4.ゴミ袋四袋分
迎えにきた男から英司が明日の昼まで戻らないと聞いた時は、運命めいたものを感じた。その日に引継ぎがすべて終わったのだ。明日は挨拶と、私物を処理するだけだった。
自分で饒舌だといった男は今日もよく喋ったが、祐悟は相づち程度にとどめていた。この男と話した内容はすべて英司に筒抜けなのだ。饒舌に乗せられて下手なことを言ってしまえば、報いを受けることになる。
マンションに戻り、一人きりの部屋で持っていかない服と靴(それは明日着ていくスーツ以外のすべてだった)を畳み、ダンボールが無かったのでゴミ袋に入れて、少しおかしくなった。処分した荷物は全部でゴミ袋四つ。
それは二年前、この部屋に連れてこられた時に持ってこられた荷物と同じだった。
そのままゴミに出したかったが、明日は回収日ではないので部屋の隅に積んだ。捨てるくらいはやってもらえるだろう。
クロゼットも靴箱も片づけ終わり、ベッドリネンと今日着たシャツを洗濯する間に部屋を掃除する。狭い部屋を掃除するのは、フローリング磨きまでしたが大した時間はかからなかった。手持ちぶさたで待っていた、乾燥まで終えたリネンを畳み、クロゼットに仕舞う。シャツはゴミ袋に入れた。
すべての片づけを終えると、元々寝る為だけの部屋だった場所はわずかの人の痕跡さえ無く、むきだしのベッドマットが部屋の無機質を際だたせた。
ぼんやりしていると、いつのまにか空が白んできた。徹夜した疲れは体の芯に鈍く溜まり食欲もないままダイニングテーブルに座り、便せんを前に呆然と、けれど真剣に考え込んでいる。
何と書こうか。
それとも何も書かないか。
言いたいことは限りなくあるような気がしたし、何もない気もした。恨み言も呪いも別れの言葉も、感情から出る言葉すべてが嘘で真実立ったから、便せんを文字で真っ黒にも、あるいは一文字も書かずに真っ白にでもできるが、一旦書き始めたら言葉は尽きないだろうという気がして書き出せない。
結局、支払われた退職金の金額と、それがすでに口座に振り込まれている旨だけを書いた。完済してもわずかばかり退職金が余るが、適当に処分してくれ、と付け加える。
そこまで書いたらもう、なにも書く気がなくなった。
口座を開いたままで行くのは不安もあったが、通帳もカードも取られたのだからどうにもできない。
手紙を書き終えて一時間後、迎えにきた車にいつもと変わりない顔で乗り込む。もっとも朝の男は眠気に負けないようにするのが精一杯で、後部座席を窺う余裕もないのが常だった。男は今日も眠たそうな顔をしている。
いつもよりもこざっぱりした格好をしている。
「昨夜泊めたアフターの客、部屋に待たせてるんですよ。朝飯とか作られてるんだろうな、うぜえ」
心底嫌そうな顔でぶつぶつとこぼす。男が、祐悟を迎えに来る為にホテルなどを使わず自分の部屋を使ったことは想像がついて申し訳なくなった。
「英司がいないと分かってるんだから、迎えに来てくれなくて良かったんですよ、昨日ちゃんとそう言えば良かったですね」
「冗談じゃない。そんなことしたらエイジさんに殺される」
「まさか。ああ、そこで良いです。ありがとうございました」
会社の一つ手前の交差点近く。ちょうど信号で止まったのでそこで降りた。よくあることなので男は一つうなずいただけだった。
信号がかわるのを待ちながら走り去っていく車を見送ってふと、自分がいきなり姿を消したらあの男は責められるんだろうか、と思う。ただの玩具の一つや二つ、英司にはどうでもいいものだろうがそれでも、自分の手で捨てなかったという理由だけで機嫌を損ねることは十分あり得る。八つ当たられるとしたら、英司以外で唯一祐悟と接点のあったあの運転手だろう。
申し訳なさを感じながら、しかし祐悟は男に何も忠告しなかった。
二年前の自分ならば、忠告をしただろうか、と思いを巡らせたが、以前の自分がどんな人間だったか、もう思い出せなかった。
挨拶を終え、数少ない私物は全て会社で捨てた。ロッカーにしまっておいた分と、経理で受け取った日割りの給与を合わせて三十万弱。それを通勤鞄に入れ、数日分の着替えの入ったバッグを肩にかける。大学を出てから十数年働いた会社だったが、辞めてもなんの感慨もなかった。自分はたぶん、冷たい人間なのだ。この二年人付き合いを止めさせられたとはいえ、十数年勤めた会社を辞める時、個人的に挨拶しておきたい人間も、仕事の手を休めて挨拶に来る人間もいないのだ。
会社の外に出るとまだ昼にもなっていなかった。
祐悟は学校を早退した生徒のような後ろめたさや高揚感を感じながら、新幹線の出ているターミナル駅に向かった。
修学旅行以来行ったことのない地名に誘われて京都行きの新幹線に乗った。平日の昼前、自由席でも余裕をもって座れる。
昨夜の寝不足を補うように、座席につくと出発も知らずに眠ってしまう。
一度、携帯の着信音で目をさまして無意識にスーツのポケットをさぐったがそこには何もない。
ああ、駅で捨てたんだっけ。
それを思い出し、小さな機械一つ失ってもっと大きなものを無くしたような不安を感じ、ああこの不安が自由だと思いながら再び眠りにつき、目覚めたのは京都駅につく直前だった。
しかしなんとなく京都で降りる気になれず、そのままさらに南行きの新幹線に乗る。
乗り込んだ電車でも終点についてしまった。名前は知っているが来たことのない土地だ。
日が暮れたこともあって一旦降りたが、ここに腰を落ち着ける気にはならなかった。本屋で適当に旅行雑誌を買い込み安いビジネスホテルに飛び込みでチェックインした。
狭い部屋で雑誌を広げる。観光や美食に興味はなかったので適当にめくっていたのだが、ここから船で行く島の風景写真が気に入って、明日はここにいこうと決める。
風呂に入ってベッドに寝転がる。スプリングのおかしいマットレスは寝にくそうだったが、あの部屋のベッドでなければ何でも良かった。
時計は午後八時を指している。英司はもう部屋に戻っただろうか。部屋に戻っていなくても携帯が通じないことで、祐悟の不在を知るだろう。
どんな反応をするだろうか。思いめぐらすが二年経っても英司のことは分からない。否、分からないように、してきた。興味を持たず余計な話をせず、ただ酷い目に合わないように顔色だけ窺って、それでも振るわれる暴力に、やっぱり英司のことは分からないと、それだけで過ごしてきたのだ。
思えば英司の名字も、どころか英司というのが本名なのかどうかすら知らなかった。
そう思い至って祐悟は喉の奥で笑った。するすると涙が落ちたが何故なのか自分でも分からなかった。
□ □
翌日、船をいくつか乗り継ぎ最後は漁船を観光船に作り替えたような船で、小さな港に降り立った。もう秋だからかもともと観光客は少ないのか、船から降りたのは十人に満たず、地元の人間なのか慣れたツーリストなのかも分からぬ人々のなか、スーツなのは祐悟だけだ。
視線を感じていたたまれず、祐悟は港に立つ小屋に足を向けた。おそらく待合所なのだろうがさびた看板に「観光案内」とかいてあったからだ。
中には小さなカウンターがあり、潮焼けした中年の男が一人座っていた。船のチケットを売っているのだろう。その男以外誰も居なかったので、宿を紹介してほしい、と言った。
男は椅子に座ったまま祐悟を睨みつけるように見上げ、いくつか置かれたパイプ椅子を顎で示す。大人しく座ると、予算などの希望もきかずに電話を始めた。すぐに話はまとまったらしく、男は手描きの地図をもって祐悟のそばにきた。
「ここの、かもめ荘って民宿に行ってください。ばあさんが一人でやってるとこだが腰痛めて手伝いが欲しいらしい」
「え、あの」
「三十分もあるけばつきますから」
訛の強い聞き取りづらい声だったが言いたいことは分かった。やはりどうみても旅行者には見えないらしい祐悟を、けれど詮索するでもなく宿、というよりも当面の居場所を作ってくれたのだろう。
祐悟は感謝して言われるまま地図を片手に小屋を出て歩きだした。歩きだしてすぐに、地元の人間の三十分は信用できないと思った。地図上では民宿までの三分の一くらいにある目印に、歩いても歩いてもたどり着かない。
結局祐悟がかもめ荘に着いたのは、地図を渡されてから二時間後のことだった。