生まれて初めて便Pになった中年
これは爽やかな風が吹き抜ける五月の事である。私は食パンをかじりながら朝のニュースを見ていた。スズメが外でチュンチュンとさえずっている。
「小型の隕石が南太平洋沖に衝突。ニアミスした漁船が今日無事帰港」
オシャレなのかよく分からない、謎のラインが多数入った服を着た女子アナが話していた。ネットの情報だと、どうやらニアミスと言ってもすぐ脇に落ちた訳ではなく、衝突の衝撃で起きた波が漁船を襲ったらしい。実際航行に大きな支障はなく、漁は滞り無く行われたのだと言う。全く、いつもメディアは大げさに報道する。妻が用意してくれた料理(と言ってもトーストとサラダだが)を食いながら心の中で愚痴を吐く。でも飯を作ってもらえるだけありがたい。私は家事なんてろくすっぽ出来ないからな。そして朝飯を食い終わったらすぐ歯を磨くのが日課だ。私は歯磨き粉は多めに付けるのが好きである。だが口を開けてガシガシ歯を研磨すると、飛沫が飛んで汚いと文句を言われるので控えめにしておく。この口の中がミントの爽快感ときめ細やかな泡で包まれる感じがたまらない。この歳になってくると体のあらゆる穴から出てくる臭いを気にする。せめて口くらいは清潔に保っておきたい。そして日に日に減っていく頭頂部の髪の毛を丁寧にくしで撫でる。ちまたではこの髪型をバーコードと言っているようだが、若者が禿げ上がったらQRコードとでも呼ばれるのだろうか。
そんな中年の私にも一つ、自慢出来る事がある。ほぼ毎日快便なのだ。勿論腹が痛くなった事もあるし、ストレスやなんかで軟便になったり下痢気味にもなる。ただ通勤中に急な腹痛に襲われた記憶も無いし、妻の様に便を溜め込む事も無い。ほら見てみろ、このオオサンショウウオのような立派なブツを。流すのが惜しいくらいだ。無論流すが。仮に放っておいたら妻に三行半を叩き付けられる羽目になるだろう。ちなみに娘は今年から大学生で一人暮らしを始めた。丁度いい緩衝材のような存在が居なくなった今、出来るだけお互い不快にならない生活を夫婦二人で心がけていく必要がある。
会社での私の評価は可もなく不可もなく、と言った所だろうか。別に怒りっぽい訳じゃないし、部下をいびったりもしない。その代わりもの凄く頼りになる人間でもないので、仕事のアドバイスを聞きに来る後輩なんて居ない。それでもこれといって大きな問題の起きない、平穏無事な生活に私は満足していた。
しかし、ある日を境に少しずつ私の日常が変わり始めた。正確な日は覚えていないが、妻が夕餉に刺身を出してくれた時があった。美味い美味いと缶ビール片手に舌鼓を打ったのだが、その次の日の朝の事だ。
便が出ない。
おかしい。いつもは座って数秒もしないうちに天啓のように便がおりてくる。そしてつるりと肛門から排出されるのに、その日は出て来る気配がまるでなかった。一番奇妙だったのは便意、もとい下っ腹に何かが留まっている感覚はあったのだ。だからズボンを脱いで便器に座った。でも出ない。先ほども述べた通り、私はストレスや自律神経が弱ると下痢気味になるが、便秘になった試しなど一度も無い。これは誤算だった。あまりに自然に排便を済ませていたので、ここで時間を食われるなんて予想だにしていなかった。これ以上時間をかける訳にもいかない。苦渋の決断だった。私は人生初、腹に排泄物を残したまま出勤した。仕事中、一度も便意を催さなかったのは不幸中の幸いだろう。トイレに入りたいという衝動は無かったものの、ずっと腹に違和感を覚えながら書類をまとめ、会議に出席し、電車に乗り、家に帰った。一日目とはいえ、便秘はこんなにもつらいのか。ずっと居座っている。体に老廃物が残留し続ける不快感を初めて知った。
そして宿便記念日から便が尻の穴から出て行く日は来ない。宿便記念日が続くばかりで排便記念日は一向に訪れない。昨日も出ない、今日も出ない、恐らく明日も出ない。滞在許可証でも持っていれば別だが、コイツは恐らく不法滞在だ。腹に何かあるのは分かっているのに、それを体外に放出出来ないもどかしさ。私の心持ちも下っ腹も鬱屈していた。
何日か経つと宿便生活にも慣れ始めていたが、やはりどうにもおかしい。普通の便秘とは違う、気がする。腹に違和感はあるものの、膨満感は無いし、下腹がぽっこり出て来る訳でもない。ただ、左足の付け根に添う様にふくらみが出来ていた。恐らくここで便が止まっている。そう思った。何の気なしにそのふくらみを指でなぞる。
ぐにゃり。
少し動いた。心が反応する前に体が反応し、のけぞる。そのあと変な汗が出て来るのと脈拍が上昇するのが分かった。こいつ生きているのか?それとも腸が動いただけか?その答えはすぐに出た。ふくらみが徐々に下に移動し始めた。そう、菊門に向かって。しかも捻れながらぐりぐり進んでいくので痛くて痛くてたまらない。便が生きているのか?
「ううっ!……ぐあっ」
今までに感じた事の無い激痛で「痛い」と素直に反応出来ない。頭がついて来ない。何だこれは何だこれは。呼吸が浅くなる。しかしリビングで脱糞すれば三行半。腸と便が擦れ合う形容し難い腹痛と戦いながら、わずかに残った理性が私をトイレへと向かわせた。その間もぐにぐにと便は腸内を進行している。
「うっ、うおお……」
手で尻を押さえ、腰を屈める。トイレのドアノブが自分の頭と同じ高さにある。なぜ腰を屈めるのかはっきりとした理由は分からない。防衛本能だろうか。それともこの姿勢が楽なのだろうか。痛みを直視したくないが為に、浅はかな現実逃避を始めてしまった。頭皮じゃない、逃避だ。今はなぜ屈んでいるかを考えるのではなく、この激痛の根源を絶たねばならぬ。
ハアハアと息も絶え絶えにズボンを下ろし、便座に腰掛けうずくまる。吐き出す息の波も弱々しく震える。中年親父の喘ぎ声程みっともないものは無い。頭がふらふらして来た。全身の血液が腹部に集中しているのだろう。体の細胞全てが協力して、この異物を追い出そうとしてくれている。
「ぬっ、ふああっ」
尻の穴が拡張する。もうすぐ、もうすぐだ。頑張れ、頑張るんだ私。自身を鼓舞する。腹痛は自分との戦いなのだ。途中で諦めればかえって痛みを長引かせてしまう。私はこうやって成長して来た。
にゅるり。
これといった音も無く、外へ出て行った。まあ、あまりにも下品なので普段どういった排出音なのか、具体的に述べるのはここでは控えさせて頂く。
さっきまでの苦痛は嘘のように消え去り、私は再び訪れた平穏を、私の体を支えてくれている全ての細胞と分かち合う。良かった、本当に良かった。ゆっくりと呼吸をし、尻を紙で拭く……何だこれは。黄色い粘着質な汁が紙に付着していた。腸から染み出た消化液だろうか。その黄色い液体だけだ。便の残りかすはこれっぽっちも付いていない。じゃあ私は今、何を出したんだ?ズボンを上げる事も忘れて立ち上がり、恐る恐る便器の中を見る。
「うわっ!」
白く光沢のある、丸みを帯びたやや縦長のそれは、卵だった。鶏卵とは違う形をしており、殻もどちらかというと柔らかそうに見える。気が動転した私はケツを拭いたトイレットペーパーを投げ入れると直ぐに水に流した。詰まる事も無く、気色の悪い卵はザバザバと便器の中で回転する渦の中へ、瞬く間に吸い込まれてしまった。放心状態でズボンをはき、トイレから出る。
見間違いと思いたかったがそうもいかない。長い間便秘に悩まされた事実も、さっきまで抱えていた腹の違和感も、それをひねり出そうとした時に感じた痛みも、そして……あの脳裏に焼き付いた卵も、勘違いのはずが無い。でも、なんだろう。何を見間違えたかったのだろうか……ちり紙についた黄ばんだ液体か?違う。じゃあ尻の穴からでて来た卵か?それも少し違う……そうだ、私はあの卵を流してしまった事に対して罪悪感を抱き、気味が悪いとも思ってしまった。それから目を背けたかったのだ。なぜ私から卵が産まれて来たのか分からない。しかし未曾有の事態を飲み込めず、心の荒波が感情の砂粒を巻き上げ、やがてその波が静かになり始め、自責の念の澱が心の底で粛々と堆積していくのを感じたのである。
あの一件以来、宿便には悩まされていない。だが心の中に空洞が出来ている。スースーと冷たい風が行ったり来たりしている。飯を食っている時も、便を捻り出している時も、仕事をしている時も、ずっとあの卵が気になって仕方が無い。私が不注意で流してしまった卵、私からでて来た卵、私の卵。卵、卵、卵……無事で居て欲しい。一度妻が朝飯にゆで卵を出した際、これを尻の穴に入れたら、またあの時のように出て来てくれるのだろうかと気違いじみた考えが頭をよぎった事さえある。しかし、私が抱えていた不安は思わぬ形で終わりを告げる。
私は卵の事を考えながらスクランブルエッグを食べていた。テレビでは謎の水玉模様の服を着た女子アナがニュースの原稿を読んでいた。毎日違う衣装でテレビに出るのも苦労が多いに違いない。
「さて、本日のニュースです。Q県ハラワタ市にある下水処理場で、謎の卵が発見されました。現場の蝶野長子さん?」
私はテレビに釘付けになった。……た、卵だと?しかもQ県ハラワタ市は私達夫婦が住んでいる所だ。
「はい、こちら蝶野です。今私は下水処理場の沈砂池に居ます。こちらは下水処理場で働いていらっしゃる水野清美さんです。よろしくお願いします」
「お願いします」
「早速質問なのですが、沈砂池とは具体的に何をする場所なのでしょうか?」
「そうですね、まず最初に下水に含まれる大きなゴミ、砂粒などを沈めて取り除く所です」
「つまり浄水処理する最初の場所、と言う事でよろしいでしょうか?」
「はい、その通りです」
そんな汚い所に私の卵が?いや、まだ私の卵と決まった訳ではない。早く映せ、テレビ!こんな所で時間を使うんじゃない!
「では早速その卵を拝見してもよろしいでしょうか」
「はい」
いや、そう言うのは良いから。もう許可は取ってあるんだろ。本当に薄ら寒い演技だ。カメラがほの暗い建物内を進んでいく。きっと臭いもかなりキツいのだろう。
「あっありましたありました!見えますか?」
カメラが映してくれないと見えないだろうが。視聴者を何だと思っている……ふっ、テレビに向かって悪態をつくなんて、私も随分と歳を取ったな。でも今は卵だ。テレビカメラがゆっくりと四角い人工の池を映し出す。ああっ!あれは、あれは……あの、白くて艶のある殻。紛れもない、私が産み落とした卵。そう直感した。あの時は気が動転して流してしまって申し訳なかったなあ。でも割れていないし、以前より随分と大きくなっているじゃないか。
「うわ〜、本当に卵ですね。でも先ほど伺った話ですと、ここは浄水処理の一番最初の段階との事でしたが、水は既にこんなに綺麗なんですね」
「それなんです。実はこの卵が流れ着いてから汚水がみるみる綺麗になっていって……この最初の施設で、飲み水とほぼ同じ水質まで戻ってしまうんです」
なんだと。私の卵はそんな力まで持っているのか。さすが、私が産んだだけある。そういえば私が宿便だと思っていた時も、最終的に便は一回も出て来なかったし、腹にも溜まってもいなかった。コイツが全部浄化していてくれていたのか。なんと、なんと親孝行な卵よ……はっ、いけないいけない、年甲斐も無く涙を流してしまった。それとも歳を取って涙腺が緩くなったのか。まあいい。私は、私の産んだ卵が無事で嬉しい。
「と言う事で現場からは以上です」
おい!もう終わりか!くそっ!録画しておくんだった。でも、少しだけでもアイツの姿を目に焼き付けおけて良かった。無事に育って欲しいという思いとは裏腹に、二度とあの卵を目にする事は無いだろうと私は思っていた。普通に考えてあんなもの処分されるに決まっている。
数日後。
「今日のニュースです。先日お伝えした下水処理場の卵。覚えている方はいらっしゃるでしょうか。実はあの卵、成長を続けております。現場の蝶野さん?」
アナウンサーがショッキングピンクのワンピースを着ている。こういう服は一体どこから見繕って来るのだろう。それより順調に育っているのか。下水処理場で処理されてしまっているとばかり思っていたが、って……え?
「はい、現場の蝶野です。皆さん、お分かり頂けるでしょうか。先日お伝えした卵は人工池の中で浮いていたのですが、現在では建物の天井につくまで巨大化しております」
なんと!想像より遥かに大きくなっているではないか!凄い!感慨深いなんてしみったれた感情を通り越して、私は今、驚愕している。
「うわー、凄いですね。実は今日スタジオには未来実践創造学院大学・卵学部教授の外殻鶴太郎さんにお越し頂いております。よろしくお願い致します」
「はい、よろしくお願いします」
「早速質問なのですが、こういった卵は地球上に存在するのでしょうか」
存在しているだろ、アホか。
「しているから有るんでしょう。現に私達は映像を通して見ています。ただ、今まで例があるかと言えば、ありません。お恥ずかしい限りですが、私も初見です。情報によりますと、下水の水が綺麗になっているとの事ですが、きっとこの卵が養分として吸収しているのでしょう」
「なるほど。では具体的にどのような生き物の卵か、というのは推測出来ますか?」
「そうですねぇ。鶏卵でない事は確かです。形状的には虫の卵に近そうですが……ただこの大きさを保っていられるのが不思議でしょうがない」
「と言いますのは?」
「ほら、我々が住んでいる地球には重力が働いているでしょう?端的に申しますと、サイズが大きければ大きい程、形を保つのは難しくなるんです。普通の卵がこれくらいの大きさならもう潰れていますよ」
さすが教授だ。言っている事に説得力がある。卵学部がいまいち何なのか良く分からないが、きっと様々な角度から卵を研究しているのだろう。
この放送がきっかけで、SNSや某動画サイトでのLIVE配信、テレビの生放送などで私の卵は頻繁に取り上げられるようになった。そして私は逐一卵が大きくなっていく様子を観察し、悦に入っていた。
「皆さんおはようございます。今日は本来の予定を変更し、Q県の下水処理場に出現した謎の卵の速報をお送りしたいと思います。現場の蝶野さん?」
ようやく世間が私の卵の素晴らしさに気がついたか。自慢でもあり少し悲しくもある。なぜなら私だけの卵だったのに、今は様々な人間の好奇の目に晒されているからだ。それでも私はこの卵の行く末を見届けたい。例え今日が休日の昼間だとしても。
「はい!こちら現場の蝶野です!今私はヘリに乗って上空から卵を見下ろしております!既に建物の屋根を突き破っており、大きさは十メートルを優に超えています!」
「蝶野さん、ありがとうございます。では本日も未来実践創造学院大学・卵学部教授、外殻鶴太郎さんにお越し頂いております。よろしくお願い致します」
「はい、お願いします」
この教授も今や時の人だ。様々な番組に引っ張りだこで、彼の顔を見ない日は無い。未来実践創造学院大学・卵学部は最近の検索急上昇ワードだ。
「このスタジオに初めてお邪魔させて頂いてからもう二週間くらい経ちますが、大分大きくなりましたね。いやあ、やっぱり何回見ても奇妙ですね、こんなに大きな卵は」
その時は突然やって来た。
「スタジオの羽出野福美アナ!卵が!卵が!」
「蝶野さん?どうかしましたか?」
テレビの画面がヘリからの映像に切り替わる。そこにはギザギザした波模様のひびが、卵にくっきりと刻まれていた。
「ああっ!ついに!ついにか!」
もう黙ってなどいられない。私は液晶の前で仁王立ちし、両拳を握りしめ、懸命に外界へ出て来ようとする我が子を叱咤激励した。
「いけっ!そうだ!頑張れ!あと少し!おおっ!」
ついに殻を完全に破り、私が産んだ子が姿を現した。黒光りした細長い体、蜂のような触覚、つぶらな二つの黒目、少し黄味がかったコオロギのような六本の逞しい脚、腹には沢山の節が見て取れる。そして立派な鋏が尾端から伸びている。我が子は自身の脚を器用に使い動き始めた。
「そうか、会いたいか。心配するな、今から向かうぞ」
そう言うと私は着の身着のまま玄関を飛び出した。
「うわ、教授!産まれましたよ。ちょっと何というか、かなり気持ち悪い見た目ですね……」
「これはハサミムシに近いかなあ。見た目はそっくりですが、やはりこれだけ大きいと、ハサミムシに近い何かですね。普通地球上にこんなものは存在しませんよ」
「と言いますと?」
「あくまでも仮説ですが、地球外から来た可能性も考えられます。地球上にある物質だけであのような巨体を支え、なおかつ俊敏に動く事は不可能だと思います」
「なるほど」
「あと、もしコイツがハサミムシと似た習性を持つとなると……」
私はあの子の所を目指し、全力で駆けていた。私達は立派な親子だ。言葉を介さずとも分かる。ただ心の感じるまま走ればあの子に会えるのだ。ああ、見えて来た、美しい。ようやく会えたな。トイレに流してすまなかった。さあ、こっちへおいで。私は人々が逃げ惑う中、両手を広げ、我が子に自身の存在を示した。私はここだ。
「ええっと、それはどのような習性なのでしょうか?」
「食うんですよ、親を。と言ってもハサミムシのオスはほとんど育児をしないので、食われるのは卵を産んだメスです」
「じゃあ今この巨大な虫が走って行った理由は……」
「探してるんじゃないですかね、産みの親を。勿論この巨大なハサミムシ的な何かは、ハサミムシではないので、一概には言えませんが。ほら止まりましたよ。あ〜中年の男性が居ますね、手を広げています。彼も分かって居るんじゃないでしょうか。あ、映しちゃまずいかもしれませんね。食われますよ、これ。あーやっぱり食われちゃった」
「ここで速報です。世界各国の下水処理場で似たような卵が次々と発見されています!教授、これはかなりまずいのではないでしょうか?」
「いやあ、人類滅亡とかは無いと思いますよ。下水処理場で見つかるって事は人間の汚物を吸収して大きくなると考えて良さそうですから。彼らにとってのエサを作り出す人間が居なくなっちゃ、それこそまずいでしょ。ああやって食われる人は少なからず出て来てしまいますがね。まあ共存ですよ、共存。はっはっは」