プロローグ~金色の王子~
僕は願わずにはいられないんだ。
もし過去へ戻ることができたなら、と───。
だけど、今も昔も、隣には君がいて、一緒に戦ってくれている。
だから絶望なんてしていない。
この命が尽きたって、想いは、記憶は、君の中で生きているから。
覚えていて欲しい。
風が吹いた時は、僕が君のそばで歌っているってことを…
今から500年ほど前───。
この世界で、大きな大きな戦争がありました。
戦争の炎は大陸じゅうに広がって、たくさんの人々が傷つき、多くの血が流れました。
そんな戦争が続いていたある日、とある小さな国へ、隣の大きな国が攻めてくるという知らせが入りました。
度重なる戦争で、小さな国に戦う力はもう残されておりません。
それでも小さな国の人々は立ち向かおうとしました。
己の手で。足で。
大好きな自分の国を守るために。
兵士たちは疲れきった身体に鞭をうち、国境近くの平原へ駆けつけました。
敵が地平線の向こうから馬に乗り、土煙をあげながら駆けてくるのが見えます。
誰もが喉を震わせ、自分の剣を強く握りしめたその時。
目の前に、一人の少年が現れました。
兵士たちに背を向けて立つその少年は、小さな国の王子でした。
彼は自分の国の民が少しずつ傷ついていく様子に誰よりも心を痛めていました。
一国の王子である彼が戦争へ行くことは許されたものではありません。
けれど今度は自分の国の近くで戦争が起きると聞き、耐えきれずに城から飛び出してきたのです。
兵士たちは驚いて口々に叫びます。
「王子、ここにいてはなりません!早くお逃げください!」
しかし王子はその黄金色の頭を緩く振って答えます。
「それはできない。君たちはもう充分過ぎるほど戦ってくれた。今度は僕がこの国を、民を守る番だ。幸い、僕には“力”がある。それに…」
王子は一瞬だけ目を閉じ、もう一度開きました。
そこに見えるのは、揺らぎない決意と自分自身への激しい怒り。
「それに、もう誰かに守られるだけなのは嫌なんだ。自分の国さえ守れないなんて、何が王子だ!さぁお前たち、はやく逃げるんだ!急げ!」
兵士たちは王子を見捨てることなどできません。
しかし、これほどまでに鬼気迫る表情をした王子を今まで見たことはありませんでした。
しばしの間躊躇った後、兵士たちは王子に敬礼をして、一人、またひとりと戦火の届かぬ所へと走り去って行きました。
それでもただ一人、王子の傍を離れぬ者がおりました。
黒い髪に黒曜石のような瞳。
凛々しい眉が意思の強さを窺わせる、王子より1、2歳ほど年下の兵士の少年でした。
「何をしている、アスター!お前もはやく逃げろ!」
しかしアスターと呼ばれた少年は頑としてその場を動こうとしません。
「嫌です!幼い頃から本当の兄のように接してくださった王子を見捨てるなどできません!」
王子は困ったように眉尻を下げました。
「アスター…僕はもう、大切な人が傷つくのを見たくないんだ。こんな所で、命を落とさないでくれ」
そう静かに語る王子の横顔は、どこか泣いているようにも見えました。
そこにいたのは、ただひたすらに人を想う一人の少年の姿。
年相応の不安な表情を見せる王子に、アスターはしっかりした声で答えます。
「それではこうしましょう。俺は自分の命が危ないと思ったらすぐに逃げます。…どうかそれまでは、あなたのお傍に居させてください。大丈夫です。逃げ足には自信がありますから」
王子はくすりと微笑みました。
「そういえば、お前は昔から勉強が嫌になっては部屋を抜け出していたものな」
そう言うと王子は、急に真剣な顔になって言いました。
「アスター。僕の…最後の我が儘を聞いてくれるか?」
最後、という言葉はアスターの胸にちくりとした痛みをもたらしましたが、それでも従者らしく片膝をついて答えます。
「俺にできることなら何でもしましょう。あなたの望みのままに」
その言葉に王子は安堵のため息をつくと、黒髪の従者に「あること」を頼みました。
それは途方もない年月のかかる、しかし二人の命を守ることのできる、最後の方法。
そして、王子でなければできないこと。
始めは驚きに動きを止めていたアスターも、すぐに落ち着きを取り戻したのか、ゆっくりと頷いた。
「それで王子の命が助かるのならば…やりましょう」
「ありがとう、アスター」
王子はもうすぐそこまで迫ってきた土煙を見据えながら言いました。
「…僕は、この国を、民を守りたい。すべてが終わったら…また、逢えるだろうか?」
今度は王子と従者としてではなく、ただの友人として。
今にも泣き出しそうな声音の王子に、従者は太陽のように力強く笑って答えます。
「もちろん!神は、自らの力で運命を乗り越えようとする者を見捨てぬと言います。…いつか、時の彼方で、きっと逢えますよ」
二人はしっかりと抱き合い、約束をしました。
そして王子は、静かに空を見上げました。
雲間から差し込む一筋の光が、王子を祝福するかのように照らします。
「いつか、時の彼方で、か…」
再会の約束をしたからには、生きていなければなりません。
この別れは永遠ではなく、未来への希望に満ちたものであって欲しい。
王子は心から願いました。
風がそっと王子の頬に触れました。
そして───。
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「『…そして、敵のいなくなった小さな国には、平和が訪れました。ですが、国を命懸けで守り抜いた金色の王子の最後の姿を見たものはいないと言われています───。』おしまい。さぁ、もう寝る時間よ。おやすみ、ラルフ」
夜の帳が降りた頃。
ある小さな家の子供部屋では、母親が古い物語を語って聞かせていた。
この国には様々な伝説やお伽噺がある。
例えば、強く優しい聖騎士の物語。
例えば、国を命懸けで守った魔法使いの王子の物語。
「最果ての王子」と呼ばれるそのお伽噺は、500年前に本当にあったと言われている戦争を基に作られた、この国では最も有名な物語だ。
長く語り継がれるこの物語は、今でも人々から愛されている。
しかし。
ラルフと呼ばれた幼い子供は、眠そうに目を擦って尋ねた。
「ねぇ、おかあさん。王子さまはどうして帰ってこなかったの?」
そう。
この物語は、王子が国に帰らずに終わるという、何とも奇妙な終わり方をしているのだ。
母親は息子の黒く柔らかな髪を撫でながら言った。
「どうしてでしょうね。もしかしたら、今もどこかで生きているのかもしれないわ。世界中を平和にするために旅をしているのかも」
「500年もたったら死んじゃうよ?」
「あら、わからないわよ?だって魔法の力を持った不思議な王子様だもの」
本当に王子様がいたらいいわね、と母親は優しく微笑むと、微睡み始めた息子の額にそっとキスを落として静かに部屋を出ていった。
暖炉の火がパチパチと楽しげに踊る。
幼いラルフには、その炎が風にたなびく王子の金色の髪のように見えた。
眠気に抗いながら、ラルフは思った。
(もし王子さまが生きていたら、友達になりたいなぁ…いろんな所に行って、たくさん冒険するんだ。それこそ、黒の従者アスターみたいに…)
小さな子供の小さな願いを聞いていたのは、家々を優しく見下ろす無数の星たちだけ。
優しい闇が、子供の身体を包んでいった…
金色の王子と黒の従者。
二人の交わした約束が、長い時を越え、再び動き出そうとしていた。
その約束がいずれこの世界を巻き込む物語となるとは、まだ誰も知らないのだった───。