第80話
「…………」
「…………」
「…………」
その日、執務室ではレゼルヴ、メル、マッシュの三人が仕事をしたりサボったり、思い思いに時を過ごしていた。
それ自体はいつも通りの光景なのだが、今日に限ってその場にはどこか重苦しい空気が漂っている。
原因はソファーに横たわり不機嫌そうな表情で干し芋を齧っているメル。全身から不機嫌と苛立ちのオーラを放っている彼女に、レゼルヴとマッシュは声をかけることもできず居心地悪い時間を過ごしていた。
真面目に働いている二人がサボっている人間──しかも役職上は一番下──にどうして遠慮して気まずい時間を過ごさねばならないのか甚だおかしな話ではあったが、訓練された二人の社交性はここで下手に彼女を刺激すべきではないと──
「……ちょっと。こういう時は空気読んで男の方から『何かあったの?』って聞くもんじゃないんですか?」
『ええ~……?』
どうやら選択肢を間違えてしまったらしい。方程式のない理不尽な難問につい男たちの口から呻き声が漏れた。
レゼルヴは『きっとどっちを選んでも不正解だったんだろうなぁ』と悟ったことを思いつつ、マッシュと顔を見合わせて責任者としての役割を全うすべく口を開いた。
「何かあったの?」
「…………はぁ~」
要望通りの言葉に、しかしメルはチラとレゼルヴに視線をやり、心底失望したと言わんばかりに深々と溜め息を吐く。
ここで『お前が言えって言ったんだろうが!?』などと怒鳴ってはいけない。それは道理に則した行動かもしれないが、状況を悪化させるだけで問題解決には全く寄与しない。
レゼルヴは鉄の忍耐力で笑顔を取り繕い、ジッとメルが話し出すのを待った。
「……あの女」
「?」
「あの女、一体何なんですか?」
誰のことだろうか? 職場環境もあってメルが普段関りがあるのはほとんど男ばかりで、こんな風に『あの女』呼ばわりする人物にレゼルヴはとんと心当たりがなかった──いや。
「……ひょっとして、ソフィアのこと?」
「他に誰がいるって言うんですか!?」
苛立たし気に吐き捨てられ、レゼルヴは喉のあたりまでせりあがってきた『いや、知らんがな』という言葉を呑み込んだ。
母ベルタや下の弟妹がヴァイスベルクに赴き、代わりにソフィアがオルデン男爵家にやって来てから約二週間が経過していた。
建前上、ベルタに代わる内政要員として派遣されたソフィアだが、その本来の目的が人質であることは皆理解している。シュヴェルト含め男爵家の人間のほとんどはソフィアが本当にベルタの代わりに働くなどとは想定しておらず、ゆっくり時間をかけてオルデンの環境に慣れてもらおうと考えていた。
しかし彼らはすぐにその想定が間違いであったと気づかされる。
オルデン領にやってきたソフィアは、まずその足でオルデン家の関係者に挨拶周りを行い、件のプロジェクトで鍛えた人心掌握術と生来の美貌で瞬く間に彼らの心を鷲掴みにしてしまった。
更にその翌日にはレゼルヴからオルデン家の政についてレクチャーを受け、丸二日かけて過去の資料を読み込み、到着後五日目からは日常的な政務をシュヴェルトに代わり差配開始。
現在では政務のほとんどをソフィアが取り仕切るまでになっており、レゼルヴはその補佐役、シュヴェルトは軍務に専念するという体制が出来上がっていた。
「何か問題でもあったかな?」
ソフィアへの怒りを露わにするメルに、レゼルヴは内心『特別この二人に接点があったとは思えないけどなぁ』と首を傾げつつ尋ねる。
「……問題?」
それに対しメルはレゼルヴをキッと睨みつけ──
「ある訳ないでしょう、そんなもの!!」
「ええ……?」
「何ですか!? 問題が無かったら私は怒っちゃ駄目なんですか!?」
「いや……どうなんだろう?」
言われて、レゼルヴは割と真剣に悩んでみた。普通こういう時は問題があるから怒る訳で、しかし問題が無ければ人の心に怒りという感情が存在しないかというとそんなこともなく、どんな平和な世界であっても怒りという概念が消え去ることはない。人が自由意志を持ち、またその心が完全に制御できるものではない以上、他人が『怒るな』と言ったところでそれは土台無理な話ではある。怒りが必ずしも悪いものかというとそんなことはなく、生物学的には己のテリトリーを守ったり広げたりするための脳の機能の一種であり、社会的にはルールを守らせ秩序を維持する役割がある。勿論、それが行き過ぎれば己や社会を滅ぼす要因となり得るが、それを以って怒りを悪と断ずることはできないわけで何が言いたいかというと──
「──え? いや、何で私が怒られてるの?」
ハタと我に返る。
「……文句あるんですか?」
そして再びギロリと睨みつけられ──
「いえ、とんでもございません」
真顔で、自尊心と共に抵抗を放棄した。
そんなやり取りに流石に黙っていられなくなったのか、マッシュがあきれ果てた様子で口を挟む。
「……メル。結局お前何が言いたいんだ?」
「何って……」
真顔で問われ、勢いだけで怒鳴っていたメルは思わず口ごもる。そして少し口をもごもごさせながら続けた。
「……まだ正式にオルデン家の人間になった訳でもないのに、責任者気取りであれこれ指図して──」
「責任者気取りも何も、奥様の代行としてこっちに来てる以上、責任者として振る舞うことに何の問題もないだろ」
「問題だらけですよ! まだ新参で何もウチの事情も分かってないのに──」
「そうか? 勘所はしっかり押さえてるし、元居た人間の話を聞きながら上手くやってるじゃないか」
「……そもそも、余所者なのに来て早々あれこれ口出しし過ぎっていうか──」
「そういうことを言うなよ。少しでも早くこっちに馴染もうと努力して下さってるんだろうが」
「……いやでも──」
「要はあれだろ、お前」
グチグチと理由にならない文句を垂れ流すメルに、マッシュは深々と溜め息を吐いて告げる。
「ソフィア様が皆にチヤホヤされてるのが気に喰わないんだろ?」
「~~~~っ!」
その指摘にメルは顔を真っ赤にしてマッシュを睨みつけ──
──ガンッ!!
「ぐあっ!?」
手元にあったお盆を投げつけ、マッシュの額に直撃。
「…………ふんっ」
そしてメルは立ち上がり、肩をいからせながら執務室を出て言った。
──バタン!
「いてて……これ鉄製だぞ」
「大丈夫かい?」
額をさすりながら血が出ていないか確認するマッシュに、レゼルヴは心配しながら苦笑。
「メルは機嫌が悪いとすぐにものが飛んでくるから、あまり刺激しちゃ駄目だよ?」
「……そう思うなら、レゼルヴ様がもう少し気を遣って下さいよ」
「私?」
部下の抗議に、レゼルヴは目を丸くして自分を指さす。
何故メルが怒っていたのかまるで理解していない上司に、マッシュは思わずため息を吐いた。
「あいつの機嫌が悪かった根っこのところは、ソフィア様に嫉妬したからでも揉めたからでもなくて、貴方が突然余所からきた人間の下につけられたからでしょうよ」
「────」
言われてようやく気付いた様子のレゼルヴに、マッシュはつい言わなくてもいいことを言ってしまう。
「……部下としては、信頼してる上司がそういう扱いをされると色々と思うところがあるもんでね。せめて本人が怒ってくれないと、こっちも吐き出すところがないから困るんですわ」
思いがけない部下の吐露に、レゼルヴは暫し戸惑った様子で目を瞬かせ言葉を絞り出す。
「あ~……気を付けるよ」
「……そうしてください」
言いながら『期待薄だな』とマッシュは上司から視線を外した。
そもそも本人がこの状態を不満に思っていないのだから、何を言おうとメルや自分の独り相撲だ。
──ひょっとしたらソフィア様もそういうつもりで、あいつもそれに気づいてるから余計に苛立ってる──いや、嫉妬してるのかもな。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「閣下。蜥蜴どもが枯れ枝と組んで、何やら悪だくみをしているようです」
「……そうか」
『黒王』ラーゼンの陣幕で、ダークトロルの側近が報告を行う。
『蜥蜴』とは竜人、『枯れ枝』とはダークエルフの蔑称だ。
しかしその報告を聞いてもラーゼンはまるで動じる様子を見せず、ただジッと対陣するオルデン軍を見つめていた。
「閣下。何をお考えですか?」
「…………」
一〇〇年以上に渡りラーゼンに仕えてきたこの側近をして、今回のラーゼンの行動は些か理解に苦しむものだった。
無論、かつてラーゼンの左目を奪った槍遣いを倒し汚名を雪ぎたいというこの戦いの意図は理解できる。
だがそうであれば今すぐ突撃して奴らを蹂躙すれば良いだけで、このようにダラダラと対陣する意味はどこにも見出せない。
口さがない一部の部下からは、ラーゼンがかつての敗北で臆病風に吹かれたとの声も上がっていたが、彼に限ってそのれはないとダークトロルの側近は理解していた。
隠しきれぬ戦意に爛々と輝くその瞳を見れば、彼が敵を恐れて慎重になっているなど冗談でもあり得ないとすぐに分かる。
「……お望みであれば、私が部下を率いて余計な連中を間引き、例の槍遣いとの決戦の場を整えてまいりますが──」
「不要だ」
ラーゼンの言葉は端的だった。
だが側近も、碌に目的も聞かされぬまま何か月も凡戦に付き合わされ、いい加減我慢の限界が近づいていた。何より──
「そうは仰いますが、このままですと蜥蜴に横から獲物を掻っ攫われかねませんぞ?」
「あり得ぬ」
即答し、そして珍しくラーゼンが苦笑を漏らす。
「──いや、もしあの若造に打ち取られるようであれば、それは俺の見込み違いだったというだけのことよ」
「見込み違い……ですか?」
不思議そうに側近が首を傾げた。その言い方ではまるで、ラーゼンがあの槍遣いがルーカスたちの横槍を打ち破ることを期待しているように聞こえる。
部下の疑問の視線に気づいて、ラーゼンは失われた左目を撫でながらポツリポツリと己の想いを語りだした。
「……かつてあの槍遣いが俺の左目を奪った時、奴はまだまだ未熟で、その穂先が俺に届いたのも決して奴一人の力によるものではなかった。だが俺は同時に確信もしていた。いずれこの男は俺に匹敵する戦士となり得る、とな」
「……だからあの時、奴を見逃したのですか?」
かつてラーゼンがあの槍遣いたちと戦った際、彼は左目を失ったとはいえ、まだまだ戦う力が残っていた。
にも拘らず撤退したのは、あの槍遣いがより食いでのある敵手となって己の前に立ち塞がることを期待してのことかと側近は尋ねたが、ラーゼンはそれをかぶりを横に振って否定した。
「いや。実際にあの時の俺は万全な戦いができる状態ではなかった。あのまま戦えば思わぬ不覚をとる可能性はあっただろう。──まぁ、そのような不完全な状態で決着をつけるには惜しい相手だと色気を出してしまったことは事実だがな」
なるほど、と側近はこれまでのラーゼンの行動に理解を示す。
つまりその後、直ぐに槍遣いとの再戦を望まなかったのは、果実が十分に熟し互いに万全の状態で戦える機会を待っていた、ということか。
しかしそうだとしたら、なおのこと今凡戦を繰り返す意図が理解できない。
機が熟したと判断したのであれば、何故ラーゼンは敵との決着を躊躇うのか。
「……奴は今、武人としては俺と並び立つまでに成長した──が、同時にかつての輝きは見る影もなく失われてしまった」
部下の疑問の視線を受けて、ラーゼンはその理由を語る。
「かつて俺の左目を奪った時、奴は未熟ではあれ純粋な戦士だった。なりふり構わず、真っ直ぐに俺の命を殺りに来た」
視線の先──ラーゼンの視力を以ってしても槍遣いの姿など見える筈がないが、しかし彼には槍遣いの現状が手に取るように視えていた。
「今の奴は武人として完熟の域にあるが、戦士としての純度は見る影もなく劣化し、錆びついてしまった。恐らくは余計なものを背負い過ぎたのだろうよ。あれでは満足いく戦いは望むべくもない」
仮に今ラーゼンが決戦を挑んだとしても、敵は確実な勝利が望める条件が整わぬ限りラーゼンとの戦いは避けようとするだろう。
それは将帥としては正しい判断だろうが、ラーゼンが期待するものではない。仮に戦略戦術により敵を追い詰め戦わざるを得ない状況を作り出したとして、そのような逃げ腰の敵を倒してどうして満足できようか。
「つまり閣下は、蜥蜴どもを槍遣いの錆び落としに利用するおつもりなのですか?」
「さて……」
側近の言葉にラーゼンはそれ以上何も語らず、ただジッと敵陣を見つめ続けた。




