夏祭
紺の浴衣で佇む二人は、人混みの中でも目を引いた。
「翠。紫」
彼らは話を止めてこちらを見た。夏の宵が涼風にそよぐ。
「遅いじゃないか、カミツレ。誘ったのは君のほうだろう」
紫は腕組みを崩さず、刺々しく僕を詰る。
「ごめん、途中でクラスメイトに会ったものだから」
「クラスメイトだって」
莫迦にしてる、と言いたげに紫は翠に話を向けた。
「僕達だけがソーダ水の友人じゃないさ、紫」
「でも、僕等は……」
翠はエメラルドの瞳で紫を見据え、一度だけ首を横に振った。途端に紫は口を噤んで紗綾形の浴衣の袖を下ろした。
居たたまれなさに肺が縮む。
「悪かったね、ソーダ水。せっかく誘ってくれたというのに」
翠はめずらしく気弱そうに微笑んだ。浴衣の刺子縞は彼をいつもより長身に見せた。
「僕の方こそ」と素直に言葉が出た。
「カミツレ」
ぶっきらぼうな声。一対のアメシストに映り込む灯がか細く揺らめく。
「約束通り、僕達を案内してくれるだろうね。きちんと、最後まで」
「勿論さ」
紫の頷きを確かめて、僕はほっと胸を撫で下ろした。
息を吸い込むと甘辛く香ばしい煙が鼻をくすぐる。
「行こう、二人とも。祭の夜だよ」
頭上に並ぶ提灯。ひしめく夜店。一晩限りの光と色と喧噪。
翠と紫が背負っていた湖畔の宵の気配はアセチレンランプの眩しさに紛れた。
二人はまるで五つか六つの子供のように、夜店に片っ端から首を突っ込んでいた。
ソースの焦げる匂い。コルク弾のはじける音。セルロイドのぴかぴかしたおもちゃ。小気味よい売り文句で客を集めるくじ売りに、黙って焼き鮎を並べる男。
翠は枕のような綿飴を、紫は鮮やかな色のかき氷を買った。僕は甘い湯気を上げるベビーカステラを買って、歩きながらぽくぽくと食べた。
三つ四つ立て続けに頬張って、僕は紫を呼んだ。「なに、カミツレ」と応えた彼の唇や舌は南国の蝶の色合いになっていた。
「よかったらかき氷を分けてくれないかい。カステラを一つあげるから」
紫は透明のカップを僕に手渡し、ほの温かいカステラをつまんでいった。
「ソーダ水、僕の綿飴との交換はどう」
「綿飴じゃ余計喉が渇きそうだね。カステラがほしいなら食べていいよ」
翠は屈託なく僕の紙袋に手を伸ばした。
喉を潤した僕は片手にかき氷を、片手にベビーカステラを持って歩いた。紫はこちらを振り返りもせず、夢を見るように気儘に祭を泳いだ。
不意にその足が止まった。
「金魚飴だ」
竹ひごに刺さった何匹もの金魚が夜気に鰭をなびかせていた。その向こうでは法被に鉢巻姿の飴細工師が和鋏を細かに操る。
ぱちん、ぱちんと音がする度に飴の塊が丸い腹や小さな鰓へと変じる。ぬらぬらと体をくねらせる金魚がまた生まれた。
「これ、あっちに連れていったら泳ぎ出すのじゃないかな」と翠が金魚すくいの看板を指した。
「まさか」と言いながらも紫の目に愉快そうな色が浮かんだ。
「坊ちゃんがた、実はあの盥に一匹だけうちの金魚が交じってるんですよ」
僕達は一斉に「え?」と飴細工師を見上げた。その時には彼はもう、寡黙に飴を練るばかりだった。
次々と夜店を冷やかす。金魚すくい屋の盥も覗いてみたけれど、紛れているという金魚飴は判らなかった。僕は冷めかけたベビーカステラを片付け、かき氷のカップに残ったシラップをちゅうちゅう吸って、舌を紫と同じ色に染めた。
お好み焼き屋とフランクフルト売りの間。ぽっかりと空いた隙間を紫が見つけた。
「道がある」
「行ってみようか」
翠は返事も待たずに一人で足を進めた。紫と僕は顔を見合わせてから彼を追った。
賑わいがぴたりと聞こえなくなった。提灯やアセチレンランプの黄ばんだ明るさも届かず、足元を見るのがやっとだった。
思わず背後を振り返りかけたところに「ソーダ水、早く」と促す声が届いた。
翠は一軒の建物の前にいた。扉は細く内向きに開いていて、その両脇には吊りランプが一つずつ、本物の燈を燃やす。
「なんだい、ここ」
「店のようだよ。覘いてみないかい」
眉をひそめるかと思った紫が「そうだね」と首肯するものだから、僕はすっかり驚いた。
「怖いの、ソーダ水」
「怖いものか」
翠の物言いにむっとして、先陣を切って踏み入る。
しんと揺らめく暖色の光。まるで東に夜を滲ませる夕暮れ刻 ── 一日のなかでいちばん寂しい心持ちになる時間帯。
重厚な木の机や棚には硝子細工がめいめい遠慮深い距離を保って並んでいた。
僕達は自然と押し黙って品々を見比べた。
す、す、と摺り足が聞こえた。見れば禿頭に丸眼鏡の老人がランプを掲げて、古の鉱山を見回る足取りでこちらへ向かってくるところだった。
「お若いお客さん方、ようこそいらっしゃいました」
ゆっくりと声を染み渡らせて老人は背を丸く曲げた。ほんの気紛れで入ったに過ぎない僕達は後ろめたさを抱えてお辞儀を返した。
老人は「よっこらしょ」と店の奥の椅子に腰を下ろした。途端に彼は周囲に馴染み、僕達が来る前からそこにいたかのようだった。それだから僕達は滑らかに品物に意識を戻すことができた。
グラス、花瓶、灰皿、ペン、全てが硝子で、煌めいていた。
「パイプまで硝子だ」
紫は竜胆の描かれた澄んだパイプの前に立っていた。
「ハッカパイプですな。薄荷糖も入れて差し上げますよ」
店主は何もかもをわかっている声音でそう伝えた。紫は目を閉じて、心持ち唇をすぼめて息を吐いた。
「なら、これは何だろう」
翠が見ていたものは飛び立つ間際のシャボン玉に似ていた。球の表面には赤い花火が描かれている。
「びいどろと言いまして、優しく吹いてやると涼しく軽く、それは良い音がいたします」
びいどろ、と翠はその名前を繰り返した。
僕が興味を惹かれたのは色とりどりの浮き玉だった。ビー玉ほどのものから、大きくても片手に乗るくらいの。
「池や金魚鉢に浮かめますとな、硝子の色が水面に映ってゆらゆらと夢のようでございますよ」
浮き玉の表面の蓮が僕の心を揺らした。
僕達はめいめい気に入りの硝子と共に店を出た。祭へ戻る道すがら、代わる代わるに翠のびいどろを鳴らした。ぽぺん、こぷん、と堅い泡が空に上る音がした。
提灯の下をくぐると、張りつめた皮を破ったように熱気が押し寄せた。すぐそこで大きな蒸篭の蓋が開き、蒸し玉蜀黍の青々しい湯気が立ち込める。
人出は先ほどよりもますます増えたようで、会話をする余裕もない。紙袋に包んでもらった浮き玉を大切に胸に抱えて翠の背を追った。
朝顔売りの行列を横目に過ぎると息もできないほどの混雑はようやく落ち着いた。涼しい風に頬の火照りが引いていく。
翠は道の端に立って僕達を待っていた。すんなりした立ち姿と首筋は青竹を思わせた。
「あの人混みでそれを吸っていたのかい。よく落とさなかったね」
「そんな迂闊な真似なんかしないさ」
紫はハッカパイプから薄荷糖の香りを楽しみ、ゆっくりと息を吐いた。見えるか見えないかといった程度に空気が蒼くなり、紫の姿が陽炎めく。
「カミツレ、君も一口どう」
冷たい硝子の管を紫の細い指から借りる。砕いた藍晶石のような薄荷糖を吸う。つんと刺激が喉の奥を刺して思わず咳いた。
「急ぎすぎだよ」と紫が笑い、続けて「翠、君は」と尋ねる。
「遠慮しておくよ。落ち着いたかい、ソーダ水」
僕はハッカパイプを紫に返して頷いた。
気ままに露店をぶらついていた僕達は、今度は骨董売りの前で足を留めた。
いかにも古びた敷き布に雑多な品々が散らばっている。店の主人は売る気があるのかないのか判らない態度で地面に座りこんでいた。
骨董の並びには国、時代、値段といった秩序らしい秩序が全く見えない。品物を詰め込んだ鞄を無造作にひっくり返しただけじゃなかろうかと僕は秘かに疑った。
「お祭らしいものも置いてある」
翠の指す先には、色のくすんだ狐面があった。
「たまたまだろうね」と紫が骨董売りに聞こえないように声をひそめた。
「どうぞお試しください」
沈んだ声に僕達は一斉にびくりとした。
「それなら」と翠が狐面を顔にあてがう。
「似合うかい」
僕は答えられずに瞬いた。面のせいでくぐもった翠の問い掛けは別人のもののように聞こえた。
「君が気に入ったのなら買うといいさ」
紫はさして興味もないようだった。翠は軽くため息をついた。
「……紫」
面の下から呼ぶ声。小さな抽出しを開け閉てしていた紫は「まだ付けていたの」と呆れた顔をした。
「取れないんだよ。助けてくれないかい」
「え?」と僕と紫は同時に声をあげた。
「くだらない悪戯もいい加減にしてくれ、翠」
紫の細い指が狐の顎にかかる。彼の顔色がさっと変わった。
「僕の言ったとおりだろう」となぜか得意げな色を滲ませて翠が言う。
「ああ、もう。翠、君はどうしてそんなに考え無しなんだ」
いらいらと面のふちを滑るばかりの指先。頬に爪が食い込むたびに翠は「痛いッ」と声をあげた。
狐の耳を掴んで引き剥がそうと試みてから、紫は「カミツレ」と僕を手招いた。こちらが泣きたくなるほど脆い瞳だった。
翠の体をもつ白い鼻先もこちらを向いた。僕は唾を飲み込んで、狐のこめかみと翠の髪の間に思い切って手を差し入れた。
薄く汗ばんだ体温を感じた。と思った次の瞬間、あっけなく浮いた狐面が僕の手の甲を撫ぜる。慌てる僕の腕や掌を何度か跳ねて、古い面はようやく手の中に落ち着いた。
僕はまるでぽかんとしてしまって、企みの笑みを浮かべる狐を見下ろしていた。
「なんて顔をしているんだい」
快活な翠の声。顔の輪郭にうっすらと赤い線が付いている。
「だって君、取れないって──」
「なんだ、本気にしたの」
翠は言うなり刺子縞をくしゃくしゃにして笑い転げた。頬がかっと熱くなった。
「君……、君だけだったら、僕だってきっと信じなかったさ。でも紫まで言うものだから」
「聞いたかい、翠。カミツレは君を信用していないのだってよ」
色つきシラップのように笑いをたっぷり含ませて紫がからかう。
「君だってたった今、僕の同類になったところじゃないか」
むきになる翠に小生意気に首を傾げてみせ、紫は目を細めて神秘的に僕に笑いかけた。
「カミツレ、君がいてくれて良かったよ」
白く透き通るような指が僕の手から狐面を取る。僕はものも言えなかった。
骨董売りの敷物に再び屈んで、「これも面白そうだ」とブリキの人形を指す。
「ぜんまいを巻けば動くのかな」
翠がしゃがんで首をかしげる。
彼らの注意が僕からそれて、気恥ずかしさの炎がだんだんと胸をざらつかせ始めた。
今夜の二人──特に紫──は僕を振り回してばかりだ。
最初に待たせてしまったことが尾を引いているのか、反対に祭の雰囲気に浮き立っているのかもわからないけれど。
ちょっとした仕返しをしようと、肩を並べて細々した品を眺める二人の背に告げる。
「僕、先に隣に行っているよ」
「カミツレ」「ソーダ水」
彼らが同時に上げた慌て声も聞こえなかった振りをする。骨董売りの隣は東西の香辛料をずらりと広げる七味唐辛子屋だった。客の希望を聞いては大きな匙で掬った粉を交ぜ合わせる。
唐辛子、柚子、紫蘇、生姜、匙が動くたびにちりちりと空気に刺激が舞う。僕はくしゃみをこらえ、翠や紫が来ないか後ろを気にしながら、それでも努めて何気なく装っていた。
一瞬、周りの喧噪が遠退いた気がした。薄いカーテンを隔てたように。見えるものは変わらない。前も後ろも果てなく提灯が連なっている。二人の姿は見付からない。
「……翠? 紫?」
前触れなく襲ってきた心細さに踵を返した。空気が見知らぬ人の話し声で埋め尽くされている。くっきりと聞きとれる単語は一つもない。
熱した砂糖、生魚、ヴァニラ、雨の日の地面、炭の火、白い花、零れた麦酒、樟脳、果物。渦巻く匂いが思考をぼかす。
変わらない景色を僕は掻き分け進んだ。
夜の天幕が裂ける音。金ぴかの喇叭がわざとリズムを狂わせたような行進曲を響かせる。
気付けば僕の躯は四方八方から人々に取り囲まれて、指先も動かせない程だった。
熱狂の人の濁流は僕を飲み込んで一塊に何処かを目指す。懸命に目だけを動かしてみても見えるのは衣服か素肌かだけだった。
喇叭はますます耳をつんざく。きっと音の源に向かっているのだろう。抜け出して翠と紫を捜そうにももがけるだけの空間すらない。
頭上が翳った。大勢の髪の隙間からやっとのことで目に映したものは、人を吸い込んでは内側からはためく、一張の巨大なテントだった。
濁流の人々はその前で来ると奇妙なまでに整然と一列に並んだ。入り口にはチケット捥りと喇叭吹きが立つ。慌てて列から抜けようとした僕の肩を誰かが強く掴んだ。翠でも紫でもない、大人の手だった。その手は僕を列に戻し入れ、進みに合わせてぐいぐいと僕を歩ませた。
息が切れるくらいの早歩きでテント前の列は捌かれる。後ろの手はまだ僕の肩を捕まえたままだ。
テントは赤黒の市松模様で、催しや素性の手掛りは何一つ書かれていない。
一人、また一人と僕の前から人が消える。チケット捥りに近付くにつれて不安で胸の裡が冷たくなった。いや、僕がチケットを持っていないことが判ればこの得体の知れない列からは解放されるに決まっている。
猛禽に捕まった獲物じみた格好のままチケット捥りの前に出た。彼の隣の喇叭吹きは無遠慮に行進曲を浴びせかける。
「あの、僕、チケットを……!」
音楽に負けじと声を張り上げる。チケット捥りは僕の顔の前で何かを破る仕草を見せつけ、「ハイ、結構」と僕を通した。
「待って、僕はこんな」
「ハイ、結構。ハイ、結構」
肩を押されてテントに足を踏み入れる。てっきり暗いものと覚悟しきっていた僕の目は、煌煌と輝く白熱灯に眩んだ。
正面に下がる分厚いタペストリー。人々はそれをめくって更にテントの内側へ。立ち止まりたかったけれども肩の手はそれを許さなかった。
タペストリーは湿気を帯びて重い。むっと立ち上る獣臭さは、動物の毛を生きたまま毟って編んだのかと思う程だった。
ほんの数秒前とは打って変わって、そこはのっぺりと暗かった。点々と提がる蝋燭の灯は明かりのためというより空間の広さを際立たせるために使われていた。
人の気配が行き来する。目を凝らすとテントの中心に敷かれた丸いカーペットが見えた。その模様は外で見たのと同じ、赤黒の市松。カーペットを取り囲むようにぐるりと木の柵が巡らされている。
肩を掴む手はいつのまにか消えていた。人いきれの中見渡しても出口は見つけられなかった。
タペストリーが揺れて刃物のような光が射し込んだ。身を屈めて入ってきたのは細長い人影だった。後ろに従える喇叭吹きの倍くらい背が高いように見える。
彼は歩きながら声を発した。外にいたあのチケット捥りだった。
「ようこそ皆々様、祭の宵の見世物小屋へ」
一足踏み出す度に彼の背はどんどん高くなる。
「上から失礼。こうしてこの盛況を見渡しますのが何よりの喜び」
柵を跨いでカーペットの中央に着いた時、彼の頭が天井を掠めた。遥か頭上から更に二、三の口上が降った。
見世物は他愛無いものだった。檻に入った猛獣、火吹き男、蛇遣い。テントを出ようと身じろぎする度に周りから小突かれ、僕は其処に留まっていた。見世物師が動く度に、チケット捥りの影がちろちろと揺れる。
「さあ、次はいよいよ今宵の目玉、発条仕掛けの絡繰人形でございます。生きているかと見紛うばかりのこの二体、是非目近に御覧あれ」
光の筋から姿を現したそれを見て、思わず叫んでいた。
「翠! 紫!」
彼らの首の後ろには大きな発条ねじが刺さっていた。僕の声を聞きつけた気配もなく、翠と紫に瓜二つの人形──人形だと信じたかった──は無表情に観客の間を縫ってテント内を歩き回る。
腕が幾本も幾本も伸びては二人の頬や髪や手を撫で回した。盛んに囁き交わす湿った熱量が僕から酸素を奪う。
動悸を静めて二人がこちらに来るのを待った。酔客らしい男が紫の顎を上げさせて喉の奥で笑う。
二体の人形は表情のないまま僕の隣に歩んだ。艶やかな髪は乱れていた。触れそうな程近くで見ても、やはり翠と紫そのままに見えた。
通り過ぎようとした二人の手を掴む。硬質な陶器の感触。
人の壁にぶつかりながら無我夢中で走った。
檻の中に寝そべっていたはずの猛獣が吼えた。掌の汗が滑る。二人を離さないために手に力を込めた。チケット捥りの影が行く手を遮る。テントの端を駆け回っても出口が見えない。両手が塞がっているせいで上手く走れないのがもどかしい。絡繰人形への好奇の手が僕にまで伸びてきた。身を捩って振り払い、時には噛みつこうと歯を剥いて抵抗した。
猛獣が唸る。その生臭い息が首筋にかかった気がした。足首を擦る冷たい感覚は、蛇が僕達を搦め捕ろうと這いずっているのだった。
外の風が一瞬だけタペストリーを動かした。考える間もなく、視界の端を刺激した光へ飛び込んだ。
翠と紫の手を握り直してテントから転がり出る。懐かしい提灯とアセチレンランプの橙色。僕は喘ぎながらも祭の賑わいを走り続けた。
「カミツレ!?」
聞き覚えのある声。首を向ければ刺子縞の浴衣に身を包んだ翠が目を円くしている。
「どうしたというんだい、そんなに血相を変えて」
「さ、さっき……、向こうの、見世物……。君、と、紫……」
ざわめく心臓が収まらない。背後に目を遣る。必死に掴まえていたはずの翠と紫の絡繰人形は忽然と消えていた。
言葉も見付けられずに前後を見比べるばかりの僕に、優しい声音が届いた。
「大丈夫かい。暫く静かな場所で休んだ方が良さそうだよ」
浴衣から見える健やかな手首。僕へと差し伸べられていた。
「行こう、カミツレ。紫もあちらで待っているから」
彼の手を取りかけていた僕は、その言葉を聞いて慌てて身を引いた。
「君はだれ」
まっすぐに通った眉が上がる。
「まさか忘れてしまったの、カミツレ。僕は──」
「翠じゃない。僕をカミツレと呼ぶのは翠の方じゃない」
エメラルドの瞳が悔しそうに吊り上がった。翠の姿は見る見るうちに足元から白い煙に包まれた。
全身が覆われ、煙が翠の顔を作っていた辺りに凝り固まり、不意にカランと音を立てて落ちた。
見ればそれは骨董売りの敷物に陳列されていた狐面だった。
気味が悪くて仕方なかったけれど放っておくわけにもいかず、僕は指先でそれを摘み上げた。そうして冷たい汗が収まるまで、反対の手で胸を押さえて荒い息をついていた。
「……ソーダ水!」
その声に顔を上げる。狐面はきちんと僕の手にある。翠に二、三歩遅れて紫も駆け寄って来た。
「方々捜したよ。……ごめんよ、そんなに怒らせたなんて思わなかった」
「……僕もこれほどはぐれるつもりはなかったんだ」
進み出た紫は落ち着かなげにハッカパイプの吸い口を真珠色の前歯で軽く噛んでから、口を開いた。
「約束しただろう。僕等を案内してくれるって」
「ごめん、紫」
紫は薄荷入りの蒼い呼気を薄く吐いて、僕に小さな紙袋を差し出した。
「君の浮き玉だよ。骨董売りのところに置いて行っただろう」
唇をぴたりと重ねた紫に代わって翠が告げる。
「うん、ありがとう」
硝子細工の入った紙袋は、投げ上げたら空に消えそうに思える程軽かった。
骨董売りはほんの少し歩いたところにいた。売り物のはずの面を僕が敷物に戻しても、彼は何も言わなかった。
祭を後にして湖畔へ至る道々、僕達は翠が買った綿飴をてんでに千切って食べた。
人混みに圧し潰されてはいたけれど噛み締めると一瞬後には跡形も残さず溶けた。
二人の乗ったボートを見えなくなるまで見送り、僕は僕の家路に就いた。
残念なことに、帰る途中で浮き玉は割れてしまった。勢いよく僕を追い越した自転車に驚いて落としてしまったから。
欠片と化した浮き玉の様子を確かめる決心もつかず、かといって潔くそれを捨ててしまうこともできず、祭の夜の煌めきは紙袋に入ったまま、僕の部屋の棚に眠っている。