第75話
「領内でダークエルフの斥候を発見した? だから何だというのです」
兄シュヴェルトはオルデン男爵家の嫡男であり、現在は領地を離れている父の代理として領内の全権を任されている。故に、軍務にしろ政務にしろ現在のオルデン領で最終決裁権を有しているのはレゼルヴでも男爵夫人ベルタでもなくシュヴェルトだ。
そんな彼には当然、将来男爵を継いだ時を想定し、腹心と呼ぶべき部下が幾人か存在していた。
「……蛮族側がここまで綿密な下調べをするなんて過去になかったことだ。これは大規模侵攻の事前準備である可能性が──」
「分からない方だな。それは防衛体制や計画を見直す根拠としては弱い、と申し上げているのです」
背中まで伸ばした黒髪と鋭利な眼差しが印象的な青年が、レゼルヴの言葉を遮ってわざとらしく溜め息を吐く。
彼の名はシューレ。代々オルデン領に仕える従士の息子で、現在はシュヴェルトの参謀役として軍務政務全般を補佐している。
今でこそインテリの皮を被っているが、子供の頃はシュヴェルトと共に数々の悪戯を仕掛け大人たちを困らせてきた問題児。レゼルヴにとっても同い年の幼馴染にあたり、過去に散々その悪戯に巻き込まれ酷い目に遭ったこともあって、レゼルヴは今でも彼に少し苦手意識を抱いていた。
今日もメルの「ダークエルフ発見」の報告を受け、兄に領内の防衛体制の見直し、道路工事計画の一時凍結の提案に上がったのだが、同席していたシューレはそれに真っ向から反対意見を唱えてきた。
「度々と言ったところで所詮は一匹二匹の話でしょう。別にダークエルフ自体は絶滅危惧種というわけではないんだ。偶々ということも十分に考えられる──いや、その可能性が高い」
「……それは確かに君の言う通りかもしれない。だけどそうじゃないのかもしれない。ことが防衛に関わるものである以上、最悪の場合を想定して万全を期すべきだろう?」
目の前で繰り広げられるシューレとレゼルヴの議論に、シュヴェルトはどちらに偏るでもなく男爵の席に座ったまま黙って耳を傾けている。
シューレはそんなシュヴェルトに聞かせるように、少し大袈裟にかぶりを横に振って続けた。
「そんな小さなリスクまで言い出したらキリがありませんよ。長いこと領地を離れていたレゼルヴ様はお忘れかもしれませんが、この地は常に蛮族の脅威に晒され続けてきた。万全などというものは最初からあり得ないのですよ。これが平穏な都なら蛮族の目撃情報一つで戒厳令を敷くこともあるでしょう。だがオルデン領でそんなことをすれば領民たちは日常生活さえままならない」
そこでシューレは言葉を区切り、深々と溜め息を吐く。
「それが敵の斥候が増えてきたから大規模侵攻の可能性? そもそも周辺地域で蛮族の攻勢が強まっている以上、我々はそんな可能性は最初から織り込み済みで動いているんですよ。何か大規模侵攻について確定的な情報があるというならまだしも、不確かな可能性の段階でころころ方針を変えられる筈がないでしょう」
「……言いたいことは分かるけど、それは少し極論過ぎやしないか? リスクを織り込み済みというのは、そのリスクが顕在化するまで方針を変えないという意味じゃないだろう。それに小さなリスクとは言うが、君の言うそれは確率の話であって、それが具体化した際の影響の大きさを無視しているように思う。今のオルデン領は父上たちも不在で平時とは異なるんだ。もっと慎重に──」
今のオルデン領は父を含めた主力部隊が領外に派遣されていて防衛力が低下している。従来とは蛮族の侵攻に対するリスク評価も異なってくるはずだ、ということを言いたかっただけで、全く他意はなかった。
しかしそれはシューレにとっては看過できない発言だったらしい。
「──貴方は、シュヴェルト様では蛮族の侵攻を防ぎきれないと言いたいのか?」
シューレの表情と声音に隠し切れない怒気が宿る。
「いや、そういうことを言っているわけじゃ──」
「おい、シューレ」
その過剰な反応にシュヴェルトも窘めようと口を挟むが、シューレはそれを無視して続けた。
「平時とは異なる? そんなことは貴方に言われずとも分かっている。王国最強と謳われた御屋形様がいないのだから、領民が万一のことがあればと不安に思うのは当然だろう。だが我々がその不安を煽るような真似をしてどうする? 軽々しく領民との危機感の共有などと言ってくれるなよ。シュヴェルト様が領民たちに不安を抱かせぬためにどれだけ苦慮していらっしゃるか、貴方は分かっているのか?」
「…………」
領民心理を軽視していたつもりはない──が、その裏にある兄たちの苦労を理解していたかと問われれば、レゼルヴは首を横に振るしかなかった。
「いつ御屋形様や主力部隊が戻ってくるかも分からないこの状況で、悪戯に領民の不安を煽ることがどれだけのリスクか、当然貴方は理解した上で発言しているのだろうな?」
「…………」
シューレの言っていることは間違ってはいない。
だが一方でレゼルヴの言っていることが間違っているわけでもない。
結局これは形のないリスクをどう評価するかの問題だ。例え小さな可能性でもいざことが起こってしまえば『何故備えていなかったのか?』と為政者が非難されてしまうように、実際にことが起きた後でしかこうした判断の正誤を評価することは難しい。
そして実際にこれまでシュヴェルト率いる駐留部隊は、オルデン男爵不在の中、幾度にも渡る蛮族の襲撃をほとんど被害なく撃退してきた。シュヴェルトがいれば男爵不在でもこの地を護り切れるという信仰にも似た空気が駐留部隊の間に流れていることはレゼルヴも把握していたし、それを否定する気もなかった──がしかし、そのことが今レゼルヴと彼らの間に温度差を生んでいる。
駐留部隊がこれまで最小の被害で蛮族を撃退してこれたのはシュヴェルトの奮闘は勿論だが、それ以上に防衛側に有利な戦場を整えてきたレゼルヴたち斥候部隊の働きによるところが大きい。
しかしレゼルヴは兄の立場を慮ってその功績を声高に主張するようなことはせず、結果的に駐留部隊の間には『自分たちの力だけで蛮族を撃退した』という事実とは異なる認識が蔓延してしまった。
実際にはオルデン領の現状は綱渡りとまではいわないが決して楽観できるような状況ではない。
今のところは何とか上手く回っているが、もし斥候部隊の目をかいくぐって奇襲を仕掛けられでもしたら駐留部隊は相当な被害を受けることになるだろう。
またそうでなくとも、単純に敵がこちらの許容範囲を上回る戦力で攻め込んでくれば、こちらがどう戦場を整えたところで劣勢は免れない。そしてそうなった時に経験の浅い兵士たちがどこまで踏ん張れるかは未知数だ。
そうした危機感をシューレたちと共有できていないことにレゼルヴは内心で歯がみしつつ、チラと兄に視線をやって様子を窺う。
──兄上もあまり領民たちを不安にさせたくはないって感じか。確かに、今の段階で危機感を煽るのはリスクが高いのかもしれない。
「……分かった。防衛体制については君の言う通りでいい。ただ道路工事についてはやはり一旦凍結しないか? 工事だけなら不安を煽らずに中断する口実は幾らでもある。敵の動きが読めない以上、戦力リソースは分散させるべきじゃない。その人手を使って防柵や罠でも設置すれば、領民も安心するだろう」
レゼルヴの折衷案に、シュヴェルトがホッとした表情を見せる。
「そうだ──」
「いけません! 工事は予定通り実行します!」
しかしシューレは主の言葉を遮って、レゼルヴの提案をキッパリと否定した。
彼は主家二人の視線を受け止め、噛みしめるようにその理由を口にする。
「……半年後にはソフィア様の輿入れが控えています。そしてその席では辺境伯閣下にシュヴェルト様が為した再編事業を披露する予定だ。道路整備だけでなく砦の仮設置も残っているというのに、これ以上工事を遅らせるわけにはいかない」
その言葉をシュヴェルトは苦笑いして窘めようとする。
「いやいや、そりゃそうできたらいいなって話はしてたけど、それとこれとじゃ優先順位が違うだろ」
「シュヴェルト様の門出に瑕をつけるわけにはいきません! 誰もが納得するようなやむを得ない事情があるならともかく、武門の棟梁となるお方が見えぬ敵を恐れて計画を変更したなどと伝われば、それを怯懦と謗る者が現れかねない!」
「……シューレ。俺の体面を気にしてくれるのはありがたいけど、今は父上もアハスもいないわけだし──」
「御屋形様がご不在でもシュヴェルト様がおられます!! 貴方さえいればオルデンの護りは万全だ! いつまでも御屋形様がおられるわけではない! いずれ貴方と、我々で、この地を護って行かなければならないのです! 今回の一件はそれができるということを内外に示す良い機会でしょう!?」
「…………」
今こそ次期オルデン男爵として証をたてる時だと訴える腹心に、シュヴェルトは困った顔で押し黙る。
そしてレゼルヴも、一瞬己に向けられたシューレの視線に、何故彼がこれほどまでに焦っているのかを理解してしまい、口を挟むことができなかった。
シューレたちも木石ではない。周囲が隠そうとしていても伝わるものはある。自分の存在が彼を突き動かしているのだと理解したレゼルヴは、それ以上何も言うことができなかった。




