「君を愛することはない」と言った旦那様が犬になるまで
「君を愛することはない」
式を終えた初夜、部屋に入って来た旦那様、リヒト・シュティル侯爵子息の第一声はそれだった。
シルバーブロンドの髪にアイスブルーの瞳の目麗しい青年。
私に向けられたその美しい瞳は、まるで忌々しい敵であるようだ。
「はい、かしこまりました」
私はただ、微笑む。
「それでは始めましょうか」
そして、自分の衣服に手をかけた。
「おい、聞いているのか!」
「聞いていますとも。それに存じ上げております。貴方の『真実の愛』を誓った相手がいらっしゃることも」
慌てて止めに入った旦那様に、私は至って穏やかに答えた。
癇癪を起こした子どもに言い聞かせるように。
『真実の愛』……そう、旦那様には惹かれ合っているアイリーン・ルクス子爵令嬢という方がいる。
学生時代に出会った彼らは身分の差はあれど、将来を誓い合った仲だという。
それは学園内でも有名な話だったらしい。
私は婚約が決まった時点で初めて知ったのだけれども。
しかしその差を埋めるのは奇跡が起きない限り、できるはずがなかったのだ。
当然彼の父は二人の仲を許すことなく烈火のごとく激怒した。
そして執心している息子に目を覚まさせるため、同じ家格である私、メディエラ・ルーナノワをあてがったのだ。
愛し合う二人にとって、私は正しく『敵』なのだろう。
せめてもの抵抗として先程の失言を浴びせた、という訳だ。
━━若い、なんて若い。
「そうですね。心が痛むと思いますが、夫婦の義務を放棄する訳にはいきません。侯爵様も何とおっしゃるか」
私が困ったように言うと、旦那様はうろたえた。
結局どんなに抗おうとしても、この方は自分の父親には逆らえないのだ。
だからこそ怒りの矛先がこちらに向いたのだろう。
全くもって馬鹿にしている。
「……それに、夫婦に愛情が不要なことは貴方が一番ご存知ではございませんか?」
間近まで近寄って耳元でそう呟くと、旦那様の顔は酷く歪んだ。
件の父親、現シュティル侯爵は「英雄色を好む」を体現した様な方だ。
その手腕はさながら、社交界でも数々の浮名を流している。
侯爵夫人はスキャンダルの後始末に追われ、夫婦の関係は冷めきっているという。
だからこそ、彼は『真実の愛』によって結ばれた相手との婚姻を望んだのだ。
奇しくも、自分の母親と同じ立場になった人間を攻撃していることに、彼は気づいていないだろう。
皮肉な話だ。
「それで良いのです。旦那様は貴方の愛を貫きなさいませ」
そう言って私は旦那様をベットに押し倒した。
旦那様は戸惑った表情を見せるばかりで身動きできずにいるようだった。
可哀想な人だ。
愛を誓った相手と結ばれず、父親にも逆らえない。
そして、憎き敵は私━━
自分の体の魅力を最大限に理解している、この私なのだ。
*****
「お前とは遊びだったんだ」
三年間付き合い、結婚を意識した相手に言われた言葉だった。
旦那様から「愛さない」と言われた瞬間、思い出してしまった。
思いのほかトラウマだったのかもしれないと、えぐり出されそうな痛みに胸を押さえる。
私は生まれ変わる前、何の変哲もない一般的な日本人女性だった。
男運は悪かったようだけど。
相手には本命がいて、私は浮気相手だった。
━━この世界も、どの世界も、パートナーになった男は私を一番に愛してはくれないらしい。
私を愛してくれたのは、両親と愛犬くらいだ。
なら、私だって好きにやって良いだろう。
不貞を働いているのは自分達なのに、主導権も自分にあると思って欲しくないものだ。
皮肉にも、今の私には前世でクズ男の性癖に付き合って得た『経験』がある。
その経験のおかげで、おそらく娼館に行ったこともない、恋人に純愛を捧げていた旦那様は今まで知り得なかった体験ができたのだ。
おまけに今世の私は自分で言うのも何だが、なかなかに魅力的な体を持ち合わせていた。
自分の可能性が広がるのを感じるのは、前向きな気持ちになる。
朝起きて、憎々しげにこちらを見る旦那様に私は微笑んだ。
「ごきげんよう旦那様。昨夜は随分楽しんでいただけたようですね」
「恥を知れ」
あらあら、口ではそう言っても耳まで真っ赤になっていらっしゃる。
何て可愛らしくて可哀想な旦那様ですこと。
*****
執務の合間を縫って、旦那様は子爵令嬢に会いに行っているようだった。
最初こそ旦那様は私と枕を共にすることに抵抗していた。
しばらく経って私が「義務を果たしましょう」と持ちかけると、屈辱そうな顔をしながら黙って組み敷かれるようになった。
触れるか触れないかのじりじりとしたところで体のラインをなぞる。
唇を噛んでいるのが見える。
なるべく反応を見せないように堪えているようだったが、体は正直だ。
そして数回もすれば、私は彼のどこが良くてどこが悪いかの反応の差異を理解できるようになる。
その瀬戸際で遊ぶのが、とても気分が良い。
本人はそれが分かっていない。
ただ一生懸命耐えようとしている。
それが、いたく滑稽だった。
だというのに、穢れない顔で最愛の人に会いに行く。
どんな面で愛の言葉をのたまっているのか、知りたいなと笑う私はだいぶ性格が悪いのだろう。
そんなある日のこと。
私のもとに、とある手紙が届いた。
送り主はなんと、アイリーン子爵令嬢だった。
衝撃的なことに、一度お会いして謝罪したいとの内容だった。
そっちで好き勝手やれば良いものを、と思いながらも私はそれを承諾する返事を書いた。
*****
うちにやって来たアイリーン様は、ピンクベージュの髪と翠の瞳が可愛らしい、可憐なお嬢様だった。
小柄で華奢な体付きで、いかにも庇護欲を掻き立てられそうな方だ。
旦那様は留守のため、私達は二人きりでお茶を楽しむことにした。
天気が良かったのでお茶会日和だと、庭園にお茶とお菓子を準備してもらう。
庭の花はちょうど薔薇が見頃のようだ。
花弁が朝露に濡れて目を奪われる美しさだった。
「申し訳ございません、メディエラ様」
私が薔薇の美しさに浸っていると、話もそこそこに、アイリーン様は泣きそうな声色で謝罪した。
「あら、何か謝るようなことをされたのですか?」
「私のせいで不快な思いをされているのではと思いまして……」
はて?と首を傾げていると、申し訳なさそうに彼女は話し始めた。
「その、大変申しにくいのですが、初夜にリヒト……様が失言をしたと……彼は悪い人ではないんです。ただ真っ直ぐ過ぎるところがあって……」
あぁ、なるほど。
本心なのか、それともわざとなのか。
いずれにしても言葉尻にマウントを取りたいような感情が見え隠れしている。
無意識にしても、不快なことこの上ない。
気持ちは分からなくはない。
正妻がいるのに選ばれた私、なんて自慢もしたくなるだろう。
残念、純粋無垢なのは顔だけだったようだ。
しかし、旦那様が『真っ直ぐ過ぎる』なんて、冗談が過ぎる。
「アイリーン様は旦那様のこと、よく理解されているのですね」
「はいっ!彼、私をいつも守ってくれるんです。私が身分も性格も非力で頼りないから。……だからメディエラ様に失礼なことを言って私を安心させたかっただけなんだと思います」
旦那様も困ったものだ。
恋人には「言ってやった」くらいな気持ちで話したのだろう。
その後何があったのかは伏せて。
しょうもないプライドだ。
彼女はそれを真に受けてしまったのだ。
「そうですね、悪い人ではありません。初夜の際も口では色々おっしゃっていましたが、楽しんでいたようですし。良い表情をされていましたわ……えぇ、とても可愛らしい方ですね」
スッと彼女の表情が消えた。
そちらが始めたことでしょうと内心呆れながら、私はお茶を口にした。
「意外とこちらが積極的にした方が旦那様も悦んでくださるようですね。本当、『真っ直ぐ過ぎる』反応をされる可愛い方です。ねぇアイリーン様、そうでしょう?」
「私と彼はそんな関係ではありませんっ!」
アイリーン様はそう言って勢い良く席を立った。
「あら、気分を害されましたか?どうか、落ち着いてください。心と心で結ばれた関係、素敵ではないですか」
我ながら演者のようなわざとらしさだと思ったが、アイリーン様は気付く余裕もないらしい。
「どうか私のことは気になさらず、そのままの関係を続けてくださいね。だって貴族たるもの愛人の一人や二人いるのは珍しいことではないでしょう?跡継ぎを生むのはこちらの役割ですので、どうか旦那様の精神的な支えになってあげてください。あぁ、でも子どもは授かりものですもの。私が授からずアイリーン様が授かった場合は私が後見人となってしっかり跡取りとして育てますのでご安心ください。……あとは、そうですねぇ、愛人関係とは未来永劫続く方と、そうでない方がいるようですが、きっと旦那様達は前者なのでしょうねぇ」
「当然です、失礼いたします!」
顔を真っ赤にしてアイリーン様は去って行った。
なんだろう、あの程度で取り乱すなんて案外大したことないのかと、私は肩透かしを食らっていた。
自分達がやってるのはただの不倫で、自分は愛人の他の何者でもないのに。
それとも、もっと崇高な何かだと思っていたのだろうか。
言ってしまえば貴方の愛する旦那様も、心と体の置きどころを使い分けてるゲス野郎に他ならないのだけど。
プラトニックな関係だったのは意外だけど、だからだろうか学生時代からの恋愛をそのまま続けているような感じか?
二人とも若いが十分大人だというのに。
すっかり冷めてしまった紅茶を口にしながら私は溜息を漏らした。
*****
二人で夕食を摂っていると、旦那様が眉をしかめながら私に言い放った。
「何故そんなに私に話しかける」
「それはどういう意味でしょう?」
「我々に話し合いは不要だと言っている」
ただ世間話をした程度だったが、それが彼を不機嫌にさせたらしい。
相変わらず反抗的な方ですこと。
「お言葉ですが、私はそうは思いません」
ナプキンで口を拭いていると、はっきりと言い返されるとは思っていなかったのか、分かりやすく旦那様は動揺していた。
「私達に愛は不要でしょう。しかし、信頼は必要です。将来シュティル侯爵家を盛り立てる者同士なのですから」
言っている意味が理解できなかったのか、彼は呆けている。
仕方がないので、私は続けた。
「お義父様は、とても偉大な方です。その後を継ぐとなれば、かなりの重圧を伴うはずです。そんな時に身内での統率が取れていなかったらどうなるでしょう?」
父親の名前が出て、また動揺を見せた。
本当にどこまで行っても分かりやすい人だと思う。
「私達はいわば『同志』です。そして志を同じくするためには、お互い必要なことを気軽に話せる仲になった方が良い。そのために日頃から最低限でも会話をした方が良いと考えます」
旦那様はしばらく考え込み、「なるほど」と呟いた。
何故だかいたく感心したような顔付きになっている。
そこまで感心しなくても、ただ働くにあたって大切なことを話しただけに過ぎないのに、と内心思っていた。
嫌な人間だからと言ってだんまりを決め込むのは、効率が悪くなることこの上ない。
転生前の職場でも訳わからんお局様がいて面倒だったもんな……というのはさておき。
小さなことでもコミュニケーションをとった方が結果として作業がやりやすくなる。
「ご両親が喋らない食卓は、あまり良い思い出がなかったのではないですか?」
それが一番効果的だったのだろう。
旦那様は重々しく口を開き、「分かった」と答えた。
その日、私は彼がレモンパイが好きだということを初めて知ったのだった。
*****
それからというものの、愛する人のもとに通っているはずの旦那様は、帰宅後に表情を曇らせることが多くなった。
上手くいってないのかと感じながらも、特に聞き出す理由もないので放置していた。
決定的だったのはその後数日も経っていない雨の日の夜だった。
愛する人に会いに行ったはずの旦那様は、ずいぶんと早くに帰宅したのだ。
雨に濡れたまま、青ざめた顔で自室に入った旦那様に私は紅茶を持って声を掛けた。
「どうなされたのです?」
彼は思いつめた表情でベッドの上に座っていた。
しばらく黙り込んでいたが、まだ湯気の立つ紅茶をゆっくりと飲み干し、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……最近、アイリーンがしつこく自分のことを本当に愛しているのかと訊くようになった」
あらら、それはそれは。
「何度も、もちろんだと言ったんだ。でも、聞く耳を持ってくれなかった。そしたら……」
次に口を開くのを随分とためらっているようだった。
やがて微かな声で絶望したように彼は頭を抱えた。
「……今日、アイリーンが迫って来た」
……おぉ、それはちょっとびっくりかもしれない。
「恐ろしかった。……私達はそういう関係ではなかったはずなのに。『愛しているなら当然受け入れるべき』だと言って……」
はぁ、つまり解釈違いだと。
大方私との話に感化されてメンヘラ女になった挙げ句、迫ってしまったのだろう。
あの小娘、煽り耐性がなさ過ぎやしないかと悪態をつきそうになった。
『真実の愛』のなんと脆いことか。
「そうですか。それは悲しいことですね」
私は旦那様の背中を優しく支える。
彼はまじまじと私を見ていたが、やがて目を伏せた。
「……そうだな、私は悲しかった」
貴方も貴方で、幻滅するのが早すぎでしょう。
呆れたい気持ちを丸め込んで、触れた彼の背中を軽く撫でてあげる。
自分の愛を疑われたのが相当応えたのだろうか。
私との関係はそれはそれとしても、アイリーン様への愛は彼の中では変わらないものであったはずだ。
……あとはまぁ、無垢だと崇拝していた女神様に『性』を感じてしまったら、ショックを受けてしまうかもしれない。
自分はその『性』に溺れてるくせに、だ。
今にも泣き出しそうな青い瞳が私を見つめている。
何故そこまで被害者面ができるのだろうか。
「お身体、まだ冷えていらっしゃいますね」
私は旦那様の頬に手を伸ばした。
その乾いた唇にゆっくり近寄って口付ける。
抵抗を受けない。
むしろ渇望を感じる。
━━あぁ、堕ちたか。
内心ほくそ笑みながら、慈愛の眼差しで私は旦那様の首に腕を回した。
*****
一つ二つ、季節が過ぎて。
夫婦の義務を律儀に果たし続けたからだろう、私の胎内には新しい命が宿っていた。
椅子に腰掛け、私は胎児に影響しないお茶を口にする。
妊娠した影響で自分の身体と言えどもままならず、精神的に不安定になることも多い。
それでも、授かった命を愛しく思う。
生まれてくるこの子は私を愛してくれるだろう。
そして、私にとってもこの子は最愛なのだ。
前世では経験できなかった幸福をいただいた点においては、旦那様に感謝だ。
さて、その旦那様だが何故か今、私の脚にしがみついていた。
「アイリーン様の所に行っても良いのですよ」
邪魔だな、との意味も含め旦那様に声をかける。
今は営みができないのだから、別にこちらに留まり続けなくとも、とも思う。
「……その、子を授かったのだから、あまり家を空かさない方が良いだろう?」
旦那様は気まずそうに私の顔を見上げた。
良い口実だ。
なんて調子が良いことか。
結局、心と体の置きどころを分けなくなっただけだ。
偉大な父の存在が彼に劣等感を与え続ける一方で、今まで彼の弱さに寄り添う人がいなかったのだ。
自分からも弱音を吐けなかったのだろう。
恋人の前でさえ、強い自分を演出していた。
……格好つけたかったと言った方が良いか。
そこへ強がる必要もない私が現れたのが、旦那様にとっては丁度良かったのだ。
「生まれてくるこの子ためにも、良き父と良き母になりましょうね」
私が囁くと、旦那様にはうっとりとした眼差しで「あぁ」と答えた。
『良き父と良き母』、自分を何よりも愛してくれる両親。
……それは彼が一番望んでいたものだと私は知っていた。
本人がどのように思っていても、この人は結局恵まれているのだ。
自分の欲望に流されるまま生きられるのだから。
そこを理解していないあたり、愚かだと思う。
愚かで、可愛らしい。
「……ポチ」
「なんだ、それは?」
「遠い異国の言葉で、愛しい者を呼ぶ時の言葉です。旦那様のような」
「そうか」
そう言って彼は幸せそうに私の腿に頭を乗せて目をつぶった。
私は彼の金の髪を優しく撫でた。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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