第2幕 地下に眠るもの
臓腑の浮くような感覚。
自分が落下していると気づいたのは、そのすぐ後のことだった。
「うわあぁぁ!」
叫び声をあげて必死に手足を振り回すが、その手は宙を掻くばかり。
死ぬ───!
そう思った次の瞬間、ラルフは背中に強い衝撃を受け、息を詰まらせた。
さいわいにも骨折などはしていないようだが、したたかに打ちつけた箇所は後でひどい痣になるだろう。
「…いってぇ…」
身体の痛みに耐えながら上体を起こすと、彼のいる場所は城の地下のようであることがわかった。
辺りを見回すと、わずかに光沢のある黒灰色の壁が一直線に奥まで続いており、ドラゴンらしき生き物を象った埃まみれのランプがこちらを睨みつけている。
廊下のようなものだろうか。
「ラルフ!大丈夫か!?」
ガーランドの大きな声が響き、見上げると、彼の心配そうな顔がはるか頭上に見えた。
「大丈夫です!ただ、ここからは登れそうにないんで、別の出口を探してみます!」
ラルフも同じように叫び返し、身体中の砂を払いながら立ち上がる。
「俺は応援を呼んでくるから、くれぐれも無理はするなよ、いいな!」
そう言ってガーランドの姿は見えなくなった。
「さて、と───」
こんな場所で助けてもらうのを待っていてはウィステリア兵士の名が廃る。
「脱出作戦開始だな!」
通路を歩くこと十数分。
ラルフは早くも行き詰まっていた。
というのも、始めに歩き出した方向は途中で瓦礫に塞がれて通ることができず、反対側のこちらも行き止まり。
自力での脱出はできそうにない。
「駄目か…」
仕方なく元の場所に引き返そうとすると、目の端で何かが光った。
「───ん?」
よく近づいて見ると、壁に小さな石が埋め込まれている。
ほのかに青白く光るこぶし半分ほどの大きさの石には、花のような模様が描かれていた。
「なんだ、これ…?」
石にそっと触れてみる。
すべすべとしたそれは何故かじんわりと暖かく、まるで命があるかのように脈を打っている。
しばらくの間ぼんやりと石を指先でなぞっていると、それが突然強烈な閃光を放った。
「な、なんだ───!?」
そして。
行き止まりのはずの壁が、重苦しい音をたてて開きだす。
それはまるで止まった時が動き出すようにゆっくりと。
永い眠りについていた獣が目を覚ますように。
扉の先にあったのは、小さな部屋だった。
「こんな所に、部屋が…?」
おそるおそる足を踏み入れると、ラルフは得体の知れない違和感を感じた。
(なんで、この部屋───)
塵ひとつないんだろう。
しかも、部屋が明るい。
灯りなどどこにもないはずなのに。
他の場所はどこも古びていたり砂に覆われていたり、到底人の住めるものではなかった。
だがこの部屋は違った。
どこも清潔で、掃除が行き届いている。
(誰かが住んでるとか?こんなところに?まさかな…)
奥にはラルフの身の丈ほどもある本棚。
中には様々な種類の本が隙間なく入っている。
そして中央には、柔らかそうなベッドが置かれており、枕元からは2メートルはありそうな、長い金色の布らしきものが川のように床まで流れ落ちている。
そして、そのベッドに誰かが横たわっていた。
肩が小さくゆっくりと上下しているのが傍目からもわかる。
(誰だ…?)
警戒したままゆっくりとベッドへ近づく。
もうすぐたどり着く、その時───。
ベッドの周りを取り囲むように複雑な模様で描かれた青い円。
ラルフはその存在に気づかず、足を踏み入れてしまった。
───ゴオォッッ!!
突然激しい風が吹き荒れ、ラルフの黒髪をなぶった。
風はバタバタと音をたてて部屋中を駆け巡る。
「これは…魔法!?」
この世界には理屈では説明のつかない、魔法というものがある。
火や風を起こし天候を変え、力の強い者は地形すら変えることができるという。
そして、そんな不思議な力を持つ者たちを、人は魔法使いと呼ぶ。
しかし、ラルフが実際に彼らを目にしたことはない。
地域によって魔法使いとは畏怖の対象となり迫害される者も少なくはなく、ウィステリア国内でも、迫害こそなくとも人々から距離を置かれてしまう存在であることに変わりはないのだ。
そして巻き起こる風は明らかに自然のものではなかった。
小さな机から飛んできた羊皮紙の束がラルフの顔面に張り付き、危うく窒息しそうになる。
幸い風はすぐに止み、張り付いた羊皮紙を勢いよく引き剝がしておそるおそる一歩、足を踏み出してみる。
今度は何も起こらなかった。
さらにベッドへと近づいたラルフは、横たわるその人を見て息をのんだ。
そこにいたのは、自分と同じか少し年下ぐらいだろうか、白磁の頬をした、天使と見紛うばかりに美しい人。
金色の布に見えたそれは、その人の髪だった。
まるで真昼に星の川が現れたようだ。
眠っているのだろうか、その人の瞼はかたく閉じられ、瞳の色をうかがうことはできない。
時も忘れてその光景に見入っていたラルフだが、はっと自分の立場を思い出し、その人の肩を軽く揺すり、起こそうと試みる。
「おい、起きろよ!こんな所で寝てたら風邪引く…じゃなかった、危ないぞ!」
揺すり続けること数分。
やっと眠り人は目を覚ました。
身を起こすのに手を貸してやったが、永い間眠っていたのか、目は虚ろに宙をさまよっている。
ラルフはその人の瞳の色にはっとした。
春に芽吹く新緑を思わせる鮮やかな翡翠色の瞳。
どこまでも澄んだその眼差しは、不思議に懐かしかった。
やがて焦点のあったエメラルドがラルフの姿をみとめると、その人は何故か驚いた表情をつくる。
長らく会っていなかった知り合いに偶然出くわしたような顔だ。
しかしラルフがそのわずかな表情の変化に気づくことはなく。
もう一度室内を見回して首をひねった。
「お前、なんでこんな所で寝てたんだ?まさか、ここで暮らしてるのか?」
その人は金色の頭を横に振る。
次いで何か言いたげに口を開くが、ぱくぱくと唇を開閉させるだけで言葉が出ることはなかった。
口がきけないのだろうか。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
こんな古い城、いつ崩れてしまってもおかしくないのだから。
出口はあるのか、そう言いかけた時───。
ズドオオォォンッッ!という凄まじい音が城を震わせた。
天井からパラパラと石の欠片が落ちてくる。
城が崩壊を始めたのだ。
「まずいな…」
足元が揺れている。
しかも、徐々に大きくなっていくようだ。
「逃げるぞ!立てるか?」
身にまとった深緑色の上衣がゆらりと揺らめき、ゆったりとした象牙色のズボンと焦げ茶のブーツに包まれた長い脚が静かに床に降ろされる。
そのまま立ち上がろうと試みるがうまく力が入らず、倒れそうになるのを慌ててラルフが支える。
そしてその人の背と膝裏に腕を差し込むと、いとも簡単にその身体を持ち上げてしまった。
横抱き、すなわちお姫様抱っこである。
「揺れるけど我慢しろよ!…痛っ、痛い!叩くな!…わかったよ、外にちゃんと出られたら降ろしてやるから!」
その人は眉間に皺を寄せたままラルフの兵服をくいっと引くと、ある一点を指差した。
あの本棚だ。
「本棚がどうかしたか?悪いけど、時間がないんだ。行くぞ」
そう言って部屋を出ようとするが、金色の髪をぶんぶんと振るので足止めされる。
「…わかったよ、行けばいいんだろ?」
ため息をついて、床に走る亀裂を避けながらゆっくりと本棚の方へ向かう。
そうしている間にも天井の一部が崩れ落ち、ついに部屋の入り口が塞がれてしまった。
「もう出られないぞ…どうするんだよ?」
抱えられた本人はいたって冷静だ。
無言でラルフを急かす。
やっとのことで本棚までたどり着いた二人。
横抱きにされたまま腕の中の人は白い手を伸ばし、真紅の革が張られた一冊の本を抜き取る。
すると。
本棚が重苦しい音を立てて動き出し、奥から長い階段が現れた。
抜き取った本が仕掛けを動かす鍵となっていたようだ。
「か、隠し扉…!?」
階段の上には、小指の先ほどの小さな光が見える。
「出口だ!」
もう迷うことはない。
ラルフは人ひとりを抱えたまま、風のような勢いで階段を登り始めた。
彼が一段駆け上がる度、足元から次々と階段が崩れてゆく。
彼が走り抜けると、金色の長い光が流れ星のように彼らを追っていく。
「はぁ…はぁっ…」
息が荒くなる。
腕が軋み、脚がもつれそうになる。
(あと少し…!)
エメラルド色の瞳が心配そうに自分を見上げている。
その不安を取り除くように、ラルフは抱えた腕の力を強めた。
光が徐々に大きくなってくる。
あと三段。
二段。
一段。
そして───。
二人は光に包まれた。