プロローグ/ Evil in Tokyo
改行が少ないのでお読みになる際、横書きだと読みにくいかもしれません。
気になる方は縦書きPDFで読まれることをお勧めします!
プロローグ / Evil in Tokyo
先ほどから急に降り始めた雨。それが熱く、僕の背中を穿つ。今夜は土砂降りだと朝のニュースで言っていた気がする。それをいまさら思い出したが、それにしても傘なんて、不必要だ。
今宵のお楽しみには邪魔でしかない。
人気のない、誰も目もくれない。暗く、東京の汚物が染みついた路地裏。そのさらに奥まった、さびれた団地脇の駐車場。少しでもここを出れば大学生と会社員と、背伸びした未成年がたむろする、きらびやかに輝く繁華街だ。
そんな彼らにはきっと想像できないであろう光景が僕の目の前には広がっている。
「今、どんな気分」
――ねぇ、ねぇってば。
目の前で這いつくばる金髪の女。その四肢は既に主たる女の体から切り離されている。
彼女が初めて会ったときお気に入りだと言っていたターコイズブルーのドレスも雨と流れ出す血液で本来の華やかさを失っており、雨で滲み徐々にぼやけていくコンクリートに散らされた真っ赤な四つの血の花が幻想的にてらてらと光っている。
僕はおもむろに女の正面に立ち、脱色してぱさぱさに傷み、雨を吸い始めている金髪をむんずと掴んで引き上げた。
彼女を引き上げた僕の右腕は真っ赤に染まっていて、でもそれもすぐに雨で洗い流されてしまう。なんだか、もったいない。
「ハァッ、ァ」
女は少量だが、口からも血液を垂れ流している。女を“この状態”に前処理する前、悲鳴を上げないよう口に手を突っ込み、咽頭を、正確には声帯を破壊した。
もちろん、騒がれては困るからだ。
以前はさるぐつわなどを無理やりかませていたが、あれを付けさせるというのはひどく面倒で、獲物を前にして衝動を抑えなければならず少しばかりストレスが溜まった。
我慢できなくなり腕を勢いよく獲物の口内に押し込み抉ると黙ったので、その時はいい方法を思いついたものだと自分を褒めてやりたくなったものだ。
「ぁクッ、ゥ」
不思議なことに、声を発する器官を破壊しても、彼女の喉は呼吸する機能を問題なく維持しているようで、小刻みに喉が嚥下するように動いていた。
次は僕自身の顔を接吻するときのように近づけ、まじまじと観察してみる。
何も見ていない、空虚な目をしていた。
現実を許容できず、疑問か、痛みか、それとも恐怖か。暗くくすんだガラスのような目は何とも言い表せない哀れさを感じさせた。眼球が充血しているから涙も流しているのかもしれないが、あいにくの雨に紛れてしまっている。
化粧もドロドロと崩れ、地面にこすり付けられた部分は汚い泥をかぶっている。顔の筋肉が強張り表情はいろんな感情がないまぜになっているようで、ぐちゃぐちゃで見てられない。
そして顎が外れてぽかりとあけられた深海魚のような口が、これまた滑稽だった。
手を離すとぐしゃりと不格好に、女の顔は地面とキス。
良い。良いよ。すごく似合ってる。
自然と、その言葉が頭に浮かんだ。こういう惨めなのが、ケイコは似合うよ。
彼女と初めて待ち合わせをした時だったか、似合ってる、綺麗だよ、と思ってもいないのに僕が何度もそういったのは。
実際、良い女だったと思う。
今やこんな格好で両の手足を失くし地面に這いつくばってこそいるが、ケイコはこれでも僕の行きつけのクラブ、そこのNo.1ホステスだった。顔立ちも結構、そそる。
綺麗な卵形の顔のライン。その顔に配置される目、鼻、口もまぁまぁバランスが取れていて、垂れた目がひどく官能的だった。
悲しいかな、初めて連れられてきたときに真っ先に目に留まったのがNo.1の彼女だった。特別だと感じていた自分の美的センスも案外、他人のそれともそう変わらないのかもしれない。
最後。まさに彼女の死の間際、メインディッシュの前に餞別の言葉をくれてやる。
「よかったよ、アンタ」
彼女とは三回ほど寝た。初めて抱いた時は細い割の肉付きの良さに驚いたものだ。
だが、そのことを言っているわけじゃない。四肢を失くして生死をさまようその姿のほうが、そしてそれに至る命を散らす工程の中の彼女が、ベッドの上の彼女の裸体よりも官能的に僕には映っていた。
さぁ、最後のお楽しみだと、右手を挙げたその時。
「へぁ、はッ」
女が無様に地を這って、正に芋虫のように逃げ出そうと動き始めていた。
ズル、ズルリととても場違いな、白けた音が響く。
少なくとも、僕は白けた。
「ッざけんなよ、アアッ」
醜い。とても見られたものではない。僕の芸術作品とも、供物ともいえる君は、そんなすがるような醜いマネをしてはいけないのだ。美的意識を踏みにじられたことによる純粋な怒りが膨れ上がっていく。
狂気と衝動が普段の僕を呑み込み、気が付けば彼女の脳天に、鋭い爪を立てていた。
次に意識を取り戻すと、周りは血の海。
雨がやみ、僕は夜にして分かるほどに埃色にくすんだ夜空を仰いだ。
目の前の血の海は排水溝へと徐々に流れ込み、意識が飛ぶ前には胴体と頭部が確認できたはずの彼女も骨と肉をミキサーにかけてぶちまけたかのように、何とも形容しがたいミンチ状の何かに姿を変えてしまっていた。
久しぶりのご馳走をどぶに捨てて、僕はやっと後悔するに至った。
でも、やっぱり――。
「ケイコが悪いんだ。アキラなら、あいつなら……」
口に出して呟く。アキラとは僕の母であり、姉であり、愛する人であり、永遠の憧れでもある。
万が一、彼女をこのように追い詰めることに成功したとするなら、彼女はこんな些細なことで僕を怒らせたりはしないのだろう。
まあ実際、彼女を追い詰めるなんてこと今の僕じゃ到底できるはずもないのだが。
「会いたいよ、アキラ」
彼女の名前を口に出すと、じんわりとした切なさが胸中を満たし広がる。
と、視界の端。
集合団地とその駐車上を仕切る金網、その後ろで何か動いたような気がしたが……。
この時は、どうとも思わなかった。
ヒトの持つ、DNA。
それは生命体の証として一つ一つの細胞すべてに刻まれている。科学技術が発達した現代、その情報は30億もの情報によって成ることが既に明らかにされた。
しかしその中に存在する遺伝子の数は約2~3万個。割合にして2パーセントしか、その詳細な機能は解明されていないのだ。その未知の98パーセントがなぜ存在し、その遺伝情報の中にいったい、何が秘められているのか……。
本当の意味ではまだ、誰も知りえないのかも、しれない――。