第2話
「光……光の……何て読むんだ、これ?」
レゼルヴは屋敷の屋根裏に作った秘密基地で、兵士の詰め所からくすねてきたランプの光源を頼りに分厚い本を読みこんでいた。
毛布にくるまりゴロゴロ転がりながら辞書を探す。傍らにはやはり父の書斎からくすねてきた本が山積みになっていた。根っからの武人である父はほとんど本を読まない。書斎には貴族の見栄のために揃えられた高価な本が並んでいるが、十冊やそこら無くなっても父が気づくことはないだろう。
「え~? これ意味が繋がらないような……」
辞書を引いても、幼いレゼルヴではその引いた言葉の意味が分からないケースも多い。その言葉をさらに辞書で引いて、それでも分からないところはメモにとって後で人に聞き、確認しながら少しずつ読み進めていく。単語だけではなく、文法、発音、熟語、全てその繰り返しだ。
大人でも嫌になりそうな地道な解読作業を、レゼルヴは普段の彼を知る者からすれば驚くほどの集中力とやる気で続けていた。
本のタイトルは『初級魔術教本』──学院で使用されているものと比べれば初歩も初歩の子供だましのような内容だが、才ある者が読み込めば魔術を習得可能な本物の魔導書だ。
共通語と古語が織り交ぜられた文章は標準的な高等教育を受けた者でも初見では理解困難な内容だったが、レゼルヴは半年がかりでその十分の一程度まで解読に成功していた。
その原動力は言うまでもなく「魔法(魔術)を使ってみたい」というもの。
魔術の存在に触れた者なら一度はかかる麻疹のようなものだが、通常その罹患期間は極めて短い。そもそも貴族などの富裕層でもなければ魔術師に弟子入りするどころか高価な魔導書を購入することもできないのだから、大抵の場合は微熱止まり。拗らせて魔術熱に浮かされても、適度な休息を間に挟めばあっという間に熱は引いてしまう。仮にそれを乗り越え発熱し続ける虚弱な者にも今度は現実という名の処方箋が立ちふさがるのだ。
加えて魔術はロマンこそあれ、あまり使い勝手の良い技術ではない。
前提とされる知識や環境、根気、適性などのハードルをクリアして魔術を習得できたとしても、初歩の魔術はほとんど子供だましのような代物だ。攻撃魔術は弓矢どころか投石と同程度の威力と射程しかないし、光源や火種などは火打石を持っていれば事足りる。勿論、初歩でも使い方次第で有益な魔術は存在するが、それも駆け出しの内は日に一、二度使えば打ち止め。そんな不便な技術の習得に時間と労力を割くぐらいなら、弓の扱いやサバイバル技術、手品でも学んだ方が効率的、というのが世間一般の常識的な考えだ。
勿論、駆け出しを超えて一人前と呼べるレベルにまで熟達すれば話は別だが、そこまで至れるのは魔術師の中でもほんの一握り。魔術とは一部の者にのみ許された特殊な学問であり、汎用的な技術とは対極に位置する代物だった。
「えっと……『光の精よ 起きよ 起きよ 起きよ──【光】!』」
何とか魔導書を自分なりに解読し、たどたどしい古語で初歩の初歩とされる【光】の呪文を唱える。
「…………」
十秒、二十秒と経過するが、何も起こらない。
「……『起きよ! 起きよ!──【光】』」
右手をかざして繰り返し呪文を唱えるが、やはりその掌にはホタルの死骸ほどの光も生まれることはなかった。
「うう……何でだぁ……?」
「プゥ~、クスクス」
「──誰だ!?」
誰もいない筈の秘密基地に笑い声が響き、レゼルヴはハッと声のした方へと振り返る。するとそこには、屋根裏へと通じる小さな点検口を持ち上げて、彼と同年代の少女がひょっこり顔を出していた。
「メル!」
男爵家に仕える従士の娘、メルだ。彼女は断りもなく屋根裏の秘密基地へと侵入。口元に手を当てニヤニヤ笑いながら悪びれることなく口を開いた。
「クスクス……あ~、ごめんなさい。気にせず続けてくださいな」
「~~っ! メル!」
魔術の失敗──いや、そこに至る一連の流れを見られた気恥ずかしさで、レゼルヴは顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
「ここは僕の秘密基地だぞ! 勝手に入るな! 出て行け!!」
「大きな声出すと、折角の秘密基地が見つかっちゃいますよ~?」
「!」
「──あ、こっちにあるもの使わせてもらいますね~」
レゼルヴがハッと口を押えた隙に、メルは彼が持ち込んだ荷物をまとめた一角に移動。備の毛布や雑貨などを使って基地内に勝手に自分のスペースを作り始めた。
「あ! こら、何やってるんだ!?」
「広くて過ごしやすそうだし、ここ、時々私も使わせてもらおうかな~って。ちょうどクソ親父から隠れるのにいい場所を探してたんです」
「何を勝手な──」
「ここに転がってる本って御屋形様のものでしょう? 勝手に持ち出したなんてことが知れたら、大目玉でしょうね~」
「~~っ!」
「大丈夫ですよ。口止め料代わりに、すこ~し休ませてくれれば誰にも言いませんから」
「…………」
レゼルヴが不機嫌そうに押し黙ったのを了承と解釈し、ニシシと悪戯っぽく笑うメル。レゼルヴはこの一歳年上の早熟な少女が苦手だった。
はしっこくて小賢しく、偶に顔を合わせればこちらをからかってばかり。唯一の救いはレゼルヴの兄シュヴェルトとは距離を置いていて、他の子どもたちのように危険な遊びにレゼルヴを巻き込もうとしないことぐらいだろうか。
手際よく毛布を丸めて寝床を作ったメルは、ふと思い出したように振り返り、意地悪く笑う。
「あたしのことは気にせず続けてくれていいですからね──魔法使いごっこ」
「ごっこじゃない!」
からかわれているとは分かっていたが、ついムキになって言い返してしまう。
「これは本物の魔導書なんだ! ちゃんと魔法が使えるようになるって書いてあるんだぞ!?」
「へ~? さっきは失敗してたみたいですけど?」
「うるさい! まだ練習中なんだ!」
「それに魔法使いって長い杖を持っててお髭を生やしてるんじゃありません?」
「杖はあった方がいいけど、なくても何とかなるって書いてあった! お髭はすぐに生えてくる!」
「え~? ツルツルの坊ちゃんに生えるかな~?」
「生える! すぐにもじゃもじゃになるから見てろ!!」
ニマニマと笑うメルから真っ赤な顔を背け、レゼルヴは再び魔導書に視線を落とす。
邪魔者がいる中で再び魔術の練習をする気にもなれず、仕方なく彼は魔導書を読み返して先ほどの呪文が何故失敗したのか原因を考察することにした。
メルは少しからかいすぎたと思ったのか、それ以上何も言わず作った寝床に転がり目を閉じる──それから一時間ほどが経過しただろうか。
ふと目を開けて横を向くと、目を閉じる直前とほとんど変わらぬ姿勢で魔導書とにらめっこしているレゼルヴの姿が目に入った。
「……よく、そんな分厚い本が読めますね。面白いんですか?」
「面白いわけないだろ」
振り返ることなく即答するレゼルヴ。
「面白くないのに何でそんなこと……誰かに読めって言われたんですか?」
「そんなわけあるか。父様も母様も『オルデン男爵家の男児なら本を読む暇があれば身体を鍛えろ』っていつも言ってる。ウチは脳筋だからな」
「……それは坊ちゃんが貧弱すぎるから心配されてるんですよ」
「うるさい」
素っ気なく答えるレゼルヴ。
メルは寝転がったままジッとその背を見つめる──と、その無言の圧力に耐えかねたように、レゼルヴは大きく息を吐いて口を開く。
「……僕は兄さんと違って身体が小さいからな。兄さんは今の僕の歳にはとっくに父様から武芸を習い始めてたのに、僕はまだ早いって全然相手にもしてもらえない」
「…………」
メルは肉体的に早熟なシュヴェルトと比べても仕方がない、とは思ったが口には出さなかった。次男のレゼルヴは常に嫡男のシュヴェルトと比較され続ける運命なのだ。仕方ないなどと慰めを口にしても意味がない。
だがメルの想像とは異なり、レゼルヴはそこで諦めてはいなかった。
「多分、武芸で勝負しても僕は兄上には勝てない。だからそれ以外の力を身に着けるんだ」
「……へぇ」
前向きに、自分の得意分野を伸ばそうと努力するレゼルヴの姿勢にメルは少しだけ感心する。
今初めてこのことを知った彼女には、まだレゼルヴがどの程度本気なのかは分からない。どんな努力を積み重ねてきたのかも、それが実を結ぶのかも。だが少なくともいじけて何の努力もしないまま不貞腐れているよりは余程好感が持てた。
「今に見てろ。いつか星を降らせるぐらいの大魔法使いになって、兄さんも父様も母様も──ついでにお前も、みんな見返してやる」
その背からにじみ出る、幼い決意。
それを微笑ましく感じて、メルはついからかうような言葉を口にしてしまう。
「ど~ですかね~? レゼ坊ちゃん、ツルツルだしな~」
「! だからすぐにもじゃもじゃになるって言ってるだろ!!」
「いやいや。坊ちゃん、どう見ても奥様似じゃないですか。貫禄のあるもじゃもじゃは無理があるんじゃないかな~?」
「無理じゃない! 僕はもじゃもじゃになる! すごい白髪のもじゃもじゃだ!!」
「ニシシ、それは似合わないと思うな──」
「似合うんだ──!」




