8.カンテラ
「……苦しい。離してください」
半端な姿勢を取らされた足や背中が痛く、息も満足にできない苦しさから解放されたくて、自由になる片腕でちょうどそこにあった英司のわき腹のあたりを叩く。英司の手が緩まなかったので、もう少し強めに叩く。
「離してください」
「ずっと傍にいるって誓えば」
「ずっと? ずっとっていつまでですか」
「いつまでも」
「何ヶ月、何年? 一生なんて言わないでください。私は妻と結婚できなければ死んでしまうと思った、心のそこから彼女を愛していた、それが数年で駄目になった。まだ出会ってから十年も経っていないのに、もう彼女のことをなんとも思っていない。結婚までしたのに、彼女との『永遠』は十年保たなかった。愛していてさえそうなのに、好きでもないあなたの『ずっと』なんて、どうせすぐに終わります」
「あんたは間違えたんだ。あんな女に恋してると思い込んだのが間違いだよ、あんたは俺のものなんだから俺のことを好きになれば一生モノの『ずっと』が手に入る」
「は、はは。私はあなたのことを好きじゃない。二年間、好きになれなかった。嫌いだった、ただ怖いだけだった。そんな相手との未来なんて願い下げです。お願いだから、離してください」
もう一度、強めに叩くと首に回された英司の手が離れた。座布団の上にべたり座り込むが、掴まれた腕はそのままだ。英司の手が捕らえた祐悟の腕の、手の形を愛でるように指や手の甲、平や手首を撫でていく。
三ヶ月の労働で荒れた手だ。庭仕事や簡単な家屋の修繕などもするから、小さな傷が絶えない。英司は祐悟の手を撫で、中指の、赤い線になっている傷に顔を寄せて舐めた。祐悟は手を引っ込めようと力を入れるが、英司のほうが強い。古いものから新しいものまで傷を一つ一つ確かめるように舌でなぞった。
「っ! やめてください」
「きれいな手だったのに、馬鹿だなァ」
そういう英司の手こそが、完璧に手入れされた、傷一つなく繊細で、それでいて強靭さを感じさせる美しい手をしている。祐悟を押さえつけ、痛めつけ、地獄のような快楽に突き落とす手だ。この手に何度となく追い詰められ、追い上げられた。
今も英司の舌に触れられるたび、祐悟の息は勝手に上がっていく。刻み付けられた記憶が、そういう反応をしろと体をそそのかす。体の中を熱い蛇が通り抜けるような氷が滑り落ちるような、もどかしい感覚が支配していく。
英司が喉の奥で笑った。
「やらしい顔。抱いてやろうか」
「…嫌、です」
「抱かせて」
「絶対に、嫌」
「抱くよ」
「……っ!」
どんっ! 取られた手ごと弾みをつけて英司にぶつけるように動けば、英司の腕の力は僅かに抜け、祐悟は自分の腕を取り戻した。立ち上がり、壁際まで遠ざかる。さっき部屋から出られなかった時に、祐悟は好機を逃がした。部屋を逃げ出たら英司は追ってくるだろう。セツに心配をかけたくない祐悟には、今英司の手を逃れてこの部屋を逃げ出す選択肢は無かった。だからせめて壁を背にして、一方だけでも安全な場所を作っておく。
英司は卓袱台に腰掛けたまま、そんな祐悟を見上げた。たちの悪い笑みばかり浮かべる男だが、表情を失くした顔はぞっとするほど整っている。
「嫌です。私はもうあなたとは一緒にいたくない。借金はもう無いのだから自由にしてください」
「嫌だね。傍にいて、俺を幸せにしてくれ。あんただけが俺を幸せに出来るんだ」
「……あなたも美枝も、同じことを…。じゃあ私の幸せは?」
「俺の傍にいることだ」
「絶対に違います。私の幸せはこの島で、この民宿で、セツさんと一緒に暮らして一生を過ごすことだ」
「じゃあ婆さんを殺そう」
「っ! セツさんがいなくても、私はここで暮らします、ここにいたいんです、あなたのいない場所に」
「じゃあ俺の幸せは?」
「あなたのそれは思い込みか錯覚です。そのうちにまた新しい人が出来て、そしたら……」
「俺は祐悟さんしかいらない」
「だからそれは」
「錯覚でも思い込みでもない」
「……………。お願いですから、帰ってください」
「なあさっきのモランの話、あいつは凍えたまんまなのか?」
「…そうです」
「俺もずっと凍えたままでいろってことか」
「……明日は、帰ってください」
「キスしてくれたら」
「嫌です」
「さようなら、のキスだ」
おいで、と英司の手が伸ばされる。祐悟は暫く頑なに押し黙っていたが、やがて壁を離れて英司の手に触れる。強引に腕を引く英司が、今は何もしなかった。ただ手を握り合わせるようにして、待っている。
祐悟はおずおずと英司に顔を寄せ、唇を落とした。触れるだけの口付けで、すぐに顔を離す。
英司は薄く微笑み、卓袱台から腰を上げた。
「行くよ」
「もう船は無いんだから明日まで泊まって、」
「離してやれなくなるから」
英司はボストンを持ってさっさと玄関に向かった。玄関までついていった英司は、靴を履いてからふと思い出してバッグの中から封筒を取り出し、祐悟に渡した。
そのまま無言で民宿から出て行く。
暗紅のライダーズジャケットはもう祐悟の目に、血のようには見えなかった。声を掛けて追いかけたい。ふと湧き上がってきた、思いがけない気持ちに祐悟は動揺する。追いかけてどうするというのだろう、あのマンションに戻って、また英司に玩具のように扱われながら暮らすのか? 借金という枷もなしに今度はどれほど耐えられる? 半年か、一年か?
否、一ヶ月も耐えられはしない。
玩具として、心を殺して生きることにはもう耐えられはしない。
坂道を下る後姿が随分と小さくなり、やがて見えなくなってから祐悟はようはく、封筒の中を見た。事務用の、B4サイズが入る茶封筒だ。中には通帳とカードが入っていた。祐悟が置いてこざるをえなかった通帳だ。
それと、携帯電話。祐悟が壊して捨てたのと同じ機種、同じ色のものだった。
通帳は借金の返済額以上に使われた形跡もない。残高もそのままだ。
悲しいと思った。
その、祐悟が計算したのとぴったり合った残高が、英司との繋がりが断ち切れた証のような気がしたのだ。
携帯を開いても、メモリには誰の登録もない。英司の番号も分からない。何の為に、どうしてこれを祐悟に渡したのか。今となっては祐悟から連絡を取るのはもちろん、英司から連絡もこないだろう携帯。
初めてこの宿に来た時と同じように、祐悟は玄関先にうずくまって泣いた。
だって追いかけてどうするというのだろうか。
追いかけることなど出来ないし、したくない。
自分からあんな生活に戻るなんてまっぴらだ。
だから泣いた。一人っきりで。セツは出てこなかった。きっと選択を祐悟に委ねているからだということは祐悟にも分かった。ここで英司を追いかけるのも残るのもそれは祐悟自身の選択でなければいけないのだ。
セツさん、と呼んでみようか。と思った、あの時みたいに彼女に縋りつきたかった。
けれど祐悟は誰も呼ばず、玄関から動かず、一人で泣いた。
(俺はモランを救うカンテラを持っていない)
だからもうモランには関わらない。
英司には関わらない。そう決めたのは夏。なのに何故、まだこんなにも胸が痛いのか。
逃げたのは自分だったのに、英司のことなど嫌いなのに、何故こんなにも涙があふれるのか。




