第9話
そこは暗い森の中。
群生する巨木の間を必死で走るのは一人の少年。
少年は息を切らしながら必死でゴブリンから逃げているのだが、地下からうねり出した巨木の根が上手く走るのを邪魔している。
少年は今やたった一人になってしまった。
生き残った少年を少年と呼ぶには些か歳を取り過ぎているのだが、かといって青年と呼べるほど大人の雰囲気でもない。それは彼のこれまでの人生が如何に薄っぺらいものであったかを物語っていた。
必死で走っているのを革靴とずり落ちる眼鏡が邪魔をする。
空腹と疲れからその足取りは頼りなく、不意に爪先が木の根に引っ掛かり、少年は派手に転んでしまった。
少年は慌てて後ろを振り向くが、そこにゴブリンの姿はない。
「立たないと。立って、逃げないと」
自分に言い聞かせるように呟き、震える足を叩いて気合いを入れる。
何故こんなことになったのか分からない。ここが何処なのかも分からない。
分かるのは、逃げなければ殺されるということ。あの気味の悪い、ゴブリンと名付けた小人のような生き物に殺されてしまうということだけだった。
少年は走り続けた。
ただがむしゃらに、木々の間を走り続けた。
すでにゴブリンに立ち向かう勇気などはなく、これからどう行動すればいいかと働く頭もない。
昨日から何も食べておらず、睡眠もろくに取れていない。空腹と疲労に挫けそうになりながら、それでも必死で走り続けることができているのは死にたくないという一心からだ。
少年は死にたくなかった。これまで何もせず、何も生み出さず、ただのうのうと暮らしてきただけの人生にしがみついていた。
情けない声をあげ、だらしない姿で走り続ける。
そんな少年が見つけたのは見覚えのある鞄。
「これは」
それは間違いなくあの時ゴブリン目掛けて投げつけた、自分の鞄だった。
少年は気付いていなかったが、がむしゃらに走った結果始めの場所付近まで戻ってきてしまっていたのだ。
「何なんだよ」
叫ぶ力もなく、小さく呟いた少年は思わず膝をついてしまった。
あれだけの時間を使い外を目指したにも関わらず、結局元の場所に戻ってきてしまった。
こういった要領の悪さは昔からずっとあった。
「それがこんな時にまで」
もう長く走る体力は残されていない。
このままここでゴブリンに追い付かれて殺されるのを待つしかない。
一瞬そんな考えが浮かんだのだが、少年は頭を振ってその考えを追い払い、おもむろに鞄を拾い上げると再び走り出した。
「どうせなら」
最悪を想像し、溢れる涙を拭う。
どうせこのまま殺されるのなら、生き抜くことができないのなら一つだけ自分の存在を残そうと少年は決めた。
少年の向かう先は一番始めに放り出されたあの場所。
神隠しにあった人達が皆同じ場所に来るとは限らない。しかし可能性は0ではない。
少年は目的の場所に辿り着くと鞄を開けてスマートフォンとノート、そして筆箱を取り出す。
まずはノートを広げてそこに大きくこう書いた。
「この森にはレベル99のゴブリンがいます。逃げてください。生き延びてください」と。
そして次にスマートフォンの画面に表示されているアイコンを全て削除し、ボイスレコーダーだけを表示させた。
そして震える指でアプリを起動し、震える声で録音する。
「気がつくと突然、この森にいました。初めは4人でしたが、みんな殺されて、今は俺一人です。殺したのはゴブリンです。あっ、ゴブリンていうのは俺がつけました。レベルが99の、すごく強いゴブリンが、この森にはいます。俺たち以外にも今までに何人も殺されています。死体も見ました。ふざけてるわけじゃないんです。これを聞いたらすぐに逃げてください。生きてください。俺は、たぶん、駄目だから」
最後の方は声にならず、そしてこれ以上喋ることはできそうになかった。
少年はスマートフォンの電源をきり、ノートを鞄にいれた。
そしてそれ以外のものは全て草むらに放り捨て、鞄を木の根本に置いた。
ゴブリンに見つかれば捨てられるかもしれない。
だがあのゴミ捨て場には死体の数に対して鞄は少なかったように思う。この鞄だって投げつけたあとそのまま放置されていたことを考えると、もしかしたらゴブリンは人間の持つ物にまでは興味を示さないのかもしれない。
どちらにしても、何も残さないよりはずっといいのだ。
「俺にできることなんて」
この程度、その呟きが終わる直前、後ろからペタペタと足音が聞こえた。
反射的に少年は走り出す。
後ろを振り返ることなく走る少年は、遺言のようなものを残す中で最期の最期まで足掻いてみようと決めたのだった。
しかしその決意はあっという間に終わりを迎える。
これまで森でしかなかったにも関わらず、ここに来て少年の目の前に現れたのは崖だった。
右も左も、どこを見ても対岸に掛かるような橋はなく、眼下に流れる川はその流れがどれ程のものか分からないほど遠い。
ここから落ちれば到底生き残ることはできないだろう。
「最期まで、こんなかよ」
逃げることさえ奪われた少年の後ろから、ぬっとゴブリンが現れた。
振り返り、改めて正面から見るゴブリンはいやらしい笑みを浮かべて何かを呟いている。
眉間に皺を寄せながら、少年はその呟きに耳を傾けた。
「タスケテ、タスケテ」
小さな声でぶつぶつと、ゴブリンはタスケテと繰り返す。
「何が面白いんだよ」
少年は拳を握る。
「誰かが言ってたのかよ、助けてって。誰かが言った言葉を、真似してるのかよ」
それは本来懇願する為の言葉。自分の命を乞う言葉。
だが言葉の通じないゴブリンはそんなことはお構いなしに殺したはずだ。
それなのに、必死で命乞いをした人間を馬鹿にするかのように真似をするゴブリンに少年は腹が立って仕方がなかった。
目の前にはゴブリン、そして後ろには崖。
どちらにせよ助からないのなら、と少年は開き直り、今やその身を恐怖ではなく怒りに任せることにした。
喧嘩などしたことはない。誰かを殴ったことなどない。
そんな少年が固く拳を握りしめ、地面を蹴ってゴブリンへと殴りかかった。
殴った本人が一番驚いたことだが、ゴブリンは少年の拳をよけなかった。よけることなく、その頬で拳を受け止めたのだ。
ゴスン、と鈍い音がしたがゴブリンの顔は微動だにしない。
にやついた顔のまま少年を見つめ、不意にその手を少年の顔に向かって伸ばした。
少年は驚きの声をあげ、慌てて後ろに下がったのだが、その時足がもつれて踏鞴を踏んだ。
1歩、2歩と思いに反して足が動く。
これ以上下がっては崖へと落ちてしまうと分かっているのに、少年の足は止まらない。
直後、少年は崖の端から足を滑らせた。
それは初めひどくゆっくりだった。そして一瞬のあと、上も下も前も後ろも分からない状態に陥り、少年は崖の下へと転がり落ちていったのだった。
それを見たゴブリンは腹立たしそうに地団駄を踏んだ。
せっかく最後まで残していたのに、と声にならない叫び声を上げる。
ゴブリンは少年の掛けている眼鏡に興味を持っていたのだ。
だから最後まで生かしておいた。壊さないように気をつけて生かしておいた。
にも関わらず間抜けにも崖から落ちて死にやがった、とゴブリンは怒りに任せて地面を短剣で滅多刺しにして、片っ端から拾った石を遥か下の川に向かって投げつけた。
そうしてそれらを一頻り終えたあと、ゴブリンはしぶしぶと森の中へと戻っていったのだった。