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幸いを願う心  作者: 粗目
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1.借用書

*暴力シーンがございます。苦手な方はブラウザバックをお願いします。



 祐悟は東京駅の空き缶入れに二つに折った携帯電話を捨てた。ゴミ箱が見つからなかったとはいえ、ゴミ回収に来る人が困るだろうな、と思ったが、他に仕様がなかったのだ。持って歩くわけにはいかなかった。携帯にはGPS機能がついている。

 念のため記録は全て消した。第一壊れている携帯電話をわざわざ復元しようという人間はいないだろう。せいぜい、非常識な人間が捨てたと思われるのがオチだ。否、そう思わせたい。万が一メモリの復元でもされ、携帯の持ち主がわかりでもしたら、迷惑をかけることになる。


(どうかゴミだと思ってくれますように)


 祈るように思って祐悟は新幹線乗り場に向かった。行き先はどこでも良い。とりあえず一番早く出る新幹線に乗るつもりだった。



    □ □


 

 目の前に突きつけられたのは身に覚えのない借用書だった。額面は一千万。祐悟の年収を軽く越えている。身に覚えのない借用書に、見覚えのある字で書かれたサインと朱印。妻の書く字だった。あるいは、妻の書く字によく似ていた。


 自宅に帰りつくのを「家の中で」待っていた男は、祐悟よりも年若く、まだ二十代の半ばに見えた。仕立ての良い濃いグレーのスーツに柔らかな髪色。ホストというには軽薄さのない、けれどサラリーマンというには華やかな不思議な雰囲気を持つ男が、食卓の椅子に腰掛けていたのだ。

 そしていぶかしげな顔をした祐悟に借用書を突きつけた。

 

「美枝ですか?」

「それあんたのオクサンの名前? あんたの名前で借金した女」


 そう、借用書の名前は祐悟のものだった。祐悟自身が書いたものではないので、無効を訴えることはできるだろう。

 しかし目の前の、椅子に姿勢を崩して座っている男の雰囲気が、法的な手段に訴えることの無力と危険性を匂わせていた。まともなローン会社が家人の留守中、家にあがりこむような危険をおかすはずがない。


「……美枝は、二週間前に家を出たきりです」

「ああ、そっちはそっちで探してるからご心配なく。俺はあんた、祐悟さんの担当だから」


 名前を知られていることにぎょっとしたが、男はたじろぎもしないで唇の両端をひきあげた。

 狼が笑うとしたらこんな顔をしただろうと思わせる笑みだった。

 

 祐悟は、自分がまだ戻ってきた時のままコートすら脱がずに立ったままでいるのに気づいて、「失礼」と一言断ってコートを脱いで玄関脇のクロゼットに仕舞い、改めて食卓に戻り椅子に座った。

 

「余裕だねえ、祐悟さん」

「……そんなことは、ないですよ」

「殺されるかもしれないってのに」

「一千万と、いくらかわかりませんが利息の為にですか?」


 高額の生命保険は審査が厳しいし、調査も厳正に行われる。祐悟の年収を遙かに越える借金とはいえ、生かしておいて返済させたほうが楽だろうということは素人の祐悟にも察しがつく。

 けれどそんな祐悟の計算を読んだように、男は喉の奥で嗤った。


「まあ確かに、最近はいろいろうるさいからね。でもいつでも楽なほうに流れるバカはいるもんだよ。あんたを何年も働かせてコツコツ返済させるより、多少元手はかかっても手早く回収するほうがいいじゃないか」 

「そうかもしれないですね」

「俺がそういうこと考えてないって思ってる?」

「それは、あなたのことを全く知らないので分かりません。でも別に、どっちでも良いんです。私が死んで完済できれば美枝は追われないで済む」

「借金残して逃げたオクサンのことまだアイしてんの? これ全部ホストにつぎこんだ金だよ」



 呆れたように馬鹿にしたように男が言う。祐悟は曖昧に首をかしげた。愛している? 

 かつては、数年前はおぼれるように愛した女だった。結婚できなければ死んでしまうとまで思い詰めていた。けれど結婚して、ローンを組んでマンションを買って、毎日暮らすようになると、彼女の限られた、美しい一面しか見ていなかったことに気づいた。それは彼女も同じことだったのだろう。何度かの喧嘩を経て、この半年はろくに話もしなかった。いつ離婚になるかと思いつつ、祐悟の方から離婚の手続きをとることはなかった、そこまでの情すら無かった、と言ってもいい。


『あなたは私を幸せにしてくれると思ったのに』


 何度めかの喧嘩のあと、美枝がそう呟いた。

 祐悟はその時、それならおまえだって私を幸せにしてくれなかっただろうが、と思った。口には出さなかった。口に出すのも億劫だったからだ。

 けれどぼんやりと、この女は不幸なのだなと思い、鈍い感情のまま、同情したのだ。


 そんな美枝が残した借金を精算することは、慰謝料のようなものだと思った。





 あんたおもしろいね。気に入った。


 そんな声が耳朶をかすめた。え、と思った瞬間、男は席を立ち、三歩で祐悟のそばまでやってくると、椅子の足を強く蹴った。

 とっさのことでよけることも立ち上がることもできずにそのまま床に落ち、したたかに背中を打ってうずくまる祐悟に男が馬乗りになる。

 そのまま、強い大きな手が何度も祐悟の顔をなぐりつけた。

 男の手がネクタイの結び目を乱暴に引っ張りネクタイを引き抜き、ワイシャツをむしる。衝撃にボタンがいくつか飛び裾がスラックスから引きずり出された。男の手はスラックスのベルトも取り払い、ボタンとジッパーをスラックスごと押し下げた。半ばずれた下着も男の手で下げられる。


「な、にを……!」

「あんたはぼんやりしてて変な奴だね。俺の好きなタイプだ」

 

 男は祐悟の膝裏を抱えあげた。半端に下げられたスラックスと下着が足かせになってうまく動けない祐悟に、男は己のスラックスのジッパーを下げた。膨らんでいた箇所か耐えかねたように勃ち上がったものがまろびでる。

 膝を上げさせられ露わになった箇所にそれを押し当てられ、祐悟は肘でずり上がって逃げようとしたが男の手が祐悟のみぞおちあたりを押さえていてろくに動けなかった。

 今さっき顔をさんざん殴られたせいで、動けば腹を殴られるのではないかという恐怖が身をすくませたのもあるが、なにかコツでもあるのか、体がうまく言うことをきかないのだ。


 ぐ、と入るはずもない質量がむりやりに押し入ってきた。内蔵が押し出され口から吐き出されるような圧迫感、刃で切り裂かれているのかと思うほどの痛み。


 耳障りな悲鳴をあげているのが自分だと知覚できたのは、男の手が喉に当てられたからだ。男の手に振動が伝わっているのが、皮膚に感じられる。


「良い声だなァ」

 

 間延びした男の、笑いまじりの声。揺さぶられるたびに頭の中まで痛みが響く。喉の奥に酸っぱさを感じる。吐く。とっくに涙腺のゆるんだ目からまた新しい涙があふれてくる。


 痛い、痛い、痛い!


 祐悟はそれしか考えられなかった。








 天井の電気が眩しかった。

 祐悟は、自分が床の上に寝ていることに気づく。体中が痛くてとても動けそうになかった。


 風呂場からシャワーの音が聞こえる。


 鼻につく異臭。どうやら自分は吐いたらしい。目をにおいの方にむけると薄黄色い胃液で床が濡れていた。忙しくて夕食を取れなかったのが幸いしたかもしれない。

 体を起こせなかったので腕をのばしてテーブルクロスを引っ張り、落ちてきたテーブルクロスを胃液の上に掛け、力の入らない腕で拭いた。

 

 シャワーの音が止んでいた。

 鼻歌が聞こえる。上半身裸で、スラックスだけを身につけた男がタオルで水気をふき取りながらこちらに向かってきた。


「風呂場まで歩ける? わけないか。とりあえず洗わないと薬もつけらんないな」

「くす、り」

 

 くぐもってかすれたひどい声だった。殴られて顔が腫れているようだし叫んだからだろう。祐悟は他人事のようにそう思った。男は、祐悟の声に喜色を浮かべた。

 獲物を前にした猫のような顔だと祐悟は感じた。



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