薄荷
つまらねえことは言うもんじゃねえよ。
怒声が家の外まで聞こえてきて、次いで、階段を上る荒い足音が響いた。声には聞き覚えがある。いや、聞き覚えがある、なんて遠い話じゃない。その家の息子の、俺の同級生の、中島の声だった。
彼が怒った姿を想像するのは難しかった。何となくその顔を見たくもあった。けれども、どうやら荒れているらしい家の中にずかずかと足を踏み入れられるほどデリカシーが無いわけでもなく、また、勇気もない。遊びに誘おうなどと軽い気持ちで足を向けたのは間違いだったかもしれない、と家の前で突っ立っていると、二階の窓が開いた。そこから、当の中島が顔を出した。
「よお」
「おう」
親父からくすねたのだろう煙草を一服しながら、中島は右手を挙げた後で、
「少し待っててくれ」
と声を掛けて、顔を引っ込めた。
「待たせたか?」
「いいや」
いつもなら、家の中に入っていけ、となるところだったが、今日はそういう空気ではないらしい。
中島は感情を読み取らせない色のない顔で、ぼんやりと口にした。
「今年も終わりだ」
「そうだな」
暖冬だとは言うが、流石に十二月の末日にもなれば寒い。
触れる空気の中に、いつ、白いものが混じっても不思議なことなどなかった。
溝川、朽ちかけた木の塀、落書きだらけのコンクリート塀、枯れ果てた柿の木、中島は口寂しくなったのか、煙草に火を点けた。口の中いっぱいに煙を含んで、吐き出した。流れる紫煙が風にかき消されていく。
「もう俺の言うことは当てにするな、って言われたよ」
「何だそりゃ」
ポケットの中から携帯灰皿を取り出した。そこら中に吸殻が落ちているこんな汚い街の中で、律儀なもんだった。もっとも、未成年の人間が喫煙している時点で、実直でもなんでもないのだが――それでも、俺はこういうところが好きだった。
「親父にな」
「親子喧嘩の原因はそれか」
「喧嘩?」
「してたろ。外にまで聞こえてたぞ、お前の声」
隣近所に聞かせるつもりはなかったらしい。中島は頭を搔きかけて――指の間の煙草に気づいて、慌てて灰皿の中に放り込んだ。代わりと言うわけでもないが、俺は自分の頭を掻く。中島は苦笑いをかみ殺した。
「俺が一方的に怒鳴りつけただけだ」
煙草もライターも携帯灰皿も黒いコートも、ジーンズも、チェーンのついたダサい財布も。
顔を顰めてしまった時点で、全て、ガキの頃に帰ってしまう。
18,19の頃など、もう少し大人になってしまえば、それこそ子供時代の何者でもないのだろうが。
俺はポケットの中にいれていた飴を口の中に放った。薄荷は好きじゃない。けれど、いつもポケットの中にあるのは溶けかけの薄荷キャンディーだった。中島は足を止めた。羨ましげに俺を見つめる。ポケットの中を探ってみた。どれだけ探ってみても、キャンディーはさっきの一つしかないようだ。
「売り切れ」
「いらねえよ」
中島は足を止めた。どこを歩いているのか、俺はまるで気にもせず漫然と歩いていた。気がつけば、そこにはトンネルがあった。誰も足を踏み入れることもない放棄されてしまった小さなトンネルの中は、縄文時代に絵画でも書かれていたのでは、などと馬鹿なことを考えてしまうほど寂しかった。
中に入り、壁面に背を預けて、そのまま腰を下ろす。
中島もそれに続いた。コートが汚れるのでは? と、少し気にかかったが、何も言わなかった。
「俺は人生を諦めているから、お前も俺を諦めろ」
「勝手に俺を巻き込むな」
トンネルの中は思いの外暗かった。照明なんて上等なものは無い。日が落ちれば竦むほどの暗さになるだろう。あと三時間もすれば、そうなるだろう――どうでもいい話だ。俺は中島が突然に吐き出した言葉に、戸惑った。中島はにやりと笑った。
「それが俺と親父の会話だよ」
「お前が巻き込まれた側か」
「ああ」
「お前の親父さん、諦めてるのか」
「知らねえよ」
薄荷キャンディーが鼻についた。妙に目に染みる。鼻炎持ちであることも加味してか、それとも、中島の親父の顔が妙に鮮明に思い浮かぶからだろうか。
「病気らしい」
「そんな話してたな」
「俺が?」
「お前以外には聞かねえな」
中島の親父の顔が、俺の親父の顔に変わる。愛憎入り混じる顔だ。けれど、その愛憎も、俺が勝手に作り上げた虚像に過ぎない。――のかもしれない。そういう風に思われる時点で、同罪とも思う。あの人がいる時の家は、けして俺にとって居心地の良いものではない。
煙草の匂いがした。副流煙、と俺は口に出しかけて、どうでもいいか、と諦めた。
別に長生きしたいわけでもない。健康を害したいとも思わないが、口に出すこともつまらないことに思えたから、口を噤んだ。何を言う気にもなれなかった。
「俺の所為かとも思う」
「そうかもな」
「でも、俺の所為じゃねえな、とも思う」
「そうだな」
中島の母親はその場に居たんだろうか。
気になった。もしも居たなら最悪だろうな。
居なかったら?――それはそれで酷いもんだ。
家に居なくて大丈夫なんだろうか。
と、そんなことをふと思い、隣を見ると、今にも死にそうな顔をした友人の姿があった。
「こんな大人にはなれないだろうな、と思ってたよ」
「お前の親父みたいにか」
「いつのまにか、そういう風に考えることも無くなってた」
「俺もそうだよ」
「誰だっていつか死ぬんだよな」
「そうだな」
それは、嫌だな。
中島はぼんやりと口にした後で。
俺の方を向いた。
「人との付き合いなんて計算じゃないんだろうけどよ、俺と関わってる奴が俺の所為で不幸になってる、なんて考えるだけで嫌だ」
「考えなけりゃいいじゃねえか、そんな難しいことは」
「考えないわけにもいかないんだ」
「人との付き合いなんて打算で出来るもんじゃねえ。って分かってんだろう」
「俺なんかいなくなった方が良い、って思うけど、そう思わせたくはない」
「当たり前だな」
「消えちまいてぇよ」
「うるせぇよ」
キャンディーはもう無くなった。口の中に甘ったるい余韻だけを残して。
多分、一生好きにはなれない。あの味が駄目だ。けれど、時折、酷く舐めたくなる時がある。
「人間なんざ薄荷キャンディーと同じだよ」
俺はそんなつまらないことを言った。
中島は呆れた顔を浮かべた。
「何だそりゃ」
「いつもは他のキャンディーを舐めたいと思う。好きな味なんて、メジャーどころだろ。普通。いちご、檸檬、葡萄、オレンジ? まあ、そこらへん。でも、時々は、薄荷が舐めたくなることもあるんだよ」
「…俺はいちごよりも薄荷の方が好きだな」
「まあ、そういう奇特な人間もいるだろ」
奇特じゃねえよ。
笑い声が微かに揺れていた。
「…キャンディーは、人を傷つけたりはしねえだろう」
「ハバネロ入りのキャンディーだって好きになる奴はいるんじゃねえの。俺は絶対に嫌だけどな」
ゆっくりと身を起こす。
つまらねえ問答をするにはここは寒い。
「最後の言葉かもな」
「は?」
「まだ、まともな内に話しておきたかったんだ」
「…」
「怒鳴ったりして悪かった、って謝んないとな。でも、解ったよ、とは言いたくねえな」
「俺の親父はドンドンと小さくなってく。お前の親父はいつまでも大きなままで居たいんだろうな」
「背はとっくに抜いてるけどな」
「うるせえな」
――分かってんだろうが。
中島は立ち上がろうとはしなかった。
指先の傍にまで灰が迫っていても、額を覆う手を動かそうとはしなかった。