第十七話 寂しさの理由
店長と横美祢先生と別れ、紗枝は一人マンションに帰った。
ベッドの上で、今日買った服と靴を眺めた。
それは、今まで紗枝が似合うとも思っていなかったものだった。
でも、それが似合うと、彼女は知った。
自分が、少しずつでも、変わっている気がした。
「…………」
紗枝はベッドの上で考え込んだ後、思い切ったように、大きくうなずいた。
翌日、学校の講義がある二時間前に、紗枝はマンションを出た。
いつものようにジーンズをはいて、パーカーを着る―ところを、その日の彼女はしなかった。
大学の最寄り駅まで、電車で三駅。
同じ車両に乗っていた、見知らぬ男の子数人が、紗枝をちらちらと見ていた。
紗枝はそれに気付いたけれど、自意識過剰になっているのだと自分に言い聞かせた。
大学の構内に入り、階段近くの掲示板の前に来たとき、紗枝はエミを見つけた。
エミは掲示板の前で試験内容のメモをとっていた。
「エミ」
紗枝は彼女を呼んだ。
呼ばれて、エミが紗枝に気付いて、後ろを振り向いた。そして、びっくりして声をあげた。
「わあ! 紗枝ちゃん可愛い!」
昨日買った、チェックのスカートとセーターを着た紗枝は、頬を少し赤らめて、微笑んだ。
「すごい似合ってるよ、ジーンズよりいいよ」
エミは、きゃっきゃっとはしゃぎ、紗枝の服を褒めた。
「ありがとう」
紗枝は顔を赤くして、お礼をいった。
「授業、エミも次?」
紗枝はきいた。
「ううん、あたしはこれで終わりなの。紗枝ちゃんは次?」
エミはいった。
「ううん。午後から。お昼食べてから行こうと思って」
「そっかー。残念。一緒にお昼食べれたらよかったね。
私、もう帰らなきゃいけないんだ」
「そう」
「あ……ねえ紗枝ちゃん。何か痩せた?」
紗枝の耳元で、エミがささやいた。
「あー、うん。見える?」
「分かるわかる。すごいねー、冬場って、動かないしいっぱい食べちゃうし、太りがちになっちゃうのに」
エミはぴょんぴょんはねて、うらやましい〜、といった。
紗枝は黙って微笑んだ。ありがとう、とまたいった。
エミと別れて、紗枝は食堂にいった。彼女とすれ違う男子学生の何人かが、振り返って紗枝を目で追っていた。
紗枝はお茶を汲み、学食のおばさんに注文を告げた。定食が出来るまで、カウンターの前で立って待っていた。
ミニスカートとブーツの間に覗く、細い脚を、食堂の男子学生がそれを焦がすように見ていた。
紗枝はその視線に気付いていながら、無視した。
まだ、見られることの快感より、恥ずかしさが勝っていた。
そのとき紗枝は一生懸命、恥ずかしいのを抑えてスカートをはいていたのだ。
そして紗枝は食堂の隅のテーブルについた。
ようやく一息ついて、紗枝は自分の脚をテーブルクロスの下でなでた。
とても不思議な感じが紗枝をつつんでいた。
ようやく紗枝は、自分が外見にコンプレックスを持たなくなってきていることに気が付いた。
ゆっくりお昼をとり、食堂を出る頃には、紗枝は落ち着きを取り戻していた。
教室に行くため、階段を上がった。
上がりきったとき、紗枝はどきりとした。
向こうの廊下を歩いている男子学生の団体の中に大崎君がいた。
大崎君が一人、階段を降りようと、こちらに向かってきていた!
紗枝は、階段の前で、立ち止まった。
横を向いていた大崎君が、こちらを向いた。
彼の表情がぴたりと止まった。
紗枝は、真っすぐに大崎君を見つめていた。
スカートと、セーターと、ブーツを履いた女の子が、彼女をフッた好青年を見つめていた。
大崎君も、目をそらさずにいた。無表情で紗枝を見つめた。
そして、大崎君は眉をひそめて、ほんの少し悲しそうに、微笑んだ。
紗枝は、大崎君のその笑みを見て、一気に肩の力が抜けた気がした。
ゆっくりと、紗枝は歩いていった。大崎君の方に向かって。
大崎君も、紗枝の方に向かって歩いてきた。
二人の距離が縮まった。
すれ違うとき、紗枝は何も言わなかった。顔をそらすことも無かった。
ただ、前を向いて、紗枝は歩みを止めなかった。
大崎君に声をかけることは、無かった。
紗枝が大崎君の横を通りすぎたとき、小さな声が、後ろで聞こえた。
「よ」と、大崎君のつぶやく声が。
紗枝は、一瞬歩みを止め、黙って微笑んだ後、「や」とだけ、返事をした。
後ろは振り向かなかった。背中で、大崎君の足音が階段を下りていくのが聞こえた。
教室に入って、紗枝は適当な席についた。授業開始五分前で、まだ教授は来ていなかった。
紗枝は息をはき、目を細めて教室を眺めた。
風が、全身を通り過ぎたような気がした。
寂しいかな、と紗枝は思った。
もう、失恋に引きずられることはないのだと分かると、それはそれで、彼女はちょっぴり寂しかった。
昨日、百貨店のカフェで、紗枝が感じた「寂しさ」とは、こういうことだったのだ。
―まあ、まだ完全に失恋の痛手が消えたわけではないけどね。
紗枝は思った。今もやっぱり、失恋の辛い思い出が顔を出して、紗枝をちくちくと苦しめていた。
彼女は少し眉間にしわを寄せた。
―でも、もう、夢には出ないかな。
紗枝は静かに目を閉じ、今の気持ちをゆっくりと味わった。