第8幕 嵐の前触れ
エルドランと暮らし始めてから二週間ほどがたったある日。
ラルフはヒューイと共に王都の巡回をしていた。
暖かな陽気の中、石畳の上を子供がはしゃいだ声をあげて駆けていく。
「それで、彼の様子はどうだい?」
穏やかな調子で尋ねるヒューイに、ラルフはぶつかりそうになる子供を避けながら答えた。
「なんとか慣れてきたみたいです。ただ…」
「何かあったのかい?」
「いや、たいしたことではないんですけど…」
ことの始まりはエルドランに街を案内していた時。
「あら、ラルフじゃない!」
ラルフは突然、近所で食堂を営む女性、ダリアに声をかけられた。
燃えるような赤毛にそばかす、豊かな胸の長身の大人の女性だ。両手には大きな紙袋を抱えている。
「ダリアさん。買い出しですか?」
「そうよ。お客も少ない時間だからね。…おやぁ?」
ダリアがエルドランに目をとめた。
つかつかと近づいて、その顔を正面から覗き込む。
「随分と綺麗なお嬢さんを連れてるじゃないの、ラルフ?彼女ができたんなら言いなさいよぉ!」
と言ってラルフの肩をバシバシと叩く。
「いや、こいつは…」
「僕は男ですよ!」
慌ててエルドランが否定をすると、ダリアが赤銅色の目を丸くした。
「おやまぁ、男の子だったの!」
「エルといいます。商隊が賊に襲われて仲間とはぐれてしまい、砂漠で倒れていたところをラルフに助けてもらったんです」
「…で、こいつの仲間が見つかるまで俺の家に身を寄せてるってわけ」
エルドランに関することを一般人に話すべきではない。
そう言ったのはヒューイだ。
そしてダリアはその嘘を信じてくれたようだ。
「そうなの…大変ね。早くお仲間が見つかるといいわね。…そうだわ、ラルフがいない時に何かあったら、気兼ねなく私のところへ来なさいな」
「ありがとうございます、ダリアさん」
まるで花が咲くかのようにエルドランが微笑むと、ダリアはわずかの間動きを止め、次の瞬間顔を真っ赤に染めた。
「いっ、いいのよ!困った時はお互い様!じゃあね!」
そう言ってダリアは足早に去っていった。
「ダリアさん、どうしたんだろう?顔が赤かったけど…熱でもあるのかな?」
「ごふっ!?」
エルドランの思わぬ天然発言に、ラルフは激しく咳き込んでしまった。
(こいつ…自分が原因だって気づいてないのか?)
その後も彼らは街を歩けば男女問わず様々な人物からの熱い眼差しに晒され、ラルフはいたたまれなくなった。
エルドランが男だと気づいた者も気がつかなかった者も皆、彼の透き通るような美しさに目を奪われた。
そんなラルフの心労には気づかず、エルドランは街を見回しては子供のように目を輝かせるのだった。
「…無自覚もほどほどにしてもらいたいですよ…」
ヒューイはくすりと笑った。
「まさにレディキラーだね」
そう言うヒューイも、甘いマスクと紳士的な優しさで女性からの人気が高い。
本人が気づいているかはわからないが。
(この人も無自覚イケメンだよな…きっと…)
ラルフは心の底で深くため息をつく。
また、ヒューイには話していないが、ラルフにはもう一つ、エルドランについて気になることがあった。
それは、ふとした瞬間のエルドランの表情である。
いつもは普通の17歳の少年らしい澄んだ瞳をしているのに、気づけば何かを思いつめるような、痛みに耐えるような顔をすることがあるのだ。
かと思えばまた元どおりの明るさを取り戻す。
始めは慣れない庶民の暮らしに苦労しているのかと思ったのだが、どうやらそれは違うようだった。
───大勢の人を死に追いやった僕だけが、王子として国の行く末を見ることすらできなかった僕だけが、知らない世界で一人生き残ってしまった…
たしかエルドランはそう言っていた。
その時の自嘲するような笑みが頭から離れない。
やはり、過去の記憶が今もなお彼の心を蝕んでいるのだろうか。
だとすれば悲しいことだ。
ラルフが悶々としていると突然、ヒューイが足を止めた。
「ヒューイさん?」
見ると、彼の表情は普段の穏やかな様子から一変、険しい顔でどこかを見つめている。
その視線の先を辿ると、そこには一人の男が立っていた。
昼間にもかかわらず漆黒のマントを羽織り、フードを目深にかぶっている。
まるで死神のような出で立ちだ。
「あいつ…何なんですか?」
ヒューイは男を見据えたまま首を横に振る。
「わからない。ただ、この国の人間ではないだろう。長旅用のブーツを履いているし、ウィステリアの国民はあんな格好をしないからね」
「…怪しいですよね」
「あぁ、ものすごくね。だとしても、怪しいだけでは俺たちが手を出すことはできないよ。とりあえず、班長に報告しておこうか」
男はこちらが見ているのに気がついたのか、ばさりとマントを翻して去っていく。
その後ろ姿に、ラルフは得体の知れない恐ろしいものを感じたのだった。
「黒マントの怪しい男、か…」
ラルフとヒューイは街の巡回を終えると、すぐさまガーランドのもとへ例の男のことを報告しに行った。
「俺たちが見ていることに気がついたのか、すぐにどこかへ行ってしまいました。念のため、他の班にも警戒するよう言っておいた方がいいかと」
ガーランドは眉をひそめて重々しく頷いた。
「わかった。連絡しておこう。何もなきゃいいんだけどな…よし、戻っていいぞ」
あぁそういえば、と、ガーランドが部屋から出ようとしたラルフを引きとめる。
「神官長が、お前とエル坊に会いたいそうだ」
「神官長が?なんでですか?」
「さぁな。とりあえず明日の午後2時、祈りの社に来るように、だと」
「神官長か…」
城の廊下を歩きながらラルフはひとりごちる。
神官長とは、この国の政治を支える要の人物だ。
普段は祈りの社という場所におり、神官長だけが持つという不思議な力で正しい方向へ政を導いて、この国の出来事すべてを把握することができると言われている。
ということは、エルドランの存在もすでにわかっているのだろうか。
人前には顔を出さず、その姿を見たことがあるのは、王と国政に関わる者のみ。
そんな人物が、自分とエルドランにいったい何の用だろう。
───まさか、エルドランが王座を狙うかもしれないと危惧している?
あの少年がそんなことを考えるはずがない。
…たぶん。
ラルフにも理解できぬ複雑な何かを抱えていることはわかるのだが、エルドランがそのようなことをするとは到底思えないのだ。
だが、時折見せるあの虚ろな眼差しはいったい何だろう。
もしもエルドランが、本当に王座を奪うつもりだったら?
その時は、自分は彼の敵となってしまうのだろうか。
そこまで考えたところで、ラルフはいやな想像を振り払うように頭を振った。
今、自分が注意しなければならないのは謎の男と神官長だ。
何事もなく杞憂に終われば良いのだが…
怪しくなりそうな雲行きに、ラルフは少しだけ歩みを早めた。
(───しまった。見つかった)
ここはウィステリアのとある路地裏。
ひとりの男が足早に歩いていた。
(このままでは目立ってしまう。奴を探すには、この国の人間に紛れるしかないが…)
確か、自分の方を見ていたのは二人。
一人は焦げ茶色の髪と目の端整な顔立ちの男、もう一人は漆黒の髪と瞳、凛々しい雰囲気をまとった少年だったか。
おそらく二人共この国の兵士だろう。だとすれば、自分のことが報告されるのも時間の問題だ。
(どうしたものか…)
考え事をしながら歩いていたからか、何か柔らかいものを踏みつけてしまった。
(これは…)
しばしの間考え込んだ後、男はにやりと口元を歪める。
宵闇のように黒いマントが、不吉にゆらり、と揺らめいた…