3.転機
そのまま。具体的な言葉がないままに祐悟はそのマンションに住むことになった。英司の気が向いた時には英司のベッドで、放って置かれるときは宛がわれた部屋で眠る生活。
英司のセックスは乱暴だった。否、乱暴、とは少し違う、執拗に丁寧に、けれど容赦なく痛みも快楽も与えられる。気まぐれな男は口付けも殴打も同じように与える。
最初の二、三週間祐悟は英司の姿におびえその声に吐き気を催したが、そのうち暴力もセックスも同じように享受することに慣れた。
とはいえ体がつらいことは変わらないので、以前のマンションよりも会社に近いことだけがせめてもの救いか。
英司は、借金取りとしては律儀な男だった。生活費がかからないのだから、と給料は口座ごと入るそばから返済に充てられてしまったがそれは不当に天引きされるようなこともなく、きちんと返済に回されている。昼食費などのこまごまとした出費の分は毎月数万円、返済分から抜かして渡されるが、もともとあった祐悟の貯金やマンションや家具を売り払った金を合わせると、金利は常識はずれに高いが、それでも案外早く借金は清算できそうだった。
会社のトイレで祐悟は鏡に映った自分をとらえ、すぐに正視に耐えずにうつむいた。英司と暮らし始めてからもうすぐ二年。最初の三ヶ月で体重は五キロ以上減った。スーツが体に合わなくなり、直して着るほど良いものではないのですべて捨てた。あの時は、男の服など何が愉しいのか、英司は何着もスーツを誂えた。セミオーダーやオーダーでスーツやシャツを買い与え、「これ以上痩せるのも太るのも駄目だ」と命じた男に逆らうことは出来ずに、だから祐悟の体型はその時から変わっていない。放っておくと食べられずにどんどん痩せていくのを無理やり食事を取るようにした。美味いも不味いもなかった。祐悟の舌が味覚を感じられなくなってからもうずいぶん経つ。
(酷い顔だ)
そう思って唇が歪む。顔に傷や痣があるわけではない。それでも祐悟の目には己の荒廃がはっきりと見えた。当たり前だ、二年の間、まるで軟禁されているような生活が続いている。借金を返さなくてはいけないから会社は「行かせてもらってる」。けれどそれ以外、祐悟に自由はない。会社への往復は英司が手配した男か英司自身が車で送迎するし、飲み会などへの参加は許されない。友人や親類に自分から連絡することも禁止された。
ただの街金会社の人間が二十代で買えるほど英司の住んでいるマンションも送迎に使われる車も安くない。そのくらいのことは祐悟にも分かるがだからといって、それならば英司はどういう人間なのだということを運転手や、まして英司に追求したことはないし、強いて考えないようにもしていた。そうでなければ平静を保てない。
得体の知れない人間、しかも自分より七歳も年下の男に玩弄される生活。そんなものを二年も続けていて、まともな精神のままで過ごせるわけがない。
(それでも、もうすぐだ)
一昨日、祐悟は会社に辞表を出した。景気の低迷で社内で早期退職が勧奨され、そのプラグラムに乗った形だった。会社が想定していた年齢ではない祐悟は上司から引き止められたが、気持ちは変わらなかった。退職金を前渡してほしいと頼むと上と相談しなければと言われたが結局祐悟の要求は通った。あと二週間、引継ぎが終わった祐悟の退職に合わせて振り込まれる退職金で借金は完済される。
会社を辞めなくても、あと二年あれば完済できるだろう残金だった。けれどその二年が、祐悟には待てなかったのだ。
少しずつ準備はしていた。毎月渡される金を少しずつ貯めていたし、どんなつもりなのか英司から時々渡される「小遣い」を、つき返したい気持ちを押し殺して受け取っていた。万が一のことを考えて、口座は開けなかったから会社のロッカーに現金を隠し、家から少しずつ服も持ってきていた。
ここまでしなくても、借金を返せば英司との関係も当然終わるだろう。あの部屋は追い出されるだろうが、安いアパートを借りるだけの現金はある。高望みしなければ仕事も見つかるだろうと思う。しかし英司に別れを告げられるのも、あの部屋を追い出されるのも、祐悟には耐え難かった。最初から最後まで英司の思惑通りになるのが、たまらなくいやだった。
最後くらい、自分の勝手に決めたい。
そう考えた瞬間の、自分の顔に浮かんだだろう醜い笑みを隠すように祐悟は顔を洗った。先ほどメールをしたから、もうすぐ迎えが来る。
「具合でも悪いんですか?」
普段は事務連絡以外の口をきかない運転手にそう問われて、祐悟は後部座席でうつむいた顔を上げた。バックミラーに、こちらを窺う運転手の顔が映る。運転手といっても二十代も初めだろう、まだ稚いような顔をした男だ。名乗られたがすぐに忘れてしまった。ホストだそうで、夜は派手なスーツを着ているし、朝はくたびれた服を着て、眠そうな顔をしている。
今日は藤色のスーツにオレンジのネクタイだった。男の色彩センスにはいつも首を傾げる。
「いえ」
「今日はエイジさんは戻らないと思うって言ってました。早く寝た方がいいですよ、熱でもあるみたいな顔色です」
「……そうですか」
「エイジさんに伝えておきましょうか? 具合悪そうだって」
「言わなくていいです。関係ないから。君、今日はずいぶんよくしゃべりますね」
「こうやって運転手して一年以上経つでしょ? やっとエイジさんから好きに喋って良いって許可が出たんですよ。俺、結構しゃべりだから黙って運転してるのって辛かったです」
「そんなこと、許可なんてされなくても勝手に話をすればいいのに」
「エイジさんに叱られますから」
「まさか。気にしすぎです。……ああ、英司の仕事とかのことを俺が聞くと困るからかも。別に、大丈夫ですよ。興味ない」
「はあ、冷たいなあ。エイジさんの愛人、こんなに長いこと続いてるのって俺が知ってる限りじゃ鳥さんだけなのに」
「鳥さん?」
「あ! すみません名前知らないんで勝手に」
「英司から聞いてないんですか」
「いやあ言うわけないでしょ。口を利くな顔も見るなですから。だから籠の鳥」
祐悟は唇をゆがめて笑った。
それからすぐにマンションに着き、地下の駐車場、英司の契約しているスペースに車を入れ、運転手の男は英司をマンションの部屋の前まで送る。
玄関を開け、普段ならばすぐに入るのあが祐悟はちょっと振り返って運転手の男に言った。
「俺はアイジンなんてものじゃないです。ただの玩具ですよ」
男はちょっと面食らったような顔をしたが、やがてくしゃっと笑んだ。その笑みがどんな感情を伴っているのか祐悟は分からなかったし興味もなかったので、「送ってくれてありがとう」といつものように言って扉を閉めた。
英司が戻ってきたのは明け方だった。二年たってもまだカーテンのかかっていない窓の外が明るくなってきているが、まだ夜明けには少しある時間。
シングルベッドに無理やり入り込んできた異物を無意識で避けようと壁に引っ込んだ祐悟をいいことにベッドに横たわった英司は、祐悟の顔の横に投げ出された手首を噛んだ。
鈍い痛みに薄目を開けると、手首から移って親指の付け根を噛んでいる英司と目があう。チェシャ猫のように英司は笑った。
「具合が悪いんだって?」
「…いえ、なんでもないです。少し疲れていたから」
だから寝かせてくれ、という意味を込めたつもりだったが通じなかったらしい。寝巻きのボタンを外していく手を振り払う自由は与えられておらず、祐悟は半覚醒のまま委ねていたが、英司の、自分より体温の高い手が胸の辺りを撫で、不意に指先で乳首を強く捻るのには眠気も覚めて痛みに呻いた。本能的に痛みから遠ざかろうと英司の手を外そうと手が動くが、その前に髪を強く引っ張られた、何本かは抜けただろう痛みだった。
「玩具が自分で動いちゃ駄目なんじゃないか」
愉悦を含んだ声。
どうやらあの運転手は会話を逐一英司に報告したらしい。祐悟の言葉をどう思ったのかは知らないが、どうやら『玩具』という言葉に英司は引っかかったらしい。祐悟はベッドヘッドのパイプに掛けた時計を確かめた。起床時間まであと一時間半。出来ることなら眠りたかった。
英司の、緩めてはいるがまだネクタイも解いていない服からみてスーツの上着は床に落ちているのだろう。良いものを買いたがるくせ、手入れについては無頓着だ。ため息に聞こえないようにため息をついて祐悟は吐息もまじるくらいの距離にある英司に手を伸ばして、ネクタイの結び目に指を入れてそれを解いた。英司の体ごしにネクタイを床に落とす。
勝手に動くな、というわりに祐悟がネクタイを解きシャツのボタンを二つ外すのに、何の文句も言ってこない。結局口に出すこと全てが気分次第なのだ。祐悟は手を英司の首の後ろに回した。首元の、少しくぼんだところに自分の頭が納まるようにする。鼻先に香る、英司の髪から香る華やかな香水。
英司は事後にシャワーを浴びるが面倒なのか髪までは濡らさない。だから肌には何のにおいもしなくても髪からは香るのだ。今まで一緒にいた誰かのにおい。
誰かを抱いてきたのなら今から自分を抱くこともあるまい、と祐悟は目を閉じる。ぴったりとくっついてしまえば案外暴力は振るえないものだ。何しろ動きにくい。首の後ろにかけていた手を背中にもっていく。これでなお何かを何かするというのならそれはもう仕方ないことだ。祐悟はそう諦めたが、英司は何もしなかった。頭の上から規則正しい呼吸が聞こえてくる。どうやら眠ったらしい。
その呼吸の音を聞くうちに、祐悟も再びの眠りにおちた。
しばらくして、寝たふりをやめた英司が目を開けたことにも、一層密着するように祐悟の背中に腕をまわして力を込めたのにも、祐悟は気づかなかった。