもはやわからないが……確かにあの日は、記者クラブの人間と馴染みの居酒屋で飲んでいた。
そう、いつものように、御手洗篤史に誘われて。
彼は不思議な人だ。まったく自分よりも十歳年上とは思えない。茶目っ気があって、フットワークが軽く、それなのに異様なまでに仕事ができる。潮汐新聞に入社した時から、彼にはずっとお世話になっている。
そう、彼に誘われて飲んで、いつも以上に酔いが回って――
帰り道。
同じ刑事事件系の記事を書く部署で付き合いの長い同僚、槻本武雄が先を歩いていた。あいつは僕以上に酔っぱらっていて、足元はフラフラ、文字通りの千鳥足だった。
彼とは帰り道乗る電車が同じだ。中央総武線、彼が下りる次の次が、僕の自宅の最寄。
細い裏路地は、緊張感のない心地よい仄暗さ。アイツは依然、覚束ない足取りで先を行く。
「なぁ、どうだったぁ?あそこのソープ」
「行かねぇよ」
酔っぱらった時の槻本は、こういう会話しかしない。若い奥さんと早くもマンネリだとかなんとかは、まだましな方だ。現在女房も彼女もいない僕からしたら、とんでもない贅沢だと思った。だから、そういってやろうとした。
「その前にお前さ――」
たまには奥さんの事、抱いてやれよ。
そう、言おうとしたんだ。
「ぎゅ、ウォエ」
カエルのようなうめき声。槻本の、動きが止まった。最初は、あーあ、吐いちゃったかな、なんて思ってたけど。
なぜだか、槻本の背から、何かが飛び出していて、よくみたら蛍光灯に照らされて、血が――
「ひッ」
酔いは、一瞬にして冷めた。槻本の背から飛び出しているそれは確かに人の“手”に見えた。
がくりと項垂れる槻本の体をその手の持ち主が受け止めた。その影が一歩、歩みを進める。
逃げ――
しかしそれからすぐ。周囲に大勢の人の気配を感じて。頭が割れるように痛くなったのは、もうその後だった気がする。
そして今、目を覚ました僕の目は、にわかには信じられない物を捉えている。
広い部屋は、椅子に縛られた僕以外に数十人がたむろしていた。
床は剥きだしのコンクリ。どこか廃墟とか、建設途中の雑居ビルだろうか。窓は一つもない。昼か夜かもわからない。なぜか姿見がそこらじゅうに張り付けてあって、殴打され変色した顔の僕、そのあられもない姿が映し出されていた。
どうやら僕は、拉致されたらしい。
――僕は、どうなってしまうのだろうか。
「哪里、指南」
ずっと聞こえてくる、大多数の人間が話している声は、どうやら日本語ではない。
――中国語?
するとどうやらぼんやりと輝く、先ほどから数人が出入りしているであろう位置が、ざわざわとし始めた。
「ニュオグェイ……」
大勢の人の波を割り、大柄な男が、こちらに、歩いてくる――。
暴力的な色合いのスーツ、くすんだグラス。その目は僕を見ていた。
しかしその風体以上に、僕の恐怖心を刺激したのは。
「か、顔っが……」
男の顔は、もはや人間と呼べるものには見えなかった。ぐしゃりと崩れた顔のパーツ、その口元からは、異様に長い犬歯がある。そして最も特筆すべきなのは
角だ。
巨大な二本の角が、男の頭蓋を突き抜けるようにして生えている。水牛のように根元から湾曲するそれは太く、正に巨大な樹木が大地を隆起させながら根を張るように、その男の顔面を醜悪なものに変えていた。
周囲に目を配ると、その廃墟にいる全員が僕を見ていた。そしてその中の一人に、僕の視線は、否応もなく引き寄せられた。
少女。
若い、いや幼いといった方がいいか。腰まで垂らした黒髪のまだ十代前半ほどに見える少女がいる。その表情は凍ったよう。その目は、深海を思わせるほどに暗い。
何で、こんな若い――
その時、下腹部に、何かが突き刺さった。
「ゥッ、ぐぼ」
男の、腕――
男の醜悪な顔が一層歪む。笑って、いるのか。
「あ、がッ、うが」
貫かれた腹部だけでなく、全身に激痛。そしてバキバキと、全身の骨がうねる様な――
あれから何時間、経ったのだろうか。だが、この数時間で分かったことがある。
こいつら全員化け物だ。そして、僕も。
いつの間にか腹部の傷は塞がっていた。
鏡に映った僕の顔は、奴ら同様伸びた角と牙に蹂躙され。
「うあ、あ……」
もう、鬼と形容するほかない。