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幸いを願う心  作者: 粗目
5/10

 5.かもめ荘





 かもめ荘は平屋の、四畳半と六畳の部屋が三つしかない小さな民宿だった。看板がなければ民家だと思うだろう。小さな島の、小さな庭のある小さな民宿。初めて玄関先に立った時、郷愁というには明るい、からりとした懐かしさを祐悟は覚えた。


 主はセツという名の女性だ。六十代は超えているだろうが、白い髪をきちんと結い上げ、小柄ながら背がすっくと伸びている。島の人々が話す言葉ではないが、どこのとも知れない僅かな訛は語尾を柔らかに響かせた。


『いらっしゃい』

 そう言われて微笑まれた時、祐悟は理由もわからず玄関先で声を上げて泣きだした。セツは祐悟を食堂に連れて行き、厨房で夕食の支度をしながらずっと傍にいてくれた。

 暫くして涙が落ち着いてから祐悟は久しぶりに、何も聞かれず何も言われないことの心地よさを思い出し、食事を作る音や、鳥や虫の声がある日常を思い出した。英司のもとで忘れていた音だ、いやもっと、美枝と結婚していた頃には忘れかけていた音。そんな当たり前で尊いことを、セツはあっという間に祐悟に思い出させてくれた。

『顔を洗ったら手伝ってくれる?』

 そう言われて、何でもしようと思った。


 着いたその日から客室の一つは祐悟の部屋となり、名前の他はなにも聞かれず、腰を痛めたセツに替わって布団を干し、掃除をし、庭の草むしりや買い出しをした。

 最大のシーズンである夏はすでに終わっており、客室がすべて埋まることはなかったが、けれど一週間以上一人の客もこないというわけでもない。

 毎日なにかしらやることはあるが、忙しくて手が回らないということもない。その「ちょうど良さ」は祐悟の肌によく馴染んだ。

 

 料理を目当てに泊まる客もいるのだという、だから料理だけはセツが作る。厨房に立つセツを手伝って配膳や片づけをする祐悟を「息子さん?」と聞く客もいたが、セツはただほほえみを浮かべるだけに留めた。そういう仕草が似合う上品さがあった。



 夜九時過ぎ。厨房の片づけを終えて民宿の食堂でセツと向かい合って遅い夕食をとる。そんな時交わされる会話は毎日ほとんど変わらなかったが、心地よさに満ちていた。

 

「ゆうさん、これもお食べなさい」

「育ち盛りはとっくに過ぎているんですよ」

「そうねえ。でもゆうさんは痩せすぎですよ」

「セツさんのおかげで大分肉がつきました」

「体力を使う仕事ですからね、もっと食べて力をつけなければね」


 初日に祐悟さん、と呼ばれた時に思わず怯んださまをみて、それからは「ゆうさん」と柔らかに呼ぶセツは親鳥のように、祐悟が食事をちゃんととっているか心配する。もともと量の入らない祐悟は毎食苦しくなるほど食べ、この島に来た二ヶ月前に比べて体重が少し増えた。

 セツに「病人だと思った」といわれた顔色も良くなり、秋になっても日差しの強い気候に肌も少し焼けた。祐悟はもう鏡の中に自分の顔をみても荒廃を見つけることがなくなった。

 

 食事を終え、食器を片づけると普段は同じテーブルで帳簿の確認に入る。



 けれどこの日、祐悟が席に戻ってもセツは帳簿を閉じたままだった。帳簿のかわりにファックス用紙が一枚置かれている。

 それをみて祐悟は音をたてて血が下がるのを感じた。A4の紙の中央にいつ撮られたのかも分からないけれど隠し撮りだということははっきり分かる、斜めを向いて誰かと話している顔のアップを写した写真。ファックスの粗いモノトーンとはいえ自分の顔を見間違えるはずがない。


「な……」

「今日、漁港の清水さんから届いたの。ゆうさんに似た写真を持った男が来たと。男はまた来るといって写真をおいて船で戻ったそうだけど。清水さんはあなたが島に来たときにここを紹介したでしょう。だから」


 言いかけて言葉を切ったセツは、ファックスに視線をおとしたまま顔色を青くしている祐悟の、テーブルの上に置かれたままぶるぶると震える手の上に自分の手を重ねた。


「写真は他人の空似、なのね」

「そう……です」

「清水さんにはそう言っておきます。あの人は上手く処理してくれるわ。けれど念のために、しばらく家の外に出ない方がいいわね」

「ご迷惑を……申し訳ありません」

「私はゆうさんがいてくれて助かってますよ。それに、ここはそういう島なの。不思議と、居場所のない人がやってくる島」

「居場所のない、」

「だからあなたのことも皆詮索しない」

「セツさんもそうやって島に来たんですか?」

「ええ」


 それきりその話は終わり、いつもの晩のようにセツは帳簿の確認を始めた。

 祐悟はそれに付き合いながらも、漁港に現れたという男はどんな姿だったのか聞きたい気持ちを押さえていた。

 聞いて何になるというのか。もう二度と戻るつもりはない。英司のもとにも、かつて美枝という女性と結婚していた過去の自分にも。この島でセツから『ゆうさん』と呼ばれる男として一生を終えるつもりだった。セツは居場所をくれた。救ってくれた。彼女の恩にどうやって報いることが出来るのかわからないほどだ。

 英司はなぜ自分を探しているのだろうか。自分の思い通りにいかなかったことに苛立って祐悟を探すかもしれないと予想はしていたが、すぐに飽きると思っていた。もう二ヶ月も経っているのだ。英司はとっくに自分のことを忘れて新しい玩具か愛人かそれとも恋人か、ともかくそんなものを見つけているだろうと思って、安心していたというのに。

 もう過去のことだと思ったからこそほんの少し、胸の底が焦げるような寂しさを感じていたというのに。


 

 けれど、またその男が来たとしても清水が上手くごまかしてくれるだろう。何かの根拠があるのかそれともあてずっぽうかまさか日本中探しているのか、どちらにしろ「ここにはいない」と言われれば二度と探しにこないはずだ。もう一度男がやってくる間、そしてそれから暫くの間、かもめ荘から出ないようにすれば良い。多少不便にはなるが食料品や日用品は配達してもらえばいい。どうせ暫くの間だ。それが終われば、今度こそ一生、この島で穏やかに暮らせるだろう。


 祐悟はそう信じながらも不安と、何故という思いに悩まされ朝まで眠れず、この島に来て初めて寝坊してセツに起こされた。




    △  △  △




 経営するクラブの支店が開店することになり、今日は朝から支店を任せるマネージャーと最後の打ち合わせや店の最終チェックをし、夕方からはオープニングイベントとパーティに参加し、スタッフの動きや客を見て閉店後にまたマネージャーとミーティングをした。家を出たのが朝七時で、出張先のホテルに戻ったのが午前二時。いい加減疲れたが、英司は毎日の習慣通り、祐悟の運転手をさせている男の携帯に電話をかけた。午前二時ならば店の片付けも終わった頃だろうがまだ眠っていないだろう。

 案の定呼び出し音はすぐに男の声に代わった。


『20:18にお迎えに上がって、20:52に部屋の前までお送りしました』

「何を話した?」

『エイジさんが明日まで戻られないということだけです。夏バテなのか少し放心されていたようでしたので…』

「わかった。……アフターか?」

『すみません、うるさくて。明日のお迎えもいつも通りです』

「ああ、頼む」


 電話の背後で女の声がしていた。それを宥めながら電話をしていた男は言い訳に必死だろう。ホストとしては使えなさそうだったから運転手をさせていたが最近売れ始めてきた。そろそろ別の運転手を見つけなければならないだろう。頭の中で何人か使えそうな人間をリストアップしながらシャワーを浴び、寝支度を整える。ベッドサイドに置いていた携帯を無意識のうちに手にとっていた。マンションの電話からも、祐悟の携帯からも着信やメールはない。もともとよほどの用事がなければ電話もメールもしない男だ。それでも今日は何度も確認してしまうのは、期待していたからだ。

 英司はわざと今日帰らないことを言わなかった。人づてにきいた祐悟がなにか反応を示してくれるかと、何度も携帯を確かめた。

 期待をしていた。そしてまたしても期待は裏切られた。この時間だ、今日も仕事のある祐悟はもう寝入っているだろう。

 

 英司は携帯をベッドサイドに置き、ベッドに寝転がった。ダブルベッドは英司が両手を広げてもまだ余裕がある。狭いベッドは嫌いだ。けれど祐悟の眠る狭いシングルベッドにもぐりこむ時ばかりは狭さが良かった。どうしても体がぶつかる。体を重ねるようにしないと二人で眠れないという必然がある。

 二日も聞いていない祐悟の声や体の感触を思い出して英司はやるせなくため息をついて寝返りを打った。早く帰って、祐悟に会いたかった。



 まるで馬鹿みたいな一目惚れ。あの夜、ありえないほど簡単に、祐悟の姿が目に入った途端に欲しくなった。好きになったわけではない、欲しくなったのだ。祐悟を見た瞬間、これは俺のものだと確信した。正体も分からずにただ足りないと思い、餓えてきた心が、足らなかったのはこの男だと歓喜の声を上げた。

 俺のものだというのに、ホストに入れ込んで借金を重ねた挙句に逃げ出すような女と結婚までしていたなんて許されない過ちだと思った。苛立ちと愛おしさと嫉妬と欲で頭がおかしくなりそうだった。

 それは今も変わらない。

 変わらせてくれない、祐悟が。

 何でも好きにさせるくせ、心から英司の存在を否定し、無関心という手段で英司を拒み続ける祐悟が。

 


 それでもまだ時間はある。英司はそう思っていた。借金の返済が終わるまで、あと二年はたっぷりある。その間に、今までの二年間では出来なかったけれど、残りの二年で自分は英司のものだと祐悟が気づいてくれれば彼は英司を愛してくれるだろう。それで自分は幸せになれるはずだと英司は信じていた。

 祐悟に愛されなければ、幸せはない。

 

 祐悟のことを考えるとたまらなくなってくる。殴りたい抱きたい甘やかしたい甘えたい。今日、戻ったら会社からの迎えは自分で行こうと英司は思った。幸い週末だ。そのまま車でどこかに行っても良い。車の中で抱きたい。嫌がるだろう祐悟を想像して英司は笑みを浮かべた。早く帰りたい、と強く強く思った。




 ホテルをチェックアウトして昼過ぎにマンションに戻ってきた英司を出迎えたのは、祐悟の靴だけが無い下駄箱。生活感がなくなるまで掃除された部屋。隅に置かれた四つのゴミ袋。そしてキッチンテーブルの上の、そっけない借金を完済したことを告げるメモ。


 それらは、英司の世界から幸いが消えたことを顕示していた。



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