9.繋がる
その日の夕飯は三人分をセツと二人で食べた。無論食べきれないので、翌日の昼で全て片付けた。セツは何も聞かなかった。祐悟も何も話せなかった。
セツに返した眼鏡は左のレンズに一本、薄いすり傷が入ってしまっていた。
二日後、島に雪が降った。
「雪、降るんですね」
「何年かに一度よ。ゆうさんにとっては初めての冬なのに珍しい体験ね。……いつもは降ってもすぐにやむけど、今日はどうかしら」
セツはそう言って空を仰いだ。分厚い雪雲が空を覆い、灰白の空から絶え間なく雪が降ってくる。すぐにやむ、という雰囲気ではなかった。自分が前暮らしていた都市はここより北にあるのに、積もるような雪などめったに降らなかった。その代わり1㎝の積雪でも電車が止まったりして混乱が起きたものだった。
この島には電車自体が通ってないのでそういう心配は無いが、家は降雪向きにできていない。雪国のように降ることはないだろうが、これ以上降り続けるようなら雨戸を閉めておこう、と考え、念のため、雪下ろしが必要になった場合に備えて、物置からシャベルと竹箒を出して玄関の脇に置いておくことにした。
祐悟が外の準備を整えている間、セツは客室の雨戸を閉めて回り、食堂にろうそくと懐中電灯を集めた。
「ちょっと大げさですね」
「二十年くらい前にも雪がすぐにやまない時があって、そのときは三日間降り続いたの。あの時は停電が起きて、ガスも止まったから石油ストーブで料理したわ。この島は雪に対する備えがないし、ここは他の家とも離れているから道が通れるようになるまで一週間くらいこの家に閉じ込められていたのよ」
「今回もそうなるかもしれない、と?」
「備えあれば憂いなし、でしょう。あとで物置から石油ストーブを出してきてくださいね」
「すぐに持ってきますよ。暫く予約がなくて助かりましたね」
「ええ、その代わり月末から年始にかけては結構忙しいわよ」
「覚悟しておきます」
セツの脅かすような口調に苦笑して物置まで急ぐ。雪はどんどん勢いを増して降ってきているようだ。傘をもってくれば良かったな、と思いながら物置の奥にある石油ストーブを見つけて、ひきずって物置の外に出した。上に鍋が置けるほどの大きさのストーブだ。重くはないがかさばるものを担いで母屋まで持っていくのは骨が折れるな、と思いながらも覚悟を決めて持ち上げる。
と、ぶるるる、とズボンのポケットが振動した。あわててストーブを取り落としそうになりながら一旦置き、振動の止まった携帯の入ったポケットを上から手で押さえた。雪が降り続いている。ひとまずストーブを運んでしまわなければ。
そう思いながらも祐悟は携帯を引っ張り出し、メールを開く。
メモリにないからアドレスのままの差出人の、けれどこの携帯の番号や祐悟が設定してもいないアドレスを知ることが出来るのは一人しかいない。
『嘘つき』
メールにはただ一言だけ。
携帯を仕舞い、ストーブを運び込みながら祐悟はため息をついた。
モランは、彼女に同情し、共感した子供に救われる。子供は毎夜カンテラを掲げて浜辺に立ち、やがてモランはカンテラの明かりではなく子供の訪れを待つようになり、とうとうモランの体は温かくなり、モランの孤独は終わりを告げ、彼女はもう全てを凍らせ、不毛の大地を作り出すことがなくなる。
どうやら英司は戻って早速モランのことを調べ、その結末を知ったらしい。
ならばどうして嘘をついたのかも忖度してくれれば良いのに、と祐悟は思った。そうすれば携帯は鳴ることなく、英司の言葉を運ぶことなく、やがて祐悟は携帯を、それを置いていった人間を思い出にしてしまえることができるのに。
ストーブを食堂に運び入れ、一息つく。セツがしょうがを擦りおろして蜂蜜を入れた暖かい麦茶をいれてくれた。
「雪はどう?」
「止みそうにないですね。他に何か準備しておくことはありますか?」
「いいえ、大丈夫。今日はかもめ荘はお休みよ」
「……じゃあ、散歩に行ってこようかな。雪を見るの久しぶりなんです」
「それなら暖かくして、お夕飯までには戻ってきてね」
「はい」
セツの言葉にくすぐったくなって祐悟はちょっと笑った。それをセツがやさしい目で見ている。祐悟は、英司が去ってから苦笑や自嘲ではなく笑ったのは初めてだと気づいた。
セツはここで昔、男と暮らしていたのだろうか。
祐悟はセツが奥から持ってきたコートを渡された。古い型のチャコールグレーのコートはところどころ毛羽立っていて、そこを丁寧に補修した痕がある。それでも長い間仕舞われていたきりだったことは、コートについている樟脳の匂いで明らかだった。とはいえセツは祐悟に渡す前に風を通してくれていたのだろう。匂いはそれほど気にならない。
玄関で羽織ると、肩のあたりは少しきつく感じるが不自由というほどでもない。祐悟と似た体格の人だったのだろう。
ウール製のコートは重たかったが、着心地が良く、暖かかった。
コートの上からこれもセツが編んでくれた空色のマフラーを巻く。
散歩でも、と言ったがどこかにいく宛てがあるわけでもない。小高い丘の中腹に立つかもめ荘の脇の小道を通り丘の上まで行ってみようと思い立った。
丘の上といっても何があるわけでもない。なだらかな丘には背の低い木と雑草が生えているだけだ。木々はほとんどが葉を落としている。早くも積もり始めた雪を踏みしめるように三十分も歩いたら汗が滲んできた。上がってくる息でなおも上り続けるとすぐに頂上に出る。
海の向こうに島が点在しているのが見える。はるか遠く、肉眼で見ることはできないが島の向こうに本土もある。灰白の空はどんよりと重く、どこまでも広がっている。開放感とも閉塞感ともつかない不思議な感覚が祐悟の中でせめぎあっていた。
ふう、と上がった息を整える。
祐悟の背の二倍ほどしかない木に背を預けてコートのポケットに入れておいた携帯を開いて、瞠目した。歩いている最中で振動に気づかなかったらしい。メールがもう一通きている。
『レスが来ない』
なんだこれは。独り言なのか伝言なのかも判然としない、そしてまた簡潔すぎる文だ。祐悟は思わず笑ってしまった。一緒に暮らしていた二年間、ほとんどメールや電話のやりとりをしなかったし、あったとしても英司からの一方的な連絡メールで、返事は『はい』だけで済んでしまうようなものだった。あまり良く覚えていないが、多分それだけのレスもしていないのではないか、と祐悟は思い返す。
祐悟は暫く迷った。『レスが来ない』六文字を眺めながら、レスをすべきかどうか。何度かキーを押しては消去する。
丘を上って火照った体から汗が引き、再び冷えていく。あまりここにいたら風邪を引くだろうな、と祐悟は思った。
風邪を引く前に戻ろう、と思うのに足は動かないまま携帯に指を置いたまま祐悟は考え込み、迷いに迷った。
やがて一文、打つ。
『雪が降っています』
何かを伝えたいのか、それともただの独り言かわからない言葉。
ふ、と息をついて返信する。
英司からはすぐにレスがきたらしいが、祐悟がそれを見たのは夕食の後だった。
雪は二日間、降り続いた。
15:17『こっちは晴れてる』
20:50『とても静かです』
21:01『タカシがあんたに会いたがってる』
7:32『私が知っている人ですか?』
7:35『あんたの運転手』
9:15『彼にはご迷惑をかけました。謝っていたと伝えてください』
9:20『雨が降ってきた』
13:27『雪が小止みになってきました』
13:35『なんでそんなにレスが遅いの』
17:20『折角なので、と言ってセツさんが石油ストーブで朝からポトフを炊いています』
17:24『俺はちょっと前に昼飯した。店の近くでカルボナーラ。不味かった。レスは早めに』
20:15『雪はそろそろ止みそうです。明日は朝から雪かきで忙しいのでメールは見られないと思います。そういえばあなたは何をしている人なんですか?』
20:28『二年一緒に暮らして今更か。ホストクラブとクラブを何件か経営してるのと後色々。ちなみに祐悟さんの元オクサンの借金は俺の店で作ったもの。贔屓だったホストの名前とか知りたい?』
22:50『興味ないです。おやすみなさい』
10:23『屋根の雪下ろしを終えて、一息ついたところです。今日は晴天。明後日に一件予約が入っているので、早く雪が溶けてくれなければここまでお客さんが辿りつけなさそうです』
11:00『今起きた。昨日のメール、元オクサンって書いたのに反応がないってどういうことなんだ。言っておくけど、あんたのオクサンからあんたに渡してくれって、離婚届を預かってる。こっちは借金もあんたに返してもらったし、もうオクサンに用はないんだけど、一応所在が見つかったから祐悟さんが借金返したことを知らせておこうと思ってね。ところでこの離婚届、あんたの名前と印がすでに入ってる』
13:03『美枝が姿を消す三日前に、離婚届が欲しいというので署名して彼女に渡したものです』
13:15『どうして欲しい?』
13:50『こちらに送ってください。役所にいく用事があるときに一緒に出します』
13:58『こっちで出しておく。オクサンが今どこで何してるのかとか聞かないんだな。また興味がない、か?』
21:00『なあ、どうしたんだよ』
21:30『返事をくれ』
21:58『頼むから返事をくれ。せめてメールにくらい付き合ってくれてもいいだろう。俺はあんたに傍に居て欲しい、祐悟さんと離れたくない、金じゃない繋がりが欲しい。
俺は祐悟さんを俺だけのものにして箱にいれて仕舞っておきたい。今何をしているか何を考えているのか全部知りたい。でもそれを玩具扱いしてるってあんたが言うなら、俺は我慢したいけど多分できないからさよならをしたんだ。
でもせめて。顔も見せないし電話もしないからせめてメールだけはくれ。俺からカンテラを取り上げないでくれ』