第四話 着いた先で、エトセトラ
エレベーターを降りると、紗枝はまず異変に気づいた。
「何? すごくいい香り」
どこからともなく漂ってくる花の香りが、八階全体を包んでいた。
ここは一体……?
紗枝はどきどきしながらあたりを見回し、また正面に向き直ると、細い廊下の向こうに小さな看板がひとつ見えた。
結婚式のウェルカムボードのような、かわいらしい看板が。
『こちらへどうぞ ⇒』
と指示している。
矢印どおりに右に曲がると、とつぜん豪奢な扉が目の前に現れた。
「わっ」
紗枝は一瞬、目がくらんだ。
精巧なガラス細工でほどこされた、まばゆいばかりに、輝く扉。
扉の前には、傘立があった。竹製の編みカゴで、亀甲編みがとても美しい。さらに木彫りの小鳥とバラがそこにちりばめられている。
なんて綺麗……
紗枝は感動してほうっとなった。
こんな素敵な扉と傘立の前に立っていると、その雰囲気に乗じて、どこからかせせらぎの音が聞こえてきそうだった。
すると―
「しゃわしゃわ」
ええ!
紗枝は耳を疑った。
今、確かに聞こえたわ、澄んだ小川のせせらぎが!
紗枝はあわてて目をこすって、落ち着いて目の前の物を凝視した。
扉と傘立ては、本物である。そして小川はどこにもない。
「びっくりした。なんで小川のせせらぎが……」
紗枝は自分の耳をもみながら思った。
―でも、本当に信じられない。都会のビルの一室に、こんな情緒あふれた場所が存在していたなんて……
紗枝は扉を見つめ、その奥を想像した。
段々と紗枝の胸の中で、不安よりも扉の先を見たいという好奇心がうずいてきた。
思い切って紗枝は、その秘密の園につながる扉を押し開いた。
「カランカラン」
鈴の音が鳴り響き、扉の向こうから、花の香りがいっぱいに吹いてきた。そのさわやかな風が、紗枝の頬をなでて去った。
―花の香りの出どころはここだったのね。
花の香りに慣れると、あたりがクリアに見えてきた。
紗枝は中を見回した。彼女はちょうど今、玄関口に立っていた。
品のいい、こじんまりとしたカウンターが、玄関口のすぐ先にあった。
『御用の方は、このベルをお鳴らし下さい』と、美しい文字で書かれたポップと、教会で見かけるような鐘が、手のひらサイズで金色に輝いている。
紗枝は靴を脱ぎ、中に入った。きょろきょろとあたりを見回した。
―部屋全体は、ブルーが基調なのね。なんて爽やかな……
さらに周りを見てみると、右手奥と左手奥に、ギリシャ建築調の扉があった。
この建物の造りを想像すると、右手の方に、たくさん部屋がありそうだった。
壁のいたるところに、細長い全身鏡がはめ込まれていて、いつでも自分の姿が見えるようになっている。
紗枝はカウンターの奥をのぞき見ようと体を伸ばした。
しかし、カウンターの奥はブルーのカーテンで仕切られていて、中は見えない。
しかし耳を澄ませると、その奥から、フェアリーのような可愛らしい声が響いている。
紗枝はもう、先ほどまで寒空のなか外を歩いていたのを忘れそうだった。
「は! いかんいかん」
紗枝ははっと、また我に返り、もう一度慎重に部屋の隅々を見渡してみた。
きちんとそろえられた、お洒落で柔らかなスリッパ。
みずみずしく育った、観葉植物。
その隣には、モダンなガラステーブルと、豪華なソファ。
そしてガラステーブルに置かれているのは、真空保存のバラの花。
左手の壁にかけられている絵画。
「これは……シャガール」
紗枝は感動で、胸が熱くなった(彼女はシャガールの大ファンだった)。
―そして、その隣には、美顔機のポスター。
あれ。
―壁にインセットされた棚の中。化粧水とクレンジングが。
うろろ。
―棚の下段、美容液のテスターと、顔パックの試供品が。
「…………」
紗枝は、たらたらと汗をかき始めた。
後ろの壁の角を見た。
ランジェリーを着た、頭の無いマネキン人形が立っている。
このあたりで紗枝は、秘密の園は、秘密なものではなかったことを理解し始めた。
あしからず、紗枝はこの世界をまったく知らないわけではない。
だが、来たことは一度も無かったのだ。
「か、帰ろうかな」
と、思ったとき、誰かが紗枝の左手を、かしっと掴んだ。
「ひゃっ」
紗枝は驚いてそちらを振り向いた。そして衝撃を受けた。
「今井、紗枝さん、ですね?」
彼女の唇からは、深い花の香りがした。
紗枝の右手を掴んだ相手は、目もくらむような、美女!
小顔で純白の肌をした、二重の瞳が大きい女性が微笑む。
髪はオレンジブラウンで、艶やかで長い巻髪(もちろん縦)。
アンジェリーナ=ジョリーのような豊満な胸に、すっと伸びた、ハル=ベリーのような脚。
そして美女は、ナースの服をまとっていた。
紗枝はすっかり緊張してしまい、赤面して言った。
「はい……あの、ここって……?」
うすうす分かっていたのだが、紗枝は確認のためにたずねた。
美女は口角を綺麗にもちあげ、目を細めて紗枝にいった。
「エステティックサロン、『ビューティー』です。
わたくし、店長の牧野です。今日はお越しいただき、ありがとうございます」
女でもうっとりするような笑顔で、牧野栄次の姉、牧野恵理子は、ナース姿で紗枝を魅了し
た。