第72話
青年期編、前半最終話。
初めて会ったのは七歳の時。
その時の彼女は偶々旅先で出会った歳の近いお嬢様で、お互いこんなに長い付き合いになるとは思いもしなかった。
それから同じ学院に通って、同じ教室で学び、同じ師との別れを経験して慰め合い、残された仕事を手を取り合って形にしていった。
思春期──子供から大人へ、男と女へと変わってく過渡期で、一番長く同じ時間を過ごした。
ただお互いに立場も責任もあった。
誓ってそうした関係ではなかったし、つとめてそんなことを考えないよう意識していたのだと思う。
とは言えきっと、そんなことを意識してしまった時点で手遅れではあったのだ。
レゼルヴ・オルデンにとってソフィア・ヴァイスベルクという少女は──
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「…………」
兄シュヴェルトとの対話の後、レゼルヴは気がつけばそこにいた。
兄とは上手く穏やかに別れることができただろうか?
『自分に不満はない』『家を出るつもりもない』──そんな趣旨のことを伝えたつもりだが、実際その時自分がどんな顔でどんな言葉を告げたのか、レゼルヴはほとんど覚えていなかった。
良かれと思った自分の行動が結果的に兄を追い詰めていて、しかもその兄から『逃げていい』と情けまでかけられ、死にたいような気持ちとはきっとこういうことを言うのだろうと思う。
ふと我に返った時には、レゼルヴは日に一度しか使えない転移呪文まで使ってオルデン領を飛び出し、ヴァイスベルクの学院にある自室兼研究室までやって来ていた。
今日はもう自力ではオルデン領に戻れない。何も言わずに飛び出てきてしまったので、きっと家族やメルたちは心配しているだろう。
どうにかして連絡をとらなければ、とは思ったが、億劫でそんな気持ちにもなれなかった。
窓の外の太陽は既に大きく傾いていて、夕日が研究室に差し込んでいる。
茜色の光に照らされたベッドのシーツは、ちょうど人一人分の大きさに膨らんでいた。
「…………」
「…………」
シーツの中から聞こえる息遣いに彼女が起きていることを察したレゼルヴは、何も言わずベッドの端に腰を下ろす。
沈黙が流れる。一時間か二時間か、あるいはほんの一分ほどだったのかもしれない。
先に口を開いたのはレゼルヴの方だった。
「兄上とのこと、聞いたよ。おめでとう、でいいのかな?」
「…………好きにすれば」
シーツにくるまったまま、ソフィアから返事があった。
いつもよりどこか抑揚のない声音でそっけなく──そこに失望めいた感情を感じたのは、彼の気のせいだろうか?
「突然だったから驚いたよ」
そして自分の声はちゃんといつも通りだろうか? 非難めいたものになっていやしないだろうかと、不安になる。
「…………私も」
シーツが芋虫のようにモソモソと形を変え、しかしやはり包まったままでソフィアはポツリ、ポツリと続けた。
「お父様から、十日前に突然『婚約が決まった』って言われて……私も驚いた」
「……でも、半年ぐらい前から、それっぽい予兆はあったんだろう?」
「…………」
ソフィアは少し黙り込み、再び口を開く。その声音は拗ねているようにも弁解しているようにも聞こえた。
「……あったと言えばあったけど、別に歳の近い男の人と引き合わされること自体は珍しくないもの。大抵、話が合わなくて一度か二度会ったら終わりだしね」
「てことは、兄さんとは話が合ったんだ?」
違う。こんなことを言いたいわけじゃない。
「っ! いい人だとは思ったけど、それはただ共通の話題があったからで……」
「ああ。兄上が私の昔のことを君にベラベラ話してたんだって? まさかあの人が情報源だとは予想外だったな」
いつも通り軽口を叩いているつもりなのに、思考がフワフワしていて言葉が上滑りしている気がする。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせるが、レゼルヴの口は勝手に動き続けた。
「まぁ何にせよ、拒否しなかったってことは、ウチの兄上を悪くない相手だと思ってくれたんだろう? 何せ君には逃亡の前科がある。辺境伯も君の気持ちが固まらないまま婚約を発表することはないだろうからね」
「…………まぁね」
レゼルヴは自分で自分に呆れた。一体自分はこんなことを聞いてどうするつもりだったのだろう。彼女の立場でその口からYES以外の答えが返ってくる筈もないのに。
胸の痛みを誤魔化すように、レゼルヴの口はベラベラと言葉を紡ぎ続けた。
「……これからはもう、こんな風に一人で私の研究室に出入りするのは控えてくれよ? 今更有り得ないことではあるけど、お互い立場ってものがあるんだ。対外的に不貞を疑われるような行動は慎まないとね」
「…………」
「聞いてるかい?」
「……うるさいな」
本当は、今こうして二人きりでいることさえアウト──いや、そもそも未婚の貴族の令嬢が男の部屋に一人で出入りしていたこと自体、本来あってはならないことだったのだ。
ソフィアに注意しながら『いったいどの口で言っているのか』とレゼルヴは自嘲を禁じえなかった。
──帰ろう。私はもう、ここにいるべきじゃない。これ以上ここにいたらきっと……
レゼルヴがソフィアを追い出すことを諦め、ベッドから腰を上げようとしたその時、ソフィアがポツリと口を開く。
「……お父様は、貴方のことを気に入ってたわ。お兄さんが駄目とかじゃなくて、それ以上に貴方のことを気に入ってたの」
「それは……光栄だね」
レゼルヴは持ち上げかけた腰を下ろし、そんな返事をひねり出す。
本当は否定すべきだったのかもしれないが、五年以上ヴァイスベルクに留学していたレゼルヴの方が兄より辺境伯との接点は多く、彼がレゼルヴを高く評価してくれていたことは感じていた。
「元々、お父様は私の結婚相手に、お兄さんじゃなくて、貴方をと考えていたんですって」
「!」
狼狽で隠しようもなくレゼルヴの表情が歪む。彼はソフィアがシーツにくるまったままで、この部屋に他に誰の姿もないことに心から感謝した。
「……へ、へぇ」
「ただ、そうは言っても私が貴方に嫁ぐとなるとオルデン家の継承順位に影響を及ぼしかねないから現実的じゃないし、婿に取るとしても下の弟さんはまだ成人もしてない。オルデン男爵がうんとは言わないだろうって直ぐに諦めたみたいだけどね──表向きは」
「……表向き?」
結婚相手を選ぶ話に裏も表もあるのだろうか?
「そう。表向き諦めたフリをしてたお父様だけど、プロジェクトを通じて領内を富ませ、学院でも最年少で出世していく貴方を見て、いっそ既成事実を作ってしまえばいいと考えたの」
「既成事実──って、まさか!?」
シーツの中で、自嘲気味にソフィアが笑う。
「……ええ。私もおかしいと思うべきだったわ。子供の頃からずっと当たり前だったから今更疑問にも思わなかった。こうして私が一人で自由に貴方の研究室に出入りするなんて、本来許される筈がなかったのにね」
つまり辺境伯はレゼルヴがソフィアに手を出すことを望んでいた。そうして娘が疵物にされてしまえば、父オルデン男爵もレゼルヴを婿に出すことを否とは言えまい。
だがレゼルヴはその意図に気づくことなく、ソフィアに手を出さないまま時間が過ぎてしまった。
それは間違いなく正しいことだ。だが──
「私がお兄さんの婚約者になったのは君のせいだよ──って言ったら、どうする、レゼ?」
その意味が分からないほど、レゼルヴは愚鈍でも朴念仁でもない。
ソフィアが何を望み、どれほどの勇気を振り絞ってその言葉を口にしたのか、分からない筈が無かった。
もう遅い?──いや、自分にその覚悟があり、本気でそれを望むのであれば、遅いことなど何もない。
レゼルヴ自身が、そう願いさえすれば──
「──……っ!」
だがレゼルヴは伸びそうになった右手を左手で押さえつけ、奥歯を音が出るほど強く噛みしめる。
その気配がシーツの中のソフィアにも伝わったのだろう。
「…………ごめん。出てって欲しい。今日で、最後にするから」
震える声で告げられ、レゼルヴは無言で己の研究室を後にする。
そしてその背に少女のすすり泣く声を聞きながら。
その日ようやくレゼルヴは、遅い──遅すぎる初恋を自覚した。
本話をもって第三部青年期編前半は終了。
幕間を挟み、第四部ではようやくプロローグに時間軸が追いつき、主人公の次男として最後の戦いと決断を描いていく予定です。
暗い展開が続きますが、最後は前向きな結末を迎えられればと思っておりますので、引き続きお付き合いいただければ幸いです。




