第1話
「あ! レゼルヴ坊ちゃん、こんなところにいらっしゃったんですか?」
掃除中、使用人の下女が書斎の机の下で小さくなり、隠れるように本を読んでいた主家の次男を見つけて目を丸くする。
「お兄様が探してらっしゃいましたよ? 一緒にお外で遊べばよろしいのに」
「……疲れるからやだ」
下女が近所の子供たちを引き連れて遊んでいる長男が探していたと告げるも、次男は一瞬嫌そうな顔して顔を上げるとすぐにまた視線を本に落とす。
これはきっと長男の遊びの誘いから逃げてきたのだな、と下女は苦笑した。
オルデン男爵家の次男──レゼルヴという少年は、良く言えば大人しく早熟、悪く言えばひ弱でひねた子供だった。
この時、彼は齢五歳。肉体的に歯同年代の子供と比べても一回りは成長が遅く、白アスパラガスのように華奢。くすんだ銀髪と灰色の目はそんな彼の線の細さを一層際立たせていた。
反面、知能の発達は水準よりかなり早く、中央の貴族の子女でも読み書きを習い始めるかどうかの年齢で、既に多くの本を読みこんでいた。まだ子供向けの童話などが中心で神童と呼ぶほどではないにせよ、かなりませた子供であることは間違いない。
下女はそうしたレゼルヴの早熟さをある種の逃避からくるものだと理解していた。
オルデン男爵家は武門の家柄であり、その男子は概して体格が良く身体能力も高い。また臣下も武闘派揃いで、その血を引く子供たちも親に似てやんちゃな者が多かった。
この年頃の子供にとって喧嘩の強さや運動の出来不出来は分かりやすいステータス。生来貧弱なレゼルヴは周囲と比較されることを嫌がり、引き籠って本を読んで過ごすことが多くなってしまった。
下女の目から見ても男爵領の子供たちは些か元気過ぎて冷や冷やすることが多い。付き合わされるレゼルヴに同情する気持ちがないわけではなかったが、こうして引き籠っているのは好ましいことではなかった。平民の子供ならともかくレゼルヴは男爵家の次男。長男に万一のことがあれば男爵家を背負って立たねばならない立場の人間だ。そんな彼が周囲と没交渉であってよい筈がない。
「少しは日に当たらないと余計身体が弱くなっちゃいますよ。疲れるなんて年寄りみたいなこと仰ってないで、さあさあ」
「兄さんたちに付き合ってたら身体が強くなる前に死んじゃうよ」
「そんな死ぬだなんて大袈裟な──」
「この間は大岩から滝に放り投げられて死にかけた」
「あ~……」
「その前は大猪の縄張りに僕一人だけ置いて行かれて、アハスが助けてくれなけりゃ食べられちゃうところだった」
「……あれだけ叱られたらお兄様たちも懲りてますよ」
「そろそろ叱られたことを忘れてやらかす頃合いだと思うんだ」
「…………」
「最近、僕の役割はやんちゃの過ぎた兄さんがうっかり死んじゃった時に備えて大人しくしてることなんじゃないかと思うんだ。ほら、二人とも同じことしてたら何かあった時に万一の時のスペアにならないでしょ?」
そうかもしれない──少年の口から出たスペアという冷めた言葉を否定するのも忘れて、思わず下女は同意してしまいそうになった。
年齢不相応に弁の立つレゼルヴに、下女が嘆息し説得を諦めかけたその時。
──バン!
「レゼ! いるか!?」
ドタドタ足音を立てて書斎に乱入してきた元気な人影が一つ──男爵家の嫡男、レゼルヴの兄シュヴェルトだ。
「…………」
レゼルヴは下女に向けて『しーっ』と必死にアピール。下女はどうしたものか迷い暫し無言を貫いたものの、それは全く無意味な抵抗だった。
「そこか!!」
勘の良いシュヴェルトはまっすぐ下女の足元に駆け寄り、レゼルヴが隠れている机の下を覗き込む。
「いた!」
「……いません」
レゼルヴは諦め悪く心底嫌そうに顔を背けるが、兄は気にすることなく弟の身体を机の下から引っ張り出した。
「レゼ! 今日はシューレたちと一緒に西の沢に遊びに行くぞ! 木苺がたくさんなってるところを見つけたんだ!」
「……僕はお腹の具合が良くないので──」
「木苺を食べたら一緒に剣術の訓練をしよう! この間、父様に筋がいいと褒められたんだ! レゼにも教えてやる!」
「…………」
話を聞く様子の無い兄に弟が無言で溜め息を吐く。
その様子を横で見ていた下女は、何とも対照的な兄弟だと苦笑を噛み殺した。
兄であるシュヴェルトはレゼルヴとは二歳違いの七歳。男爵譲りの赤い髪と目を持つ陽の気を押し固めたような少年だった。
体格も同年代の子供たちより一回り以上大きく、既に男爵家の兵士たちに交じって簡単な訓練を受けていると聞く。
裏表がなく聡明で子供たちからの人望も厚く、多少やんちゃが過ぎる部分はあるものの、それも武張った男爵家では好意的に受け取られている。周囲からは早くも『さすが御屋形様の嫡男』『良い後継者に恵まれ男爵家も安泰だ』と高い評価を受けていた。
その分、華奢な弟は兄と比べられて肩身の狭い思いをしており、そのことが余計弟の引きこもりに拍車をかけていたわけだが。
「僕は今本を読んでいるので──」
「それはまた今度だ! 身体を動かさないと大きくなれないぞ!」
「……なれなくていいです」
「何だ、フォーに馬鹿にされたことを拗ねてるのか? 俺があいつに謝らせてやるから──」
「しなくていいです。ていうか絶対するな」
「ん? そうか?」
何ともチグハグな噛み合わないやり取り。その光景に下女は人懐っこい大型犬と、気難しい子猫を幻視した。
レゼルヴは倍近く背丈の違う兄の手を振り払い、高く可愛らしい声を精一杯低くして告げる。
「とにかく、僕は行きません。西の沢には兄さんたちだけで行ってください」
「何でだ!?」
「行きたくないからです」
「何で行きたくない!?」
「兄さんがうざくて乱暴で嫌いだからです」
「!? 嘘だ!」
「嘘じゃありません」
「嘘だ嘘だ!」
「二回言っても嘘じゃありません」
「嘘だ嘘だ嘘だ──」
「何回言っても駄目です」
「……嘘だよな?」
「…………」
シュンと眉を下げて悲しそうな顔をするシュヴェルトに、レゼルヴはそっと目を伏せる。
「……僕がいると行きたいところにも行けないでしょ」
「俺が背負ってやるさ!」
「……こないだみたいに、僕が足を引っ張って父様に怒られるかもしれませんよ」
「心配するな! 今度はイノシシなんて俺が倒してやる!」
「いや、そこは逃げましょうよ。絶対無理だから」
「うっ……」
レゼルヴに冷静にツッコまれシュヴェルトが怯む。
そんな兄に弟はハァと溜め息を吐いて続けた。
「……シューレでもフォーでも、遊ぶ相手はいくらでもいるんだから僕がいなくてもいいでしょう」
「そんなことない! 俺は……レゼがいないとつまんないよ」
「────」
真っ直ぐな言葉をぶつけられてレゼルヴは暫し言葉に詰まり──再度大きな溜め息を吐いた。
「……ハァ。今日だけですよ」
「! うん!」
その言葉に兄は目を輝かせ、弟の手を引き書斎から飛び出していこうとする。
その弾みで弟が手に持っていた本が床に落ちてしまうが、下女が目配せで『片づけておきますよ』と告げると、弟は諦めたように兄に引きずられ、すぐにその姿は見えなくなった。
仲睦まじい兄弟の姿に下女は頬を緩め、床に落ちた本を拾う──と。
「あら」
てっきり児童書か何かだと思っていた本が、難しい戦術の本であったことに驚き目を丸くする。
パラパラとめくって読んでみるが、その内容は彼女が見てもチンプンカンプン。到底子供に理解できるような内容ではない。恐らくレゼルヴも内容が分かって読んでいるわけではあるまいが──
「ふふっ。レゼルヴ坊ちゃんもやっぱり男の子ですねぇ」
普段兄君の下でスペアだなんだとひねた態度をとっているレゼルヴの、少年らしい本音を垣間見た気がして下女はそっと微笑んだ。




