俺は突然にすがりつく
翌日には、袋いっぱいの絵本を抱えたノゾミがトオルの部屋にやってきた。
「……ほら絵本! これ、その子に読んであげて」
「わ、ありがとうございます。よかったなシイコ、主任が本たくさんくれたぞー」
シイコは手をたたいて喜んだ。トオルが読み聞かせようとしたが、それより早く、シイコは好きな本に手を伸ばして、自分で読み始めていた。
「ね、シイコって、その子の名前?」
「そうですよ。ハッピーシードから生まれたから、シードからとって、シイコ。俺が考えたんです。なー、シイコ」
シイコもにこにこと喜びの顔を見せる。言葉は話せないものの、名前は気に入っているらしかった。
「もっといい名前なかったの? タネコとか」
タネコて。トオルはあきれたようにつぶやくと、目の前の人間がノゾミであることを忘れたかのように批判した。
「……俺の発想と大差ないしそっちのがダサい気がしますが」
「うるさいわね!」
そのときだった。インターホンがたいそうにぎやかに――無論これはトオルの体感である――鳴った。
「ん? お客さんかしら?」
ノゾミが自主的に玄関へ向かう。
しかしトオルにはわかっていた。このインターホンの主は、間違いなく――
「いや……、たぶん……、」
「わああああああ」
聞いたことのないようなノゾミの声がした。完全に冷静さを欠いた声だった。
「主任!」
「はいどーもー! 種田たねもの屋ですぅ!」
ミヤコががしがしがしがしと強引に突入してくる。ノゾミは完全に気圧される形で、トオルの元に戻ってきた。
「誰あんた!」
「見てのとおりのたねもの屋ですが」
「見てわかんないから聞いたのよ! なんなの!」
あ、やっぱり見てもわかんないよな、トオルはぼやけた考えを浮かべた。この数日ミヤコの襲来にすっかり慣れきってしまって、むしろ今日はおとなしいほうだとすら思う自分が、なんというか面白かった。
「幸野さんからお聞きになってないんですか。ハッピーシードのアフターフォローですよ?」
「……です。シイコの様子、一日一回見に来てるんですこのひと」
ノゾミは上から下までミヤコを見ると、完全に敵意むき出しの状態で言い放った。それこそトオルがびくっと、すこし震えるくらいには。
「ハァ――。あんたなの。うちの会社に種納品して幸野にタネコ育てさせてんのは!」
「えー。ご注文されたのは幸野さんですよ?」
「あの、タネコじゃなくてシイコです、主任」
「うっさい黙って! たねもの屋、あんたね、うちの部下になにしてくれてんのよ!」
「言われても。【望んだ】のは、このかたですが」
とにかく噛みつくノゾミに、ミヤコは驚くほど冷静だった。いっそ総務部に来て仕事してほしいと、のちにトオルが述懐するほどだった。
ただ、「望んだのはトオルだ」との言葉に、ノゾミも、そしてトオル自身も、それまでの思考が止まった。
「――え?」
「――は?」
ミヤコはシイコをよしよしとあやしながら、ふたりに説明した。
「ハッピーシードは、本当に幸せになりたくてたまらない、自分の気持ちをかなえたいひとのもとに届くといいます。幸野さん、あなた自分でも知らないうちに、引き寄せたんですよ。この種を。じゃなきゃあたしが納品した種の中からあなたのもとにきたりはしないでしょ?」
「そりゃあ、まあ……」
シイコが誕生するまでのことを思い出しながら、トオルはぼんやりとつぶやいた。引き寄せた、という言葉に、すこしの運命を感じながら。
「……順調に育ってますねえ。なんか幸せなことありました?」
ミヤコはまるで子どもの定期健康診断における保健師のようなことを言った。
「いや、特にないな……。一緒に遊んで疲れて眠るだけだよここんとこ」
「…………花は、幸せそうですか?」
「そうなんじゃない? この子よく笑うわよ、いつも楽しそう」
なんだかんだでノゾミも毎日トオルのもとに来ているから、シイコの様子は目にすることになる。思い返しながら、口をはさんだ。
「そろそろ俺が幸せになってもいいと思うんだけどな。宝クジ当たるとかいい部屋住めるとか、そんくらいないもんかな」
期待をこめてそう言ってみたトオルの言葉を、ミヤコは即座に否定した。
「……ない、でしょうね」
「はい!?」
「この子――花が喜んでいるのに、あなたが幸せと思わない。ということは、それがあなたの本当の幸せではない、そうではないでしょうか」
トオルは戸惑った。大金を手にするでもなく、豪邸に住むでもない、幸せ……?
「本当の……」
「ハッピーシードは、育て主の気持ちに忠実なんですってよ。あなた、自分の幸せが、お金とかそういうことだとは思ってないんですよ。――たぶんね」
「いや、でも、それってどういう……」
「――それとね。あなたが本当に、幸せだ、満たされた、と感じたら――ハッピーシードはね、種に戻るんですよ」
ふたりは唖然とした。ノゾミが先に、言葉をつなぐ。
「戻る……? 種に……?」
「枯れる、ってことか?」
「いや、枯れるってのとも違いますけどね。いま、そうなってない、っていうのも、あなたが幸せになっていない、いい証拠ですよ。そいじゃまた来ます、じゃっ!」
「ちょっ!」
ミヤコは言うだけ言うと、そそくさと出て行った。
唖然としたままのふたりはしばらく、何も言えずにいたが、ようやく、思い出したようにノゾミが言った。
「……たねもの屋はいつもああいう感じなの?」
その通りである。
「……ハイ」
「気になることを言ってたわね。あんたが幸せを感じたら、この子、種に戻るって?」
そんな説明を聞くのは、トオルも、初めてだった。
シイコが種に戻る。つまり……
「でも! 俺、いま、幸せとは思ってませんし……あー、でももうすぐ休み終わっちゃう……」
キリンの幻覚休みは一週間。実際、あと数日で終わってしまう。次の言い訳を考えるか、さもなくば本当に育児休暇を取るかしなくてはならない。
「そうなれば昼間はこの子ひとりになるわねえ」
「ああああだめだそんなの! ちっちゃい子ひとりにはしとけないですよ!」
「そんなこと言ってもうちの会社には託児所なんてないし……保育園……とか幼稚園、は、いまからじゃとても無理か、困ったわね」
ノゾミが本当に困ったように言うから、トオルは思わずすがってしまった。
「作ってください!!」
「無茶苦茶言うのやめなさいよ!」
強く言ったが怒ってはいないノゾミの口調に、しゅんとするトオル。場を取り繕うように、ノゾミは「会社戻んなきゃ」と慌てた。
「……すいません。ちょいちょい来てもらってて……」
「……別に。課長はあんたがキリンの幻覚見てるって信じてるからね。外回りのついでに様子見に行ってきます、で通用してんのよ、いまのとこ」
まさかの課長までキリンの幻覚を信じていた。まあ直接トオルの奇怪な笑い声を聞いたものだから無理もないところではあるだろうけれど、申し訳なかった。
「…………ありがとうございます」
「仕事はたくさんたまってるからね? タネコのこと、ちゃんと決めたら、連絡しなさい。あんた育ての親なんだから」
トオルはいろいろと何も言えなくなった。ようやく
「シイコです…………」
とだけ吐き出せたが、ノゾミはさっき見せた、困ったような顔でトオルの頭を軽く小突くと、仕事に戻っていった。
トオルは大きなため息をついたが、すぐ、シイコにねだられて絵本を読み聞かせてやるのだった。途中で眠くなってしまって、シンデレラが鬼退治に行ったり毒リンゴをつくったりとんでもない方向に話が飛躍してしまったが、シイコは楽しんでいたようだった。そのやりとりは、本当の親子のようだった。