6.島の生活
男は三日後にまた来て清水の言葉を聞いて帰ったらしい。名刺を置いて。清水から受け取ったその名刺には知らない名前と、調査会社の名前が印刷されていた。
『なんでこんなとこに来たのか聞いたら、船に乗るところを見たって話があったっていうんだよ。ここに来た時、あんた目立ってたからね。見慣れないのが来たらそっちに連絡を入れるけど、暫くは気をつけなよ』
清水はそう言って電話を切った。この島に来る船はバスのようにあちこちの島を回る。乗船したところを見たところで、どの島に降りたかまでは分からないだろう。停泊する島を回ってもはかばかしい返事は戻ってこなければ、情報は間違っていたものと判断され、ここは安全な場所になる。
そう思いながらも祐悟はざわつく心を抑えられないでいた。恐怖なのか期待なのか、自分でも分からなかったが。
「ゆうさん、これを掛けてみて」
セツから黒縁の眼鏡を渡されたのは、清水から電話をもらった夜のことだった。新しいものではない。フレームには細かな傷がいくつかついていた。差し出されるままに掛けてみると、レンズには度が入っていなかった。
「伊達眼鏡ですか?」
「ええ」
差し出された手鏡に自分の顔を映すと、確かに太めの黒縁にばかり目がいって顔の造作はあいまいになる。この島に来て以来髪は上げることもなくおろしっぱなしなので、年をくった学生のようにも見えた。
今まで眼鏡などかけたことがないので、鏡の中の見慣れない自分が困惑顔をしている。思わず微笑んだ。
「お借りします。もしかして俺のために度なしのレンズに入れ替えてくれたんですか?」
「それは最初から度が入っていないの。昔のものだから傷も多くて……レンズが曇っていないかしら」
「大丈夫です。でも慣れないから、なんだか違和感がありますね」
「中の仕事や一人で部屋にいるときはいいけれど、なるべく掛けた方がいいと思うわ。それに、良く似合ってる」
「そうですか?」
「ええ」
うなずいたセツはもともとの持ち主のことでも思い出しているのだろうか、遠い目をしていた。その顔に悲しみや悔恨があればすぐに眼鏡を返すべきだと思った祐悟だったがセツの顔は穏やかで、昔何があったにせよそれはもう彼女の中で消化されているのだと分かり、祐悟は素直に眼鏡を受け取ることにした。
「俺も、セツさんみたいにここを居場所にして静かに暮らしたいな」
祐悟が呟いた言葉に、セツは老いた顔に美しい笑みを浮かべた。
「そういうことはね、ゆうさん。夏のシーズンを経験してから言うものよ」
「夏まで、ここにいてもいいんですか?」
「あなたが望むならいつまでだって」
「一生でも?」
「もちろん、一生でもよ。ふふ、でもなんだかプロポーズをされているみたいな言葉ね」
「セツさんと結婚か。いいですね」
「大分年上女房ね。なにしろあなたのお母様より年上のはずよ」
「それも良いですね、セツさんの子供になったら幸せだろうな」
「……どうかしら。私の子供だということを恨んでいる人もいるかもしれない」
セツの声が僅かに低く、湿り気を帯びた。祐悟は身構えて話の続きを待ったが、セツはそれ以上話をする気はないようだった。口をつぐみ少し自分の中に沈み込むように沈黙したあと、不意に顔を上げて微笑む。
「ゆうさんが私の子供になってくれたら素敵ね」
もの柔らかな響きの声に潜む真意が分からず祐悟はあいまいに笑い、「そうしたら明日から母さんて呼んでもいいですか?」と冗談に言って「大歓迎よ」と返され、その日から祐悟は、セツのことを時々「母さん」と呼ぶようになった。
祐悟が島に来てから三ヶ月近くが経ち、暦は十二月に入った。
不審な男はそれきり現れず、暫くの間自室の机の引き出しに仕舞われ、ぼんやりと眺めることもあった名刺もゴミになった。ここに来るとき着ていた夏用のスーツや服は箪笥の奥深くに仕舞われ、今では島で買った服ばかり着ている。
雪こそ降らないが島はそれなりに寒くなる。とはいっても厚手のセーター一枚で外で過ごせる冬は、祐悟の知る冬とはやはり違う。祐悟の指は時折、英司の用意したコートのぬめるようなカシミアの触感を思い出すが、そのたびにセツの編んだ、目の詰んだセーターに触れて指先の記憶を上書きしていった。そうしていればいつか指先に残った記憶は消えると、祐悟は信じていたし願ってもいた。
この島にはかもめ荘のほかにもあと二つある民宿がある。港にも近く、部屋数の多いその二つは夏が終わり、十月の初めになると早々と冬季休業に入った。他の島も大体同じようなものだろう。冬場は海水浴はもちろん出来ないし、海が荒れて船が欠航することもしばしばだというから、週末を利用してやってくる家族や若いカップルには不向きだ。ぽつぽつとやってくる釣り客や避寒客がメインになるが予約の入っていない日の方が多く、客はたった一人という日も増える。むしろ休業したほうが経済的だが、かもめ荘は冬季休業はしないとセツは言う。
「冬には冬にしかこられないお客様がいらっしゃるから」
セツがそう言うのを聞いて、祐悟は学生時代に読んだ本を思い出した。北欧の作家が書き、何カ国語にも翻訳されている童話。その中の一冊に出てきた、触れるもの全てを凍らせてしまう女性。女性といっても挿絵では大きな影のような、恐ろしげな化け物の姿をしていた。
「まるでモランですね」
「いやね。冬にしか都合がつかないお客様、という意味よ。……ねえでも、ゆうさんは、モランが来たらどうする? 心のうちの孤独があまりに深すぎて触れるもの全て凍らせてしまうモランが来たら、扉を閉めて知らん振りをする? それとも凍えるのを承知で扉を開ける?」
「俺は………」
「すぐに答えては駄目よ。よく考えて」
「考えるまでもない。俺は逃げてきたんです。触るもの全て凍らせる手に触れられて、俺は壊れた。俺の家庭、俺の生活、俺の心と体、全て壊れた……悪魔のようだと思った。でもあれはモランだったんだ…」
暴力もセックスも祐悟には区別がつかなかった。痛みも快楽も適量を超えてしまえばただの刺激だ。英司の全てが怖かった。
それでも暴力よりもセックスよりも、甘えたように身を寄せてくることや、触れるだけのキスをしてくるような時のほうが怖かった。
英司という恐怖に慣れる頃には、感覚は全て分厚い膜越しのように現実から遮断されていた。味覚や触覚は鈍く、目に映るものも聞こえるものもたいした意味を持たなくなったがそれでも、ささやくような口付けを落とされるたびに身が震えたし、腰に腕を回され抱き込まれるような姿勢でただ眠る夜は全身の神経がそばだった。殴られたほうがマシだと思った。
離れまいとする腕に宿る子供の寂しさ。落とされる唇のすがるような孤独。そんなものを味合わされるより、圧倒的な支配者として身勝手に振舞ってくれるほうがずっとマシだった。
「モランを哀れんで扉を開けたら、凍ってしまう」
「ええ、分かっています。大丈夫ですよ母さん、俺は決して扉を開けない」
「急いでは駄目よ、ゆうさん」
「酷いな、俺に凍って欲しいんですか」
「さあ。ゆうさんには幸せになってほしいけれど」
「じゃあここにずっと置いてください。ここにいることが俺の幸せだ」
セツは薄く微笑み、もう一度噛んで含めるように「急いでは駄目よ」と言った。
祐悟にはセツの言葉の意味が分からなかった。急ぐもなにも、もう結論は出ているのに、と。
十二月も終わりに近づいた日。清水からかもめ荘に電話があった。予約は入れていないがどこか泊まるところを探しているというのだ。
かもめ荘にとって、二週間ぶりの客だった。