7.モラン
ドアをあけて客を出迎えた祐悟は、外に立つ男の姿を見た。
「眼鏡、似合わないなァ」
人の神経を逆撫でする、甘いのだけれどざらざらとした声、微妙に語尾を伸ばし、上げる癖。
暗紅の革のライダースジャケットが返り血を浴びたように、祐悟の目には見えた。
逃げるか立ち向かうか、躊躇した祐悟が動きを止める。英司が捕食者の目でにやりと笑ったその瞬間、廊下の奥からセツのものやわらかな声がした。客を出迎えたはずなのに歓迎の言葉や挨拶がなかったのを不審に思ったのだろう。
「ゆうさん、お客様は?」
「あ、はい。いえ……」
セツが祐悟を呼ぶ声に、英司が不快気に眉を顰める。英司の不機嫌にいまだにびくつく自分をふがいなく思いながら、祐悟は小さな声で低く、ささやく。
「……帰ってくれ。借金ならもう返し終わったはずです」
「随分な呼び方だな。今度はババアの愛人か」
「そんなんじゃない」
「船、もうないんだろ。宿はここ一軒だけだっていうし、俺に野宿しろっていうのか」
この時期、船は午前と午後に一本ずつあるだけだ。確かに英司の乗ってきた船が最終になる。しかしそれは島々を巡る船だけの話で、船を持っている人間と交渉すれば本島へ行くことは容易いし、そういう面倒は清水がみてくれている。港に戻って清水に頼めば今からでも本島に戻り、飛行機を使えば日付が変わる前に家にたどり着くことも可能だろう。
しかし英司はそんな言葉を聞かないだろうし、漁船になど乗る気もないのだろう。
仕方なし、と祐悟はす、と体をずらした。その隙間に入り込むように靴をぬいだ英司が廊下に上がる。その、祐悟に触れるか触れないかという距離をわざとつめた英司の唇に浮かんだ歪んだ笑みを祐悟は息を止めて凝視する。英司の目はそらされることなく祐悟の目の奥を射抜く。
肉食獣に押さえつけられた獲物はこんな気持ちを味わうだろう。
祐悟はそう思った。恐怖と期待と諦念と快楽の交じり合う、死とセックスの匂いで鼻腔が満たされ頭がしびれる、永遠のような一瞬。
もう一秒でも見詰め合っていたら死んでしまう。そう思った祐悟を救ったのはセツだった。厨房で下ごしらえをしていた彼女はなかなか客が入ってこないことをいぶかしかんだのだろう。軽い足音をさせて玄関までやってきた。
そして祐悟と『客』を見て息を飲んだが、すぐに動揺を消し、唇の両端を少し引き上げて、笑みのようなものを浮かべて言った。
「とうとうモランをいれてしまったの」
「モランてなんだよ?」
「かもめ荘にようこそ。お部屋は今全部開いていますよ、庭に面したお部屋がいいかしらね」
庭に面した部屋、は廊下を挟んで食堂のすぐ向かいにある。声は聞こえないがなにかあればすぐにセツのいる厨房にかけこめる。わざわざ部屋を指定したのは、何かがあったらすぐに逃げてきなさい、という合図だろう。祐悟からしてみれば母親、といってもいいくらいの年の女性を危険な目にあわせることなどできないが、きっとセツはもしも祐悟が逃げ込めば命をかけて守ってくれるだろう。そして逃げてこない祐悟を「みずくさい」と責めるだろう。
祐悟はただ、セツの真意を了解したという証に小さくひとつ頷き、部屋に英司を案内した。
「ただの家みたいだな」
「旅館じゃなくて民宿ですから」
英司の荷物はボストンバッグ一つだけで、冬のこの時期いくら男の荷物とはいっても二泊がせいぜいだろうという大きさだった。部屋のドアから入ってすぐのところにバッグを置き、「夕食は六時から……」とお決まりの言葉をいいかけた祐悟は、部屋の中に入った英司が座りもせずに祐悟を見ているのが耐え切れず少し言葉を切ったあと、早口で説明の全てを終えてしまい、廊下にあとずさる。
それを、英司が止めた。
「なァ、なんで俺がここまで来たか聞かないのか? なんで調査員を使って行方を調べさせたのかとかさ。銀行口座もカードも置いていって、どんな風に使われたか知りたくない?」
「……別に、どうでもいいです」
「借金返し終わってるって思うんならそのとってつけたような敬語やめれば? 俺、あんたより七つ下だよ祐悟さん」
「関係、ないでしょう」
祐悟の声に英司はチッ、と舌打ちした。不愉快になる前兆。一緒に暮らしていた頃、舌打ちの後はたいてい手酷い暴力が待っていた。竦みそうになる足を叱咤して踵を返すと、一歩も進まないうちに部屋から出てきた英司に腕を掴まれる。ぎりぎりと腕がきしむような力。そのままぐい、と引っ張られて部屋の中に戻される。
予約があっても無くても毎日掃除する部屋、今朝も窓を拭き、掃除機を掛け畳を雑巾がけした、毎日見慣れた部屋が今は見知らぬもののように見えて祐悟はぞくりと背を震わせた。
部屋の中央に置かれた小さな卓袱台に向かい合うように揃えた座布団の上に座らされ、卓袱台の上に英司が座った。腕は英司にとられたままで、上を向け、というようにひっぱられる。
「そこは、座るところじゃないですよ」
「似合わない眼鏡。変装のつもりならもう取っちまえよ。もう手遅れなんだから」
酷いことを、と思わず顔を上げたところで眼鏡のブリッジを挟むように指が伸び、無理やりむしりとられた。英司はそのまま眼鏡をためつすがめつしている。
「や! ちょ、やめてください。返して」
「古いな。『セツ』から貰ったものか?」
「借りたものです。だから」
「ふうん」
面白くなさそうな声で相槌をうち、英司はそのまま眼鏡を部屋の隅に投げ捨てた。畳敷きだからガラスレンズも無事だろうとは思うが、擦れ傷くらいはついただろう。眼鏡の行方を目で追い、取り戻そうと立ち上がりかける祐悟の腕を再びぐい、と引いて英司は祐悟の顔を覗き込むようにして眉をしかめた。
「ここに、眼鏡の痕が残ってる」
そういいながら鼻の付け根を撫でる。もともと自分の為に調整したものではないからパットが当たる部分が少しきつく、赤く痕になってしまっている。
「離してください」
「モラン、て何?」
「……本に出てくる魔物です。あまりに大きな冷たい孤独を抱えているので、歩いた場所は凍り、座ったところには草木も生えなくなると恐れられている……っ!」
頬を平手で張られて祐悟はよろめいたが、腕を掴まれたままなので倒れずにすんだ。その代わりに痛みは大きい。
祐悟を叩いた手が、そのまま首の後ろに回り、中途半端に伸び上がるように持ち上げられた。卓袱台の上に腰掛ける英司の胸元に引き上げられて抱きしめられる。
抱きしめる、というよりはすがりつく、といったほうがまだ適当だ。おぼれている人間のように闇雲に力が入っていて、祐悟は息が苦しくなる。
耳元に、英司の鼓動が聴こえた。鼓動は少し早い。服に染み込んだ香水と体臭の混じった匂い。馴れた、けれどもう忘れたと思っていた匂いが鼻腔から記憶を刺激する、まだ何も忘れていないと記憶が叫んだ。
「俺が孤独だというのなら、傍にあんたが居ろ」
英司の低い小さな声。
『わたしがいままで開いた声のうちで、一番さみしいもの』、祐悟は思った。
『わたしがいままで聞いた声のうちで、一番さみしいもの』は、ムーミンパパがモランの声について語った言葉です。