第十一話 ヤドカリの沈鬱
雪はふらねど、底知れぬこの寒さ。
大学生には、身も凍るこの時期。
一月の終わり、紗枝の大学では秋期試験が始まった。
その頃になると、試験の日程とレポート提出の課題が掲示板に張り出される。
まじめに授業に出ている生徒は余裕の表情で掲示をみつめ、出席日数の足りない生徒は試験とレポート提出で挽回しなければと、あせりを見せる。
大学の食堂では、栄次と紗枝がレポートの下書きにとりくんでいた。
「へぇ、それはそれは」
シャープペンをノックしながら、栄次はくすくす笑っていった。
紗枝は顔を赤くして、小声でいった。
「あれが最近のエステなの?」
紗枝は栄次に、『スペシャル』について(話せる範囲で)事細かに説明した。
栄次は笑いこけて、腹をおさえた。
「めちゃくちゃだなー」
「めちゃくちゃよ! でも痩せたわ」
紗枝は、そこだけは『スペシャル』に感心した。
「でも、あんなん毎回じゃ辛すぎる」
紗枝はさめざめと嘆いた。
「それだけじゃないよ。リラクゼーション・マッサージってのもあるし」
栄次は目じりの涙をぬぐっていった。
「詳しいわね」
「なにせ店長が、姉貴ですから」
「そう! 牧野店長、サイコー・ビューディフォーよね!」
「なんやねんそりゃ。もうちょっと英語を勉強しなさい」
栄次はいって、英語のノートを紗枝に渡した。
栄次は、英語ノートを写し始めた紗枝をほほえましく眺めて、いった。
「でも、楽しくやってるみたいじゃん」
「まあ、確かに面白いわ」
そこは素直に認めて、紗枝は心の中で栄次に感謝した。
「でさあ、栄次。この授業のレポートなんだけど……」
紗枝はいいながら、鞄から新しいノートを出した。
ついでに、自前のペットボトルも出してテーブルに置いた。
それに気付いて、栄次がいった。
「あれ?」
「え?」
紗枝はきょとんとして、ペットボトルのウーロン茶から口をはなした。
「炭酸系、やめたんだ?」
「ああ、うん」
紗枝はペットボトルを持ち上げて、いった。
「ジュース一本でも、砂糖って結構たくさん入ってるし。
それに炭酸は骨を溶かしちゃうから、ほどほどにすることにしたの」
「へぇ」
栄次は頬肘をついて、紗枝をまじまじと見つめた。
紗枝はいって、自分でうなずいた。
「生活習慣も変えていかなきゃって思って。
エステに行ってない時間は、あたしが体をケアしてあげなくちゃ、でしょ」
「うん」
栄次は感心して、うなずいた。
「一週間にどれくらい通ってんの?」
「週二。今のところ、それでコースが……」
いいかけて紗枝が、ばっとテーブルの下に伏せた。
「何?」
ぎょっとして栄次がいった。
「大崎君よ」
テーブルの下から、小声で紗枝が返事をした。
紗枝はそれ以上何もいわず、巻貝の蓋を閉めたヤドカリのように、沈黙してしまった。
栄次は食堂の入り口を見た。
今、数人の学生が、食堂に入ってきたところだった。
「あ、ほんとだ」
栄次はつぶやいた。彼の足の下に隠れたヤドカリが、一瞬体を震わした。
紗枝をフった、大崎君(紗枝に敬意を込めて、「大崎」ではなく、「大崎君」と呼んでおこう)が、こちらに向かって歩いてきた。
なぜなら栄次(と紗枝)が座っていた席は、注文を聞く学食のおばさんがいる、カウンターの目の前にあったからだ。
幸い、ここのテーブルは、丈が長めのテーブルクロスがかけてあり、栄次の足元にいる紗枝の姿は、誰にも見えなかった。
紗枝は、栄次のジーンズの破れを見つめながら、じっと大崎君の声を聞いていた。
「なんにする?」
大崎君の声が聞こえた。
「俺、カツカレーにしようかな」
多分、彼の友達だろう。野太い男の声が聞こえた。彼はいった。
「そっちは?」
「えー。あたしは、オムライスにする」
可愛い女の子の声が聞こえた。
「あたしは、パスタにしようかな」
もう一人、大人っぽい女性の声が聞こえた。
二人の声で、紗枝の胸が、どくんと脈打った。
「ねー、大崎君は?」
可愛い声が、彼に尋ねた。
「そうだなぁ。あやちゃん、オムライスなんだよね。俺も同じのにしようかな」
脈打っていた胸は、急激に萎縮し、ヤドカリは内側へと締めつけられた。
紗枝は下唇を噛んで、ぎゅっと拳を握った。
顔を赤くして、目線を床の方に落とした。
テーブルクロスと床の隙間から、白い光がこぼれて見えた。
そのすぐ向こうには、紗枝が告白した彼の靴があるはずだった。
大崎君は、学食のおばさんにオムライスを注文した。
栄次は、目の前の大崎君たち団体を、レポートを書くふりをしながら見つめていた。
別に、取り立てて変な会話ではなかったはずだ。
大崎君たちは、決して変な会話をしていたわけではなかった。
単純に、メニュー見て、何を食べるか考え、それを注文しただけだ。
だけど、栄次にはわかっていた。
この些細な会話が、どれだけ紗枝の気に障ったかという事を。
ヤドカリは、繊細な生き物なのだという事を。