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幸いを願う心  作者: 粗目
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2.すみか






 風呂場まで引きずられタイルに横たえられたまま冷たいシャワーを浴びさせられてから、湯に切り替えたシャワーをもう一度浴びせられた。殴られて傷ついた口の中で湯をあふれさせ、血と混じったピンク色の湯が流れるのを男が愉しそうに見ていた。裂傷の出来たらしい尻に湯を流し込まれる痛みは口の比ではなかったが、祐悟の意識は途切れがちだったのでどの程度の痛みだったのか覚えていない。

 次に目覚めたのはソファの上で、裸の体にベッドから持ってきたと思しき羽毛布団が掛けられていた。薄いピンクの花模様。美枝のものだ。彼女が湯上りにつけるクリームの香りも体臭も失せた。もはや誰のものとも言えぬ布団。

 

 会社に電話して病欠の連絡を入れなくては。

 そう思うのに、背筋を走る悪寒に熱が出てきていることを感じ、祐悟は布団を体に巻きつけるように丸まった。


「目が覚めたのか」


 声を掛けられ、いったん閉じかけた目がぱちりと開く。

 目の前に、祐悟を覗き込むように腰を曲げた男の顔。

 喉の奥で悲鳴が漏れる。


 男は祐悟の髪を軽く引っ張った。


「会社に電話しろよ、その顔じゃ出られないだろう」

「顔……?」

「酷い顔。二、三日休んだ方がいいな」


 男の手が頬に触れ、びりっと来る痛みに祐悟は顔をしかめ、その動きでまた口元や頬骨のあたりがきしむように痛んだ。男は酷薄に整った顔をゆがめてにやりと笑い、「酷い顔」ともう一度言った。

 祐悟は布団を体に巻きつけ、力の入らない足を叱咤するようにソファから降りて立ち上がったが、瞬間体をつらぬいた痛みに立っていられずにソファにへたり込む。その祐悟の目の前に、シルバーの携帯電話が差し出された。祐悟のものだ。昨夜のスーツの内ポケットに入っていたはずの。男が摘んだストラップは、美枝とペアで買ったベネチアンガラスの小さなチャームのついたものだった。結婚前のデートで、さして高いものではないのに、美枝が十分近くも悩んで選んだものだった。美枝の携帯についていたストラップは他の雑多なストラップにまぎれてしまったが、祐悟はこれしかつけていない。

 ゆれる携帯を力の入らない手で受け取り、祐悟は会社に電話を入れる。

 口内が腫れている所為でくぐもった不明瞭な声と、隣に男が座った緊張で震える声は、祐悟の不調を十分に表現していたらしく、電話の向こうの同僚は酷く心配そうに「病院に行け」と繰り返した。二、三の連絡事項をやりとりしている間、男のひとさし指が電話を持つ祐悟の手の甲をなぞり、そのたびに祐悟の肩がびくりとはねる。震えが、広がっていく。

 数日休むことになるかもしれない、と謝る祐悟に、お大事に、と返って電話が切れる。

 男の手が祐悟の手首を掴んだ。耳元でささやかれる。


「じゃあ、返済計画を話し合おうか?」




 マンションは手放すことになった。まだまだローンが残っているので売ってもたいした利益が出るわけではない。ローンの返済と借金の返済を賄うのは祐悟の給料では無理だ、と男は言い、男が求める月々の返済額を聞かされれば、確かにうなずくしかなかった。どころか、生活すら危うい。

 男……、電話の後、祐悟が所望した水と、自分用にコーヒーを淹れてソファに座ってから英司とだけ名乗った男はマンションを手放すことを祐悟が承知するとどこかに電話を掛け始めた。それから、どうやら動けるようになった祐悟が服を着終わってからいくらもしないうちにインターフォンが鳴り、我が物顔に玄関に出た英司は続けて入ってきた中年の男とあれこれ話しながらマンションの部屋中(といっても2DKだ、見せるところなどさして無い)を見せた。男は何事かをメモしながら歩き回り、いくばくかの金額をはじき出す。どうやら家具の査定のようだった。男は食器棚の中まで見て五十万に満たない値を付け、英司は軽くうなずいて了承した。どうやらこの部屋のもの一切、もはや祐悟のものではないらしい。

 上がってきた熱の為にソファにぼんやりと座りこみながら祐悟は二人のやり取りを見るともなく見ていた。男は電話を掛け、数分で、どうやら階下に待機していた四、五人の引越屋のようなツナギを来た男達がどやどやと入り込み、梱包材を広げて手早く家具や食器を運び出していく。その脇で英司は祐悟のクロゼットを開け、服を出してはゴミ袋に入れて祐悟の隣に積み上げていった。スーツが数着と普段着。45リットルのゴミ袋が三つ一杯になった。それから下足箱の靴も別の袋に投げ入れると、若い男の一人に袋四つ分の荷物をどこかに持って行かせた。服も無くなったら明日から困るな、と祐悟は思ったが、どうしようもない。


 英司が祐悟の腕を引っ張った。

 ここに座っていたらソファを運べないのか、と祐悟がのろのろと立ち上がると、腕を引かれてはだしのまま玄関から出てエレベータに乗せられる。エレベータは地下一階の駐車場で止まった。車を持っていない祐悟にはなじみのないフロアだ。英司は祐悟の腕を掴んだまま駐車場を歩き、キーをポケットから出すと、濃紺のスポーツタイプの車のドアを開けた。

 助手席に押し込まれるように乗せられ、シートベルト、と指示されるままのたのたとシートベルトを締めていると、前面を回って英司が運転席に乗り込んだ。エレベータホールに若い男がビニール袋四つとともに姿をみせる。その傍に車を寄せ、後部座席に祐悟の服や靴のはいったビニール袋を詰め込むと英司は駐車場の外に車を走らせた。祐悟が背後を見ると、若い男は車に向かって頭を下げていた。


「ど……どこへ行くんですか?」

「病院経由で部屋だな」

「……病院は…」

「俺に治療されたいんならそれでもいいけど」


 英司の言葉で祐悟のためらいがちな拒絶は出口をなくした。やがて英司は裏通りの診療所の前に車を止めた。四十代かもう少し上かもしれない医者と、愛想のない看護婦がいるだけの古ぼけた診療所だ。患者は誰もおらず、祐悟は保険証の提示を求められることもなくすぐに診察室に入れられた。医者は祐悟の顔と体についた傷を見ても何もいわず、「どれも縫うほどの傷ではないな」と一人ごちると、傷薬と抗生物質、解熱剤を出しますね、と言った。

 会計の時も保険証は要求されず、薬と一緒に、当たり前のように全額請求された。数万単位の診療代は英司が支払った。


 診療所を出る頃には祐悟の気力もつきかけていた。診察時に計った体温は38度近くあり、普段あまり体温の高くない祐悟にとっては歩くのもつらいほどのだるさを感じる。加えて、具合が悪くて食欲はないが、昨日の昼過ぎから何も食べていなかった。

 ふらついた祐悟をひきずるように車に乗せ、英司は車を出した。


「あと少しだから、寝るなよ。荷物とあんたを持って部屋までは行けない」


 そういわれて、必死に目をあけていると、十五分ほど走って英司はマンションの地下駐車場に車を置いた。両手を使って袋を三つ持ち、残りのひとつを祐悟に持たせる。エレベータホールまで歩いた祐悟が足をふらつかせると荷物と一緒にエレベータに押し込んで七階まで上がった。

 玄関前にはそれぞれ門扉とポーチがついている。二メートルもないポーチだが、英司はそこに服と靴を置き、祐悟だけをつれて玄関を開けた。

 ずっと裸足だったために足裏は汚れているだろうに、気にした様子もなく廊下に上げようとするのに祐悟は首を振った。途端、英司の細く整えられた眉が不快にひそむ。


「足、汚いですから」

「ああ」


 祐悟の言葉に納得したようにうなずいた英司だがだからどうしたといわんばかりにそのまま祐悟を廊下に引っ張り上げた。家主なのだろうが気にしないのならばと祐悟も観念して上がったが、きれいに掃除されているフローリングが自分の足で汚れていくのはあまり良い気分ではない。

 

「気になるなら洗えよ」


 そういってバスルームに引っ張られ、祐悟はほっとして自分の足を洗った。

 バスルームや廊下の感じからして祐悟の暮らしていたマンションよりワンランクは上だろう。袋を持ってどこかの部屋に置く音を聞きながら祐悟は、丹念に足を洗った。バスルームから出て行きたくなかったのだ。


 けれど期待も空しく、バスルームの扉が開かれ英司が祐悟の手からシャワーのノズルを取り上げ、湯を止めた。

 脱衣所で放られたタオルで足を拭いたが、うつむくとめまいが酷くなるし片足を上げるとバランスがとれない。仕方なく脱衣所の床にしゃがみこむと、頭上から舌打ちが聞こえた。

 足を拭き終わり、洗面台を支えにして立ち上がると、そのまま腕を乱暴につかまれ、バスルームの隣にある部屋に連れて行かれた。ドアのすぐ傍に服の入ったごみ袋が三つ置いてある。そのほかにはシングルベッドとクロゼットしかないフローリングの部屋だ。窓にはカーテンもない。

 ベッドの上に投げ出されて衝撃でめまいが酷くなるが、横になれた安堵ははかりしれなかった。枕もないベッドに沈むように意識が暗くなる。




 眠りの中で悪夢を見た。熱で浮かされとりとめもない朦朧とした、ただ酷く忌まわしい恐ろしいということだけが分かるような夢。

 悪い眠りから覚めるたびに、視界に男がうつる。携帯電話で話していたり、水を口移しで飲まされたり、ベッドサイドに座って書類を読んでいたり、狭いベッドに無理やりもぐりこむように身を寄せて眠っているのを見つけた時が最悪だった。

 開いたドアの向こうの部屋から漏れる光で見えた、昨夜から祐悟に数々の理不尽を強い続けている男の顔は冷たく整っているのに、寝顔はあどけないといってもいいほどだった。

 英司の顔を見ていると胃の奥から吐き気がこみ上げてきて、少しでも離れようと身を引いて半身を起こす。英司の手が腰に回されているのを、起こさないようにそっと、けれど触るのも嫌なので身をよじって外しながら、眠る前より大分楽になった体でそろそろとベッドから降りる。汗でべとついた服が気持ち悪いし、喉も渇いていた。

 

 リビングは片付いていた。あの男が自分で掃除をしているとは思えないから、プロの手が入っているのだろう。毛足の長いラグを通りぬけ、対面型のキッチンへ入り、コップに水道から水を汲んで飲むと、むかつきも少しすっきりした。


 壁の時計が午前二時を指している。祐悟は今、服を着替えてここを出て行くことを考えたがそれでは何の解決にもならないと思い直す。借金を抱えたまま仕事を辞めるわけにはいかないし、職場はとっくに調べられているのだろう。

 磨かれたシンクで確認した英司いわくの「酷い顔」。腫れ、変色した自分の顔を会社の人間に晒して好奇心を煽るつもりがない以上、あても金もないのに今闇雲に逃げ出したいという衝動だけで動くべきではない。


 それでも、英司の眠るベッドに戻りたくはなくて祐悟はリビングに置かれた、黒革の柔らかなソファに腰掛けた。肘掛のない作りの所為もあって、男が足を伸ばしても窮屈でなく眠れる大きさだ。祐悟はバスルームからタオルを一枚持ってくるとそれを掛け布団代わりに、ソファに横になった。せめて朝までゆっくり眠って、少しでも体調を整えておかなければ。




 朝八時。

 揺り動かされ起こされた祐悟は不機嫌な顔をした英司が自分を見下ろしているのに気づいた。底光りするような目の冷たさにぞっとして身じろぐと、動くことすら許さないとでもいいたげに、英司が裸足の足で祐悟の左肩を強か、蹴りつけた。

 痛みに息を止める祐悟の首に英司の右手が絡みつく。バスケットボールをわしづかみにできるような大きな、指の長い手。蜘蛛のように首に絡み、指先に力をこめられた。さほど強い力をこめられているとも思えないのに、息苦しい。


「おはよう、祐悟」


 けれど首を絞めながら当たり前のような声で英司は朝の挨拶をする。そして唐突に手を離されいきなり流れ込んできた空気に順応できずに咳き込む祐悟の肩を掴んで自分に向きなおさせる。

 そのまま、何かを待っている。

 

「…っは、よ…ござ……す」


 苦しい喉から祐悟が声を絞り上げると、英司は満足したのか興味をなくしたのか、祐悟から手を離し、そのまま玄関から外に出て行った。


 

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