出会いは突然に
かたんかたんと揺れる馬車の中で、ディーデリクは窓からぼうっと外の景色を眺めていた。
年のころは十二歳くらいだろう。新緑を思わせる鮮やかな緑色の瞳に、枯葉色の髪は少年らしく短く、顔立ちは幼いがそこに浮かぶ表情は見る者にずいぶんと大人びた印象を受けさせた。
鼠色の空からは大粒の雨が降り注ぎ辺りを暗く染め上げており、特に真っ暗な森の奥は魔物の登場を予兆させるようだとディーデリクは思った。
「ディック様、お寒くはありませんか?」
向かいの席に座っていた銀髪に色素の薄い瞳をもつ二十代後半くらいの男は、ディーデリクことディックに膝掛けを差し出そうとする。
天気が崩れたせいか、雨が降り出してから一気に気温が下がっていた。
コルネーリアはディックの父親の代からハイネル家に仕える男だ。有能で、先代の死後も執事としてよくハイネル家を支えてくれている。
ディックの父親が亡くなったのは二年前のことだ。本来ならその後継ぎはディックの兄になるはずであったが、同じ時にその兄もなくなったためハイネル家の三男であるディックがその名を継いだのだ。
「大丈夫だよ。少しぼうっとしていただけだから」
穏やかに答えて、ディックは幼い顔に笑みを浮かべた。しかし、主人の答えに納得しなかったらしい男は、ディックの半ば強引に膝掛けをかける。まるで母親のような強引さにディックは苦笑しながら再び空を見上げた。
「今日は本当に天気が悪いね」
「ええ。はやく屋敷に帰れるとよいのですが」
気がかりそうにコルネーリアも窓の外に視線をやったとき、ヒヒィンという馬の嘶きとともに突然に馬車が停止した。
「おわっ」
「ディック様!」
バランスを崩したディックを咄嗟に伸ばされたコルネーリアの腕が支える。
「お怪我はありませんか、ディック様」
「―――大丈夫だよ。それよりどうして馬車が止まったのだろう。獣でも飛び出したのかな?」
それとも夜盗か、とディックは心の中だけで呟いた。
領主として平和な領地のつもりだが、どんな環境でも悪事に手を染める人間は現れる。領主であったディックの父も常に夜盗や破落戸の対処に手を焼いていた。長閑なのが取り得のハイネル家の領地は荒くれ者にとっては刺激の足りない場所だろうが、時折思い出したように現れては細々としかし穏やかに暮らす町や農村を荒らすのだ。
「見て参ります。どうかディック様はここを動かれませんよう」
そう言い残し、銀髪の男は馬車の扉を閉めた。
「動くなって、僕動けないんだけど」
一人馬車の中に残されたディックは苦笑した。
無意識にこの寒さで痛む両足の古傷を撫でる。二年前、両親と兄姉が亡くなったとき、ともに遭遇した事故で動かなくなった足だ。おまけに気候の変化で痛んだりそうでなかったりするものだから、先ほどもそれを見越してコルネーリアはディックに毛布をすすめたのであろう。
忠実な執事が馬車に戻ってきた。雨に濡れて服は泥で汚れている。ディックがこれで拭くようにとひざ掛けを差し出したが、それを丁重に断った執事は胸元から湿ったハンカチを取り出して、水滴と泥を拭った。
「何だったの、コルネーリア?」
「・・・人でした。道の脇によけておきましたので問題ありません」
馬車の扉を閉めたコルネーリアは、御者に馬車を出すように指示する。
「そう、人だったのか―――――え、人?」
さらりと答えた執事にうっかり流されそうになったディックは我に返る。慌てて止めに入った。
「さっきの人だったの!?よけておいたって、それって意識でも失って行き倒れだったってことじゃ・・・!」
「心配ありません。意識はありませんでしたが、馬車に轢かれたようすはありませんでした」
「いやいや、そこは屋敷に連れて行って介抱してあげなきゃ!何、普通に心配ありませんとか言っちゃっているの!」
実に常識的なことをディックが述べると、コルネーリアは舌打ちしそうな顔になった。もちろん主にではない。手間をかけて行き倒れを救わなければならなくなった己の不運と面倒を掛ける行き倒れに対してだ。
しかし、主の前でそんな振る舞いはふさわしくないと思い直したのか、コルネーリアはディックににっこりと諭すような笑みを浮かべた。
「よいですか、ディック様。世の中には山賊が行き倒れふりをしてカモを誘うこともあるのです。不用意に屋敷に連れて帰っては、相手の思う壺かもしれません」
「いやいやいや、今のコルネーリオの反応からして本当に行き倒れの人だったでしょう!?馬車を止めて!」
しばらくの後、馬車の座席には泥だらけの男が寝かされていた。いや、男と呼ぶには若すぎるだろう。黒髪の下からのぞく顔つきはまだ少年という域を出ていないくらいの年齢だ。
「濡れそぼって汚れてはいますが、特に怪我はないようです。馬者の馬たちにも踏まれていません。一応、屋敷に戻ったらエイクマン医師に診ていただきましょう」
一通り少年の体を調べたコルネーリアが主人に報告する。傍らでコルネーリアがきちんと少年を診察してくれるか見守っていたディックは安堵して息を吐いた。
「よかった。怪我はないんだね」
「おそらく疲労で倒れていたのではないかと。それにしても珍妙な格好をした少年ですね。何でしょうか、この劣化した貴族のような装いは」
目の前の少年が着ているのはブレザーと呼ばれる異世界の学生服なのだが、異世界の知識のないコルネーリアが知るよしもない。もちろん彼を助けたディック自身もまだ知らなかったのであった。
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雨の中、馬車から降りたコルネーリアが目にしたのは、ぬかるんだ道に倒れる一人の少年だった。
コルネーリアは己の服が泥で汚れるのも構わず少年を助け起こした。
「きみ、大丈夫か。しっかりしろ」
すぐに御者が駆け寄ってくる。
「コルネーリアさまっ」
「馬車に轢かれたのか?」
「いえ、大丈夫です。この坊や、森から現われたと思ったら、急にバタンと倒れちまいまして」
困惑したように御者が説明する。確かに少年には大して怪我があるようではなかった。ここら辺では珍しい真っ黒な髪に、少し黄色身を帯びた肌をした少年だった。今でこそ泥だらけで汚れきっているが、肌のはりや体付きは健康そうで育ちのよさを感じさせる。
「とりあえず、屋敷に運んでエイクマン先生に診ていただこう」
コルネーリアは少年を抱え上げた。慌てて御者がそれを止める。
「コルネーリアさま、そんなことはわしがいたします!」
「いや、大丈夫だ。これくらい私が―――」
何かがびちゃりと泥の中に落ちる音がした。コルネーリアはそれを拾おうとして、己の両腕が少年でいっぱいだったことを思い出す。
「ホウ、悪いが何か落ちとしたらしい。拾ってくれないか」
へえ、と御者は泥の中からそれを拾い上げた。コルネーリアに差し出す。少年を抱えたまま、それを確認したコルネーリアはしばらく無言になったかと思うと、抱えた少年を道の脇に降ろした。
「コルネーリアさま?」
「道の真ん中に置かなかったからまだましであろう」
「コ、コルネーリアさま!?」
御者の声がコルネーリアを追いかける。先ほどの慈悲深い姿はどこへやら、この豪雨の中で道の脇によけてやっただけましだとのたまって、コルネーリアはさっさと馬車に向かっていく。
『コルネーリア、後を頼むよ』
あの日も今日のように激しい雨が降っていた。二年の月日が流れた今でも、どうして出掛けると言った主人家族を止めなかったのか、コルネーリアは後悔している。
馬車に乗る際、何気なく言ったのであろうかつての主人の言葉は、コルネーリアにとって何よりも優先すべき遺言となった。
何があっても残されたディーデリクと領地を守る。そのためにはあらゆる危険を排除する。それが己の使命だとコルネーリアは考えていた。
(あの人間はディック様にとって危険だ)
御者は気付かなかったようだが、泥に汚れていてもコルネーリアにははっきりとその表紙が見えてしまった。異国の文字なのか読み取ることはできなかったが、ご丁寧に表紙には緻密な絵が描かれていた。
(危険だ。あの肉色の書物は)
本能のようなものがあれに近づいてはいけないとコルネーリアに教えるのだった。