自己紹介は突然に
ディックの住んでいる館は静かな丘の上に建っている。人よりも羊の数のほうがはるかに多い土地だ。
体の弱い彼のため両親が少しでも空気がよいところをと街中の館から田舎の館に居を移した。すでに五年以上はこの館でディックは暮らしている。
田舎の利点はなんと言ってもとにかく土地が広いところだろう。おかげで広々とした館が建てられる。
決して街中にあるハイネル家の館のように稀代の建築家が手懸けた豪華なものではないが、ディックは質素ながらの己の手で車椅子が操れる広々とした廊下とした廊下をもつこの館を気に入っている。狭ければこうもいくまい。
目的の部屋まで少し時間が掛かった。何故かハイネル家の執事のコルネーリアが、客人の部屋をディックの私室から一番遠くにしたせいだ。
そのことにディックが不満をもらすと「ディック様の身の安全のためです」とぴしゃりと跳ね除けられてしまった。何が危険なのだろうかと首を傾けると「肉色の書物が・・・」とわけのわからないことをコルネーリアはぶつぶつ言っていた。疲れているのだろうか?
とはいえ、多忙なコルネーリアの目を盗んでこの二日の間にディックはたびたび客人のもとを訪れていた。
扉を数度叩く。
返事がないのはわかっているのでディックは車椅子を上手く操作してそのまま中に入っていった。
華麗さはないが、人の温かみを感じるデザインの家具が並ぶ部屋に、客人は寝かされている。
ディックとはちがう黒檀のように真っ黒い髪をした人の良さそうな顔立ちの少年だった。年のころはディックより上なくらいだろう。亡くなった年かさの兄ほどはいってはいまい。
ハイネル家お抱えのエイクマン医師の話ではそろそろ目が醒めるころだ。
だが、こうも長く眠っていると、本当に生きているのかとディックは不安になった。
不意に少年の目蓋が持ち上がった。
「あ・・・、目を覚ました・・・」
ディックは急いで使用人を呼ぶ呼び鈴を鳴らした。
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目の前でおいしそうなスープが湯気を立てている。
「えーと、食べていいってことなのかな?」
俺は枯葉色の髪の少年と赤毛の女性に確認するように視線を向けた。
こちらの発する言語に二人が首を傾ける。俺の言葉が通じていないのだ。
「あー、せめて英語ならな」
とはいえ俺はとてつもなく英語が苦手だ。
どうして世界共通語が日本語じゃないのかとこれまでに何万回嘆いたことか。次回生まれ変わるときは神様に英語圏の人間に生まれ変わらしてもらうよう頼むつもりでいる。
目を覚ますと見知らぬ部屋に寝かされていた。パニックはなかった。限りなく癒し系の外国人の少年が優しげな笑顔を向けていてくれたおかげだ。
笑顔って大事だなと思った。俺はなんとかぎこちないながらも少年に微笑み返すことができた。
軽井沢のペンションを思わせる(俺は行ったことはない。あくまでイメージだ)部屋には、木の木目が優しい家具が置かれ、窓からは柔らかい光が差し込んでいる。外に見える風景はのどかな田園そのものだ。
とりあえず、俺の命を助かったらしい。それどころか膝の打撲と手の平の擦り傷だけでどこもかしこも無事だった。
だが、記憶の通りならそんな状態ではないはずだ。最後に目に入ったのは残酷なほど巨大に思えるタイヤだった。確かに俺はそれに潰されたはずだ。
「えー、ここはどこですか? 俺は事故に合ったはずだと思ってんですけど」
《よかった。あなたは二日も眠られていたんですよ。どこか痛いところはありませんか? 今、医師を呼んでいるので少し待っていてくださいね。これはマリアの作ったスープです。おあがりください》
困ったことは、この枯葉色の髪に緑の瞳をもつ年下の少年が俺の知っている言語を使っていないことだ。彼の話している言葉が英語じゃない。
そうこうしているうちに銀髪のお兄さんが扉を蹴破らんばかりのいきおいで駆け込んできた。いや、少し蹴破っていた。
《ディック様!!!》
銀髪のお兄さんはいわゆる執事服を着ていた。黒いタキシード、いや燕尾服というのか?一男子高校生がよく知るはずもない。銀髪は丁寧にオールバックにし、縁の細い神経質そうな眼鏡が掛けられている。つくづくこの場に翔子がいなくてよかったと思う。彼女がこの場にいたら驚くどころか執事服に興奮してそれどころではなかったはずだ。
《あれほど危険ですから客人にはお近付きになりませんようお願いしたではなりませんか!》
俺にはさっぱり何を言っているかわからなかったが、銀髪の男はそう叫ぶや否や車椅子の柄を掴んで少年を俺から引き離そうとした。
それに抵抗したのは少年だ。ハンドルの部分を押さえて車椅子が動かないようにする。
《ちょっと待って。ほら、コルネーリア。僕は別になんともないよ。彼と少し話がしたいんだ》
《なりません》
《少し話すだけだから》
《いけません》
《コルネーリ・・・》
《さあ、戻りましょう》
取り付く暇もないようだ。
《コルネーリアさん》
意外にも少年に助け舟出したのは壁に寄りかかるように立っていた赤毛の大柄な女性だった。服装からしてコックだろう。美人だが、始終不機嫌そうに腕を組んでいて近寄りがたい雰囲気を感じさせる。
彼女の赤毛と同じ赤く塗られた唇からハスキーな声が零れる。
《コルネーリアさん、ディック様がそうしたいとおっしゃっているじゃないか》
すると、銀髪の執事がキッと彼女を睨んだ。
《マリア、あなたが着いていながら、どうしてディック様の身を危険にさらすような真似をしたのです。そのことについては後で言い訳をしっかりと聞きますよ。さあ、坊ちゃん》
有無を言わせず執事がこの部屋から少年を遠ざけようとする。
しかし、次に執事を止めたのは、少年自身だった。
《コルネーリア》
俺は目を見開いた。
この少年から発せられたとは思えないほど厳しい声音だったからだ。
声を荒げているわけではない。落ち着いた話し方なのに、他人を黙らせる気迫がこの幼い少年にはあった。
銀髪の男が動きを止める。
《父の後を継いだのは私だ》
まるで時が止まったかのように誰もが話さなかった。
初めに動いたのは銀髪の男だった。車椅子の少年に向き直り、その場に膝をつく。深く、少年に頭を垂れた。
《申し訳ありません、ディーデリク様。出過ぎた真似をいたしました》
少しして、少年は微笑んだ。再び彼によく似合う柔らかな雰囲気が戻る。
《僕は客人と話がしたい。他の使用人たちにもそう伝えてくれないか》
《かしこまりました》
今度は少年が赤毛の美人に視線を向けた。
《マリア、今夜の夕食は客人の分も頼むよ》
《お任せください、ディック様》
ぽかんとしていた俺に枯葉色の髪をした少年は向き直った。日本人には縁遠い若葉のような色を宿した瞳が優しく細められる。
差し伸べられた手は俺が想像した通りまだ幼いものだった。
《僕はこの領地の領主、ディーデリク・ハイネルです。お客人、貴方の名前は?》
それが俺とディーデリク・ハイネルとの出会いだった。




